「細川忠隆公と前田千世(ちよ)姫」
2004.11 .3 改訂
 
細川忠隆公と前田千世(ちよ)姫夫妻は関ヶ原前後の激動に巻き込まれ、結婚後3年にして「故あって
離縁、忠隆公は廃嫡」となり、その後の消息は細川家や前田家の正史等にも殆ど言及されていない。 
一方で、二人の親である細川忠興公、ガラシャ、前田利家公、まつ(芳春院)を巡る歴史大河ドラマや歴
史小説などでこの二人のことが描かれたこともあったが、それらは細川内膳家に伝わる伝承と合致して
いない。 伝承では、千世姫はドラマに描かれたように1600年に離縁後すぐに加賀に戻ったわけでは
なく、離縁された後も廃嫡された忠隆公に付き添い、約10年京都で暮らしてさらに徳姫など4子女を生
んだ(徳姫は左大臣西園寺実晴の室)。 しかしながらこの真偽は明らかではない。
そこで二人の離縁後の消息を明らかにするため、細川内膳家資料とともに前田千世姫に関する加賀
藩側の資料なども参照し、まだ不明の点も多いが一応の推論・結論を得たので、ここに現時点での資料
として細川忠隆公と前田千世(ちよ)姫の記録をまとめた。   
この記録の作製に関しては、肥後細川藩拾遺ホームページ主催者津々堂氏、同ホームページ掲示板
寄稿者のぴえーる氏、たかゆき氏ら、および金沢市の前田土佐守家資料館からの情報提供に多くを負
った。 加賀藩関連の情報を御提供いただいたこれらの方々に対し、ここに深く感謝の意を表する。 
今後とも新しい資料があれば御教示いただき、さらに正確なものにしてゆければ幸いである。
 
内膳家縁者 細川純
 
 
「調査結果の概要」
◎前田千世姫(おちよ)は前田利家とまつの第7女。1597年に細川忠隆(忠興と玉(ガラシャ)の嫡男)
              と婚姻し、正室となる。ともに17才。
忠隆の正室は生涯を通して千世のみ。 千世忠隆の嫡男は、幼名熊千代。
                               (熊千代は1604年に幼くして死去。 号は空性院、 墓は西園寺)。
◎ガラシャ自刃の際に大阪細川屋敷から脱出したことを咎められ、千世(20才)は細川家を離縁される。
忠隆は忠興に逆らって千世の離縁を納得せず、廃嫡(1600末)され、京都で逼塞閑居した。
◎千世は、細川家離縁後も廃嫡された忠隆と実子に付き添い、少なくとも5年間以上京都で生活した。
◎千世は前田家重臣の村井長次に1605年に再嫁したとの60年後に書かれた史料が加賀にあるが、
               実際の婚儀についての記録はなかった。 
◎忠隆の子女である徳(1605生)、吉(1606生)、福(1609生)、萬(早世)の母が千世であるかどうかは
              今回の調査では判断できなかった。
◎忠隆を祖とする細川内膳家は、長谷川氏の女である菊が1621年以降に生んだ男子(忠恒と忠春)
              が継承した。
 
細川忠隆公(ほそかわただたか 1580〜1646は源姓、羽柴姓、長岡姓も有する。 
細川忠興公、ガラシャ夫妻の嫡子であり、関ヶ原では岐阜攻めに参陣し、戦功を立てた。忠隆は秀吉の
斡旋により1597年に前田利家の娘千世姫を正室としていたため、細川家は徳川家康から快く思われて
いなかった。そのこともあり、細川忠興は1600年7月ガラシャ自刃の折り千世が大阪玉造屋敷から脱出
したことを理由に、忠隆千世を離縁するよう申し渡した(内膳家資料では「故あって離縁」となっている)。  
忠隆は親に逆らい千世との離縁を承諾せず、二人で各地を回り、また前田家を訪ねて援護を求めたが
前田家でも徳川家康を憚りこれに応じなかった。 結果、1600年末には忠隆は細川忠興から廃嫡されて
しまい、千世と嫡男熊千代を伴って京都で逼塞した(内膳家資料や後述資料)。 
忠隆一家の京都での生活は、京都に所領を持ち在住していた祖父細川幽斎が援助した。
なお争点である、1605−1609年に京都で生まれた忠隆の徳に始まる4子女の母が千世あるかど
うかについては今回の調査では判断できなかった。 千世は1604年以降1613年までのどこかの時点
で京都の忠隆と別れて加賀に戻った。 村井長次との再嫁年とされる1605年(後述の村井家資料など)
に戻った可能性もあるが、もしそうなら4子女の母は千世とは別人である。 1610年以降に加賀に戻った
とすれば4子女の母は千世であり、この可能性の方が高い。
なお、廃嫡された忠隆の子孫は細川一門家臣「細川内膳家」となり、明治維新に至る。
 
前田千世姫(おちよ 春香院 1580〜1641 前田利家公とまつ夫妻の7女(末子)。
1597年に忠隆と結婚するも「故あって離縁」され、のちに加賀の前田八家一門の村井長次に再嫁した。
子供のうちで最もまつ(芳春院)にかわいがられ、離縁後のおちよあての芳春院自筆状もいくつか現存する
(前田土佐守家資料芳春院自筆状など:後述参照)。
 1600年の忠隆との離縁後、千世はすぐに実家の加賀へ戻ったとする説があるが、内膳家の資料など
を見る限りそれは誤りである。 忠隆千世を離縁させようとする徳川家康と父に逆らい廃嫡されてしまっ
たが、千世は廃嫡された忠隆に付き添って、実子の熊千代とともに少なくとも1604年までは京都で家族
として暮らしていたのである。 この時代、大名の子女である千世離縁されてのちも一緒に暮らすなどは
大変なことであったろう。熊千代を亡くしたのちに千世は加賀に戻り、村井長次に再嫁した。
千世の再嫁は1605年とされる(『前田氏戦記集』収録の「村井家伝」など:後述参照)が、この再嫁
日は加賀藩正史などには記載されてはおらず、実際に加賀に戻り村井家を継いだのは村井長次が死去
する直前であった可能性も高い。そこで、1605−1610に千世が本当に加賀の村井家に住んでいたか
どうかについて調べたが、居住の証拠は得られなかった(後述の芳春院自筆状あとがきなど参照)。 
もし千世がその時期にすでに加賀に在住していれば忠隆の4子女の母は千世ではないことになるが、
これについてはさらに調査を続けたい。  http://plaza.rakuten.co.jp/img/user/84/00/1128400/113.jpg
なお、千世には、1613年に死去した村井長次との間に実子はなかったものの、村井家で養子をとり、
  春香院となって穏やかな後半生を過ごしたとされる。    
 
 
 
「細川忠隆公と前田千世姫に関する関連年表」
 
1580年: 細川忠興とガラシャの嫡子忠隆が誕生。 前田利家とまつの7女千世(ちよ)が誕生。
 
1597. 1: 豊臣秀吉の斡旋で、細川忠隆と前田千世が結婚する。ともに17才。
 
1598年: 豊臣秀吉死去。
 
1600. 1: 徳川家康、細川忠興に対し第3子忠利を質に出させ、見返りに豊後杵築6万石を与える。

1600. 7: 関ヶ原の戦いを前にガラシャは石田三成方の人質になることを拒み細川大阪邸内で自刃。 
                そのとき千世(当時20才)は、細川大阪邸から、姉の豪が嫁していた隣の宇喜多邸に脱出。 
 
1600.8-12: 脱出が忠興の怒りに触れて、千世を細川家から離縁するよう忠隆に言い渡す。
注)忠隆は8月岐阜攻めに参陣、功をたてる。
   注)千世はすぐに前田家に帰ったとの説がある(歴史大河ドラマなど)が、それは誤りである。
   注)忠隆は離縁を納得せず、千世と高守城(中国地方?)に逗留したが、忠興の耳に入り退去した。
   注)忠隆千世とともに加賀に行き、前田家の援護を求めるが叶わず(内膳家資料)。

1600. 12: 忠隆は離縁を承知せず、父忠興から廃嫡を宣言される綿考輯録など」。 
     注)しかしその後も千世忠隆とともに京都に住む。(二人の間では離縁していなかった) 
 
1602年: 細川忠興、丹後田辺城主から豊前豊後中津城主へ。小倉城を築城(完成は5年後)開始。
 
1604年: 細川家では、第3子忠利を忠興の嗣子と決め、徳川に届ける。
注)忠隆は剃髪し休無と号し、妻子を伴って京都に蟄居した(内膳家資料や、新・熊本の歴史:後述)。
      注)ちなみに、京都には祖父幽斎の隠居所領があった。 幽斎死去後食邑が扶持される1610年までは、忠隆
        京都在住の幽斎から種々の援助を受けていたと推測される。

1604年: 忠隆と千世の嫡子熊千代死去。 生年は不明。号は空性院殿則漚大童子、墓は西園寺。
                                                                                             (内膳家伝御家譜)
      注)熊千代とは細川家では正室との嫡子につける幼名。 父である忠隆の幼名も熊千代(内膳家資料)である。
      注)1604年の熊千代死去後、1613年までのどこかの時点で千世は加賀に帰った。

1605年: 千世は、加賀家重臣の村井長次に再嫁したとの後代の記録がある。
      注) 『前田氏戦記集』収録「村井家伝」など:後述参照 
         1605年に再嫁したとの記録は60年経過したあとの村井家から藩への提出資料であり、作為の可能性もある。
                この年に婚儀を行ったとの記録はなく、この年に千世が加賀に移住した明確な根拠とは言えない。

1605年: 忠隆に徳女誕生。 徳は長じて西園寺実晴(のちに左大臣となる)に嫁し、公満と公義(別名は
               公宣または随宣)の2子を生み、69才京都において没す。
      注)なぜか内膳系図に徳の母親名は不記載である。 千世とは別の母であればその墓があるはずだが、京都の忠
        隆の墓所である大徳寺高桐院にもない。 徳の母親名を系図に載せていない理由は、離縁後の千世に生まれ
              た子供であるからか?  また嫡子の熊千代の墓が西園寺にあるのは母親が同じだからか?
      注)1651年に、朝廷は徳川家光に太政大臣・正一位の追贈と大猷院の謚号を決め、内大臣西園寺実晴を勅使とし
              て日光に派遣した。
      注)のちに、徳と実晴の子である公満は細川藩主綱利女と婚約するも、女は死去。 この記述が系図纂要11冊上
        にあるが、年代が20年くらいずれるので相手が公満かどうかは疑問。
      注)公義(随宣)の神社: 文化財指定年月日:S.54.2.23 所在地:熊本県菊陽古閑原。
        古閑原西端から北に農道を登った芳ケ平に、西園寺随宜を祀る神社がある。この墓の主西園寺随宜は、時の
        左大臣西園寺実晴の末子として京都に生まれた(母は徳)。40才頃に京都から、叔父にあたる長岡忠春の領分
        である入道水村の安福寺を仮の住居として1665年に移り住んだが1670年に一生を終えた。
                     http://www.kikuyo.co.jp/html/shoukai/B.html#sai_haka

 

1608年: 忠隆に吉女誕生。系図に母親名は不記載。 長じて、吉は奥山三郎兵衛秀宗に嫁し63才没。
       注)前田土佐守家資料館のおちよあて芳春院自筆状あとがきがあり、1608年までには千世は加賀に戻っていた可
        能性もある: 後述参照。

1609年: 忠隆に福女が誕生。系図に母親名は不記載。長じて、福は京都の久世通武(1628死別)に嫁
             し、27才で没。その後、萬女誕生するも早世(内膳家資料による)。
       注)このころ忠隆に対して、西園寺家、幽斎、幽斎第2子興元は関係良好であり、行き来がある(内膳資料)。
       注)この徳から萬にいたる忠隆の4子女は続いて生まれており、母親は同一人と思われる。
 
1610年: 細川藤孝(幽斎)死去。
幽斎の隠居料だった6千石のうち、3千石が忠隆の隠居料として認められる。
 
1612年: 巌流島決闘。小倉城主は忠興。
 
1613年: 千世再嫁先の村井長次(1568〜1613)が死去。長次と千世との間の実子は居ない。
注)村井長次永禄11年〜慶長18年11月7日):  系譜による長次の子は、長光(実は織田長孝二男)
女子(実は前田利政女)、 女子(実は脇田兵部女)、 女子(実は村井理斉(長頼弟)女。
        ぴえーる氏の細川藩・拾遺HP掲示板投稿資料から。
 
1615年: 大阪落城し、豊臣秀頼ら死去。  豊臣方に参陣していた忠興第2子の細川興秋は切腹。
 
1616年: 徳川家康没。
 
1617年: 前田家の芳春院(まつ)没。
 
1621年: 第3子の細川忠利が正式に細川藩の家督を継ぐ。
 
1621年: 忠隆と長谷川氏女菊(当時21才)長子、忠恒(忠改、忠常とも言う)誕生。 忠恒には嗣子なし。
 
1622年: 忠隆と菊の次子、忠春誕生。 忠春の子忠季がのちに内膳家(六千石)を継承。
      注)なお、細川内膳家は忠隆と菊の子孫であり、千世の血は入っていない。
 
1626年: この年の冬、忠興は勘当後初めて京都北野の忠隆邸を訪問した(内膳家伝御家譜より)。
また、この年将軍家光が上洛にあたって忠隆を宥めて以後は還俗したとの異説もあり。

1628年: 忠隆三女福の夫である久世通武死去。京都から小倉の忠利に連絡。(福岡県史小倉藩より)

1632年: 細川家は加藤家の改易後、豊前小倉から肥後熊本へ移る。忠利が熊本城主。父の忠興は居
         所として八代城主へ。 忠興は忠隆を八代に呼んで正式和解し(内膳家資料による)、熊本で
         住むよう説得したが忠隆は熊本には住まなかった。

1641年: 村井長次死去後、春香院となっていた千世が加賀で死去。 法号は春香院、墓地は野田山。
 
1641年: 細川藩主の忠利死去。
 
1645. 12: 細川忠興死去。

1646. 8: 細川内膳祖の忠隆(休無)京都で死去。 忠隆の遺骸のある墓は、大徳寺高桐院(京都市
           北区紫野大徳寺町)。 法号は泰仰院瑞厳宗祥。 終生京都で暮らし公家とつき合いがあった
      子は、前田千世に1男子(早世)、母名不記載の4女子(うち1名は早世)、長谷川菊に2男子。
      隠居料のうち1000石は娘たちにと遺言。(内膳家資料など)。
    
以降: 長谷川菊と忠恒、忠春は、忠隆死後、藩主光尚の招きで熊本に行き、長岡姓を名乗る。
忠隆子孫は細川藩臣六千石、細川一門首座内膳家として明治に至り、細川復姓し、男爵。
内膳家は公家と関係深く、明治維新の際も内膳忠顕が京都御所と藩との折衝を行った。
忠隆と菊に始まる内膳家歴代墓所は熊本市島崎3丁目。 細川隆元氏は内膳7代忠顕の分流。
なお、内膳家では養子をたてず、ガラシャの血は歴代父系で現在まで継承。 (内膳家資料)
 
 
系図(左側が年長の子)

                                  細川藤孝(幽斎)

                  |    

 

中津・小倉城主

 

 

 

 

忠興(三斎)細川藩祖   興元常陸谷田部藩祖   幸隆         蓮丸     孝之

(室は明智玉、ガラシャ)

 

 

 

 

 

肥後

 

藩主

 

以下庶子

 

 

 

 

 

 

忠隆内膳祖   興秋   忠利細川本家 千丸 立孝宇土藩祖 寄之松井家へ 興孝(刑部祖)

(正室は前田千世) 切腹(豊臣方)  

 

 

千世

の長子   1605―1610生

 

(千世?母名不記載)   菊の長子

1621生

菊の次子

1622生

 

 

熊千代     徳、吉、福、萬の4子女    忠恒(忠政)   忠春(室は小笠原民部長女)

(1604没      (徳はのちに西園寺家に嫁す)      嗣子なし

墓は西園寺) 

禄高6千石

                                                    忠季(忠重)(室は長岡左門興知女)
                                                     正式に内膳家拝命。
                                                       忠英(忠雄)(室は長岡図書興章女)
                                                     弟は藩家老の季規(桂山)。
                                                     
「全体に関しての注記、関連資料」
     注)忠隆についてのインターネット資料 
細川忠興の嫡男。 興秋・忠利の兄でこの3人は皆ガラシャの息子である。通称与一郎。正室は千世(千
代ともいう)。前田利家の7女。1600年に故あって離縁。1598年従四位下侍従に叙位任官し、羽柴姓を
許された。1599年烏丸光広が丹後に細川藤孝を訪問し、天橋立を見物した際に連歌を歌ったが、忠隆
これに加わっている(丹後知恩寺所蔵「和歌短冊」)。 関ヶ原では岐阜攻めに参陣。しかし大坂邸から逃
れた妻の離縁を父から命ぜられて拒否し、勘当廃嫡された。結果として、剃髪して休無と号し京都に逼塞し
た。 のち京都で食邑を受け、京都において死去。     
                                                                    http://www.monjudo-chionji.jp/bunka/50.htm
 
注)肥後細川藩・拾遺HP掲示板管理主催者の津々堂からの連絡(2004.2.21)
 「新・熊本の歴史」に、忠隆と千世に関する興味ある文章があります。第4巻「近世・上」にある
花岡興輝氏の「大名のくらし」という項です。
「(前文略)忠隆はこのころ廃嫡されて京都に隠棲していました。それは忠隆の奥方が、加賀の前
田利家の娘にあたるとということで、徳川家康は忠興に対して再三にわたって離婚させよと命じて
いますが、忠隆はその命を拒否していた関係で徳川の忌諱に触れ、忠興はそれをおもんばかっ
忠隆を廃嫡にしました。そこで彼は剃髪して休無と称し妻子を伴い京都に蟄居しました(後略)」
     この本は昭和54年「熊本日々新聞社」が発行したもので、著者の花岡興輝氏は当時熊本県立
美術館の美術専門員という肩書きでした。熊本近世史の研究家として有名な方です。何らかの
根拠をお持ちで執筆されたと考えられます。
 

注)細川藩・拾遺HP掲示板投稿:ぴえーる  投稿日: 2月12日(木) 

 村井長次と千世の再婚時期について『加賀藩史料』を調べてみましたが、全く触れられていませんでした。

 

注)村井長次宛の芳春院自筆状(前田土佐守家資料館蔵)。 
「この書状は、関ヶ原の戦いの後、領国能登の封をとかれていた利政について、大御所すなわち徳川家康から
前田領国の国端においてもよいとする仰せがあり、そのうれしさを村井長次(加賀八家村井家初代当主村井長
頼の子)に伝えている内容である。年月日不詳。」
 http://www.city.kanazawa.ishikawa.jp/bunho/maedatosa/gaiyo/kura6.htm
この書状のキャプションについての前田土佐守家資料館からのご返事だが、
「この手紙を出した時期は1600−1613の間で、手紙には村井家との婚姻関係を示す内容はない。一般的に
は1605に婚姻したとされているものは日置謙の『加能郷土辞彙』(北国新聞社,1973)などがあるが、加賀藩の正
式記録には千世姫婚姻の記述はあっても時期を特定できるものはない」 とのお答えであった。(2004.2.28)
     ―――――――――――――――――――――――――――――
先日ご質問のありました当館所蔵「芳春院自筆書状」についてご回答致します。
 芳春院は前田利家の正室で名を「まつ」といい、前田土佐守家の初代前田利政の生母です。その縁で前田土
佐守家には計5通の芳春院自筆書状が伝来しております。 お問い合わせのあった芳春院自筆書状(家政314)
は、ホームページの解説にもあるとおり、年月日の記載が無いため正確な時期が判断できません。当館では、こ
の書状は前田利政が領国能登の封を解かれた後に書かれたものであると判断していますが、それでも関ヶ原合
戦後から村井長次死去までの間、つまり慶長5年から18年(1600-1613)の間に書かれた、というおおまかな年代
特定しかできないのが実情です。したがって、この書状が記された時点で村井長次と千世との間に婚姻関係が成
立していたかどうかは不明ということになります。 当館ホームページの「芳春院自筆書状」解説キャプションは、
あくまで村井長次という人物は「娘千世の婿」であった、という事実の説明を意図して記載したものであり、この書
状が書かれた当時において村井長次が「娘千代の婿」であった、という意味での記述ではありませんが、誤解を
招く恐れのある記述ですので早急に訂正したいと思っております。
 芳春院の七女千世が村井長次に再嫁した時期につきましては、慶長10年(1605)としている資料は散見できる
のですが(日置謙『加能郷土辞彙』(北国新聞社,1973)など)、加賀藩の公的な記録などでは千世の再嫁の記述
はあってもその時期について記したものは無いようです。同様に千世の子供の名前なども伝わっていないようです。
 なお、当館が所蔵する5通の芳春院自筆書状のうち3通は「おちよ(=千世)」宛となっていますが、残念なが
らそのいずれも書かれた年は不明です。また、村井長次の父長頼を祖とする村井家には戦前まで数百通もの芳
春院書状が伝わっていたといわれていますが、戦災で全て消失したとされています。 千世は芳春院に特別に
かわいがられていたらしく、頻繁に手紙のやりとりを行っていたようで、その縁で村井家に多くの芳春院自筆書
状が伝来したようです。現存する芳春院自筆書状も多くが千世宛のものです。
 
           ――――――――芳春院自筆状―――――――――――――
    御心やすく候へく候、よそへハさた申さす候、まつきかせ申候、まんそく申まゐらせ候、かしく
一ふて申まゐらせ候、このさけおたわら(註:小田原)よりまゐらせ候まゝまゐらせ候、御しやうくわん候へ
く候又申候、まこ四郎(註:孫四郎=前田利政)事、大御所様よりくにはしにもおきまゐらせ候へとおほせい
たされ候てさと殿(註:佐渡殿=本多正信)よりひセん(註:肥前=前田利長)へ文まいり申候、きのふ御返
事被入候、何やうにもぎよひしたいとの御事ニて候、かしく、
いつも殿(註:出雲殿=村井長次) 参る  はう(註:芳春院)  申給へ
【抄訳】
孫四郎のことについて、大御所様が「国許の端にでも置くように」とおっしゃった旨を、本多佐渡守殿が肥
前へ手紙で知らせてきた。肥前は、「何事も大御所様の御意次第である」との返事を昨日出した。
とても安心した。内々のことであるのでよそには知らせないように
 
注)金沢市立玉川図書館近世史料館よりの返事
今回のご質問の件は当館所蔵史料ではわからないかもしれません。石川県立図書館からご連絡があった『村井文
書』(加越能文庫資料番号 特16.34−72)5冊には前田利長・利常・芳春院から千世宛、芳春院から村井長次宛の
書状を複数収録(約500ページ)しています。これ以上の問い合せは手紙か電話などにてお願い申しあげます。
 〒920−0863 金沢市玉川町2−20 金沢市立玉川図書館近世史料館    電話076(221)4750 

 

注)千世再婚の記録を見つけました 細川藩・拾遺HP掲示板投稿者:ぴえーる  投稿日: 2月29日(日)22時14分23秒

『前田氏戦記集』収録「村井家伝」より
一、慶長十年に利家様御息女ちよ様、後は春香院殿、利長様より出雲に嫁娶被仰付候。


これは
寛文八(1668)年十二月二十六日に、村井藤十郎が奥村因幡に提出した記録のようです。
※村井藤十郎(親長)  村井家五代。正徳元(1711)年四月四日没。享年五十九。
※奥村因幡(庸礼)  奥村支家二代。貞享四(1687)年六月八日没。享年六十一。


注)芳春院自筆状あとがき 細川藩・拾遺HP掲示板投稿者:たかゆき  投稿日: 3月 2日(火)00時21分47秒
千世の消息ですが、前田土佐守資料館蔵のまつからおちよあての手紙に年度不詳の十月六日付け

のものがあり、内容は大御所(家康)による孫四郎(利政)の放免が撤回されたこと、自身の近況、最

後に追伸として富山の”もく”(高畠木工)に肥前(利長)宛て手紙を送ったが”もく”は叱られると躊躇

しているので利長に渡るよう助力を頼んでいる。
 
この最後の追伸の部分で利長が富山城に居たときの手紙と特定でき、その期間は隠居後の慶長

十年六月から富山の火災で関野(高岡)に移る慶長十四年三月まで手紙の日付が十月六日であるこ

とから遅くとも慶長十三年(1608年)には千世が金沢に居たことが証明できると思います。
以下は手紙の追伸部分です。

 又申候、一日給候ひきやくに、と山のもくかたまで、ひせん(肥前)へようの事候て、あけ申候文、

事つて申候か、もくハしかられ申候よしにて候、御たつね候て、その文ひせんへとヽけて給候へ候、

とおき所ハあとさきとなりまいらせ候、たのミ申候、かしく、

 

注)前田土佐守家資料館からのご返事 その2  2004.3.23
  先日ご質問のありました当館所蔵「芳春院自筆書状」についてご回答致します。

先日のご質問の中にありました史料は、当館所蔵「芳春院自筆書状」(家政311)です。いただいたメー

ルの中にもありましたとおり、芳春院が次男前田利政の処遇を含めた家康の言動への非難および自

身の体調を記したもので、宛名は「おちよ」すなわち千世となっております。
 この手紙には月日の記載(十月六日付)はあるものの書かれた年代が記載されておりませんが、メ
ールでご指摘のとおり、肥前=利長が富山に居住していた期間、すなわち慶長十年から同十三年ま