誕生 | 天文三年(1534)四月廿二日、洛東三渕晴員別墅にて生る | |
05歳 | 天文八年(1539)六月将軍義晴命により細川元常養子とす | |
16歳 | 天文十八年(1549)三月神楽岡の役に従って戦功あり | |
19歳 | 天文二十一年(1552)四月従五位下、兵部大輔に叙任さる。 | |
31歳 | 永禄八年(1565)五月三好の乱に将軍義輝自殺、藤孝は義輝の弟覚慶を幽閉中より救出し流寓四年、織田信長に託し共に京都に入り将軍に擁立する(十五代将軍義昭) | |
35歳 | 永禄十二年(1569)二条御所造営にあたり、細川家庭園にあった名石「藤戸石」が華々しく引き出された。この石は後秀吉により聚楽第から醍醐寺三宝院に移された。 | |
36歳 | 天正元年(1573)七月桂川以西の地(長岡)を与えらる、氏を長岡と改める | |
40歳 | 天正四年(1576)三条西実枝より古今伝授を受く | |
44歳 | 天正八年(1580)三月従四位下侍従に叙任さる。 七月信長より丹後国十二万石を与えらる、丹後宮津に居城 |
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46歳 | 天正十年(1582)明智光秀織田信長を本能寺に弑す。 藤孝この変を聞いて剃髪国を忠興に譲り幽斎玄旨と称す。 |
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49歳 | 天正十三年(1585)十月正二位大蔵卿法印に叙せられ、昇殿を許さる | |
56歳 | 文禄元年(1592)四月文禄の役にあたり肥前名護屋陣に赴く
七月秀吉の命により島津義久弟歳久の処置を行う |
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61歳 | 文禄四年(1595)秀吉の命により薩摩、大隈、日向の検地を行い田賦を定める | |
62歳 | 慶長元年(1596)明朝鮮の使節来朝、忠興と共に奏者の役を務む | |
66歳 | 慶長五年(1600)関ヶ原に先立ち石田三成、小野木縫介を派して田辺城を攻める 幽斎籠城して戦う、この時勅使あつて本朝歌道の絶えることを恐れ攻囲軍の囲みを解かしめらる、幽斎古今伝授の書類を禁裏に献ず | |
77歳 | 慶長十五年(1610)八月京都三条車屋町の邸に薨ず、南禅寺天授庵に葬る |
誕生 | 永禄六年(1563)十一月十三日京都一条館に生る、父藤孝流寓中は中村新助夫婦に託され田町の裏店に潜伏して名を惣八と呼ぶ | |
11歳 | 天正二年(1574)信長の命により明智光秀の女玉御嫁娶之約有之 | |
15歳 | 天正六年(1578)婚姻、信長の命により九曜を細川家定紋とする | |
19歳 | 天正十年(1582)明智光秀織田信長を本能寺に弑す。 忠興父藤孝と共に剃髪、光秀の招きを拒み室玉を味土野に鈴隠す後、秀吉の命により復縁 家督 九月義弟・一色義有(妹・伊也の婿)を饗応殺害す |
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22歳 | 天正十三年(1585)従四位下侍従越中守に封せらる 羽柴姓を賜る | |
25歳 | 天正十六年(1588)北野大茶会に於て茶室松向庵を設く | |
26歳 | 天正十七年(1589)丹後一国十一万七百石を領す | |
28歳 | 天正十九年(1591)千宗易秀吉の怒りにふれ自刃。
別れにあたり淀川に利休を見送る、終わりに臨み忠興に茶杓を贈る「印可相伝」 |
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29歳 | 文禄元年(1592)朝鮮の役先鋒として渡海 | |
32歳 | 文禄四年(1594)関白秀次自殺、石田三成これに事寄せて忠興を讒す。
家老松井佐渡の奔走、前田徳善院玄以などの周施により其の冤明白となる 茶入れ「有明」を賜う |
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33歳 | 慶長元年(1596)明朝鮮の使節来朝、忠興父と共に奏者の役を務む | |
34歳 | 慶長二年(1579)秋、忠興邸に秀吉公御成、前田利家御取持ち、忠隆配膳饗応す | |
37歳 | 慶長五年(1600) 家康より豊後杵築六万石を給る、この年羽柴を改め細川と称す。 上杉景勝征討の事起り徳川家康、秀頼に代わり諸将を率いて東上す。 その虚に乗じ石田三成、大阪に於て諸将の妻子を人質にせんとして先ず忠興の夫人を捕へんとす、七月十七日三成玉造の邸を包囲す。夫人火を放つて自殺す。(家老松井佐渡、杵築に於て大友義統の攻撃をうけるもこれを撃破す)同年九月関が原出陣忠興先鋒となり戦功第一なり。 同年十一月豊前並びに豊後の一部を加え三十五万九千石を給る。 |
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38歳 | 慶長六年(1601)中津の教会においてガラシャ夫人の追悼式を行う
。家康、秀忠に大阪に謁し関ヶ原の功により利休尻膨の茶入を賜る 同年十月 千道安を豊前に被召呼、三百石被下 |
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39歳 | 慶長七年(1602)居城を小倉に定む。 京都紫野大徳寺塔頭高桐院を創建 |
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40歳 | 慶長八年(1603)徳川家康将軍成りの御礼の参内に乗輿の衆として従う。 | |
41歳 | 慶長九年(1604)三男忠利を継嗣とする。 | |
43歳 | 慶長十一年(1606)家臣長岡(飯岡)宗祐、宗信父子を誅伐す。 | |
52歳 | 元和元年(1615)大阪夏の陣戦功あり | |
56歳 | 元和五年(1619)加賀山隼人と妻子など切支丹の故を持って誅伐す | |
58歳 | 元和七年(1621)十二月隠居三斎宗立と称す | |
69歳 | 寛永九年(1632)忠利に肥後を賜る、入国の上忠興は八代に居城 | |
76歳 | 寛永十六年(1639)将軍家光自ら茶を点し慰労あり、此時俊成・定家、一紙両筆の一 軸を賜る | |
83歳 | 正保二年(1645)十二月二日八代に薨ず 殉死五人 |
誕生 | 天正十四年(1586)十月十一日丹後に於て誕生 | |
14歳 | 慶長五年(1600)正月、証人として江戸に下る | |
19歳 | 慶長九年(1604)八月廿六日忠興の嗣子となる(徳川家康書状) | |
20歳 | 慶長十年(1605)四月十六日徳川秀忠将軍宣下にあたり、勅使の将軍宣旨の取次役勤む | |
23歳 | 慶長十四年(1608)豊前中津にて婚姻 | |
26歳 | 慶長十七年(1612)武蔵・小次郎舟島にて戦う | |
35歳 | 元和七年(1621)家督相続す | |
46歳 | 寛永九年(1632)肥後十二郡・豊前三郡五十四万石を賜る 同年十二月六日小倉発、九日熊本入城 | |
48歳 | 寛永十二年(1634)幕府永井日向守をして忠利に天下の政事を諮問せしむ | |
52歳 | 寛永十五年(1638)島原一揆勃発、忠利総大将の心得を以て出陣す。肥後藩出兵28600人、死傷2000人、一揆勢34000人戦死 | |
56歳 | 寛永十八年(1641)熊本に卒す 殉死十九人 |
誕生 | 元和元年(1619)九月十八日豊前中津にて誕生、六丸 |
15歳 | 寛永十一年(1634)烏丸光賢女と婚姻 |
19歳 | 寛永十四年(1638)十一月島原一揆勃発、翌年正月二日出陣す |
23歳 | 寛永十八年(1641)遺領相続 |
25歳 | 寛永二十年(1643)阿部一族を誅伐する |
28歳 | 正保三年(1646)立孝の子宮松に宇土益城三郡のうち三万石を内分す。(宇土支藩)
松井佐渡守興長を八代城代とす。 |
29歳 | 正保四年(1647)葡国カリアン船長長崎入津防禦として出兵
壱万千三百一人 大小船合四百三拾二艘 |
31歳 | 慶安二年(1649)江戸にて卒す、幕府に対し領地返上を言上す 殉死十一人 |
誕生 | 寛永二十年(1643)正月八日、江戸にて誕生 |
7歳 | 慶安二年(1649)父光尚卒、綱利幼少のため削封分知の風聞ありて一藩動揺す 翌年四月特例を以て遺領相続 国政は老摂行し、目付けとして小笠原忠直をして干渉せしむ |
12歳 | 承応三年(1654)婚姻 |
19歳 | 寛文元年(1661)初入国 |
24歳 | 寛文六年(1666)弟・利重に蔵米知行三万五千石内分、新田支藩とす。 |
25歳 | 寛文七年(1667)九州巡見使熊本に入る |
27歳 | 寛文九年(1669)十月陽明学徒を追放す、叔父長岡元知諫言するもこれを永蟄居となす |
32歳 | 延宝二年(1674)矢部手永仏原村で一揆(53名逮捕、内19名獄死・13名処刑獄門) |
39歳 | 天和元年(1681)九州巡見使熊本に入る |
59歳 | 元禄十五年(1702)十二月十五日浅野内匠頭遺臣、主君の仇敵吉良上野介を討つ。
元家老大石良雄以下十七人預けられ、翌年二月四日白金邸にて切腹 |
65歳 | 宝永五年(1708)弟・細川利重次男利武(宣紀)を養子とす |
67歳 | 宝永七年(1710)九州巡見使熊本に入る |
69歳 | 正徳二年(1712)隠居 |
71歳 | 正徳四年(1714)十一月十二日白金邸にて卒す |
誕生 | 延宝四年(1676)十一月廿日 宇土細川家江戸藩邸にて生る |
32歳 | 宝永五年(1708)綱利養嗣子となる |
33歳 | 宝永六年(1709)従四位下侍従に叙任・主税頭 |
36歳 | 正徳二年(1712)家督相続 |
40歳 | 享保元年(1716)参勤登城、肥満の為歩行不自由につき、江戸城内にての杖の使用を願い許さる、 越中守と改称 |
41歳 | 享保二年(1717)九州巡見使熊本に入る |
57歳 | 享保十七年(1732)六月廿六日江戸にて卒す 享保の大飢饉・餓死者6,125人に達す |
誕生 | 享保三年(1718)熊本にて生る |
14歳 | 享保十七年(1732)遺領相続 |
16歳 | 享保十九年(1734)大雨、洪水等による被害三十六万石 |
23歳 | 寛保元年(1741)婚姻 |
24歳 | 寛保二年(1742)関東諸川改修手伝いを命ぜらる 支出127,230両 |
29歳 | 延享三年(1746)九州巡見使熊本に入る |
30歳 | 延享四年(1747)江戸城中にて板倉氏と誤認せられ刺され帰邸の後卒す |
誕生 | 享保五年(1720)江戸龍口邸に生る |
27歳 | 延享四年(1747)特命により兄宗孝の遺領相続す 芦北四手永の百姓7,000〜8,000郡奉行の罷免を要求し佐敷に押し出す |
28歳 | 寛延元年(1748)下国宿弊五ヶ条を正す |
30歳 | 寛延三年(1750)婚姻 |
32歳 | 宝暦二年(1752)竹原勘十郎玄路の薦めにより、堀平太左衛門勝名を以て大奉行とし 後家老に擦てて之を信任す |
34歳 | 宝暦四年(1754)学校を起し時習館と名付く、八代にも文武稽古所伝習所を設く |
35歳 | 宝暦五年(1755)球磨川洪水萩原堤決壊、稲津弥右衛門に命じ之を築かしむ |
36歳 | 宝暦六年(1756)医学校を起し再春館と名付く、竹部に薬園を設けて本草の学に便にす
知行世減の法を制定 この年藩政大いに改善す |
37歳 | 宝暦七年(1757)田添源次郎に命じ検地を行い、地引合見図帳を作成せしむ、明和八年迄十五年間にしてその業を終へぬ |
38歳 | 宝暦八年(1758)領内諸々に倉庫を設け凶荒に備う |
40歳 | 宝暦十一年(1760)島己兮に命じ養蚕を研究せしめ、京都及び江州より蚕婦及び職工を招きその業を経置せしむ |
41歳 | 宝暦十二年(1761)家老有吉大膳臣某、藩公並びに家老堀平太左衛門を呪詛す。
有吉大膳永蟄居、関係者死罪とす。 |
58歳 | 安永七年(1778)七月二十八日夜熊本大火、家数千七百九十八軒焼失す。 |
66歳 | 天明五年(1785)十月廿六日江戸にて薨ず。 |
誕生 | 宝暦九年(1759)四月廿五日熊本に生る |
23歳 | 天明二年(1782)婚姻 |
26歳 | 天明五年(1785)遺領相続 |
28歳 | 天明七年(1787)藤孝以来伝来の犬追物を斎藤権之助に命じ復活す。 九月十六日江戸にて卒す |
誕生 | 宝暦九年(1759)四月廿六日宇土に生る |
13歳 | 安永元年(1772)宇土・細川興文家督相続 |
24歳 | 天明三年(1783)婚姻 |
28歳 | 天明七年(1787)本家遺領相続 |
31歳 | 寛政二年(1790)佐敷、江戸龍口、白金、大阪、蔵屋敷、鶴崎等に文武稽古所を設く |
39歳 | 寛政八年(1796)白川非常の洪水、一夜塘を築く |
46歳 | 享和三年(1803)税制を改正、減税 |
49歳 | 文化三年(1806)江戸大火、龍ノ口邸類焼 |
53歳 | 文化七年(1810)隠居 浜町屋敷ニ移転 左京大夫と称す |
62歳 | 文政二年(1819)浜町さまと称す |
70歳 | 文政十年(1827)少将さまと称すべしと令す |
81歳 | 天保六年(1837)十月廿三日江戸にて卒す |
誕生 | 寛政元年(1789)正月十三日 江戸に生る |
13歳 | 享和二年(1802)婚姻 |
21歳 | 文化七年(1810)家督相続 文化七年・文化九年伊能忠敬測量のため熊本入り |
31歳 | 文政三年(1820)宇土、八代、下益城三郡海辺に広大の新地を築く |
38歳 | 文政九年(1862)江戸にて卒す |
誕生 | 文化元年(1804)九月十六日 江戸に生る |
14歳 | 文政元年(1816)細川立元の遺領相続 |
22歳 | 文政九年(1826)本家遺領相続 |
23歳 | 文政十年(1827)婚姻 |
33歳 | 天保八年(1837)大塩平八郎の余党十人預けられ翌年八月死刑 |
弘化三年(1846)高祖父以来治世宜しきを得たるを賞せられ時服及び鞍鐙を賜る | |
49歳 | 嘉永六年(1853)相州浦賀にアメリカ使節船渡来につき本牧辺防禦の命あり、 江戸詰合の人数出張 |
56歳 | 万延元年(1860)水戸浪士十七人大老井伊直弼を要撃す、 その中八人預けられ同八日諸藩に預替 同年江戸にて卒す |
誕生 | 天保五年(1835)江戸に生る |
19歳 | 安政元年(1854)婚姻 |
25歳 | 万延元年(1860)遺領相続 |
27歳 | 文政二年(1862)攘夷の勅命あり幕府諸侯の参観及び妻子証人の旧典を廃す。 夫人等十二月熊本に着す |
28歳 | 文久三年(1863)内勅に応じて上京公武の一和に周旋最も力む 六月六日長州台場より通行の英艦を砲撃す、八月七卿都落ちす |
29歳 | 元治元年(1864)長州征討の勅下る |
31歳 | 慶応元年(1866)長防の軍大挙小倉の我が防衛拠点を攻む(小倉戦争) |
32歳 | 慶応三年(1867)徳川氏大政奉還し諸侯伯を召す |
33歳 | 明治元年(1868)鳥羽伏見の戦あり、護久代つて上京此日入洛、江戸九段坂上三番町の幕兵を武装解除す。 五月上野山内の幕兵を撃つ。 八月仙台の兵を撃つ伊達慶邦我に頼って謝罪開城す |
34歳 | 明治二年(1869)一月、千葉県勝浦沖にて五稜郭攻めに向かう藩兵205名溺死
六月、版籍奉還、熊本藩知事を命ぜらる |
35歳 | 明治三年(1870)甲鉄艦竜驤を献ず |
41歳 | 明治九年(1876)東京に卒す |
誕生 | 天保十年(1839)三月一日 熊本に生る |
27歳 | 慶応二年〜三年(1866〜7)開国事に奔走 明治元年正月三日鳥羽伏見の砲火の下を突破して参内宿直 同月七日徳川慶喜追悼勅命布告あり 同月十二日刑法事務総督を命ぜらる 十一月婚姻 |
31歳 | 明治三年(1870)五月八日家督相続、熊本藩知事に任ぜらる(実学党政権) 十六日藩政改革十一ヶ条あり、戸籍を正し雑税を免じ洋学校病院を起こすのことあり九月熊本城を廃頂せんことを乞うて許さる 十月十五日より御城内天守御座敷、士農工商拝見を仰出さる |
32歳 | 明治四年(1871)廃藩置県、海軍少将に任ぜられ、後陸軍少将に転任 泰勝寺、妙解寺及び塔中を廃す |
38歳 | 明治十年(1877)二月西郷隆盛兵を率いて上京せんとしその先鋒熊本に至る 熊本城出火、これより先護久上京、三月護久帰県人心鎮撫に苦心す 。流離の人に救援金を出す |
45歳 | 明治十七年(1884)侯爵を授けらる |
54歳 | 明治廿六年(1893)相洲鎌倉の別邸にて卒す |