忠興、義弟木下右衛門太夫と謀り茶入れを盗む                 綿考輯録から
                                                                      ・
  
  文禄四年七月、秀吉は甥の関白秀次を叛逆の意ありとして妻子妾や近くに仕えた者共々三十余人を処
 刑する。悲惨な事件であった。この時細川忠興の娘婿で秀次の側近であった前野出雲守長重と、その父
 但馬守長康も切腹するが、娘長は剃髪させ仏門に入れて難を逃れた。
 忠興も連判した事を咎められ閉門の処分をうける。一時は石田三成などに依り切腹の沙汰の検討もされ
 たが、家老松井康之の必死の奔走や家康の協力等で事なきを得た。
 忠興は閉門御赦免になり御礼のため登城し秀吉に対面する。
 「忠興は先年、明智光秀の謀反にさえ組しなかったし、たとえ一味であったとしても以前の忠義にたいして
 許そう。さぞ是までは気づまりであったろう。茶の湯でも楽しむよう」と「有明」というお茶入れを拝領した。

  いつの頃の事か、御普請の時手元不如意になった忠興は「有明」を黄金五十枚にて質入するが、この茶
 入れ其の後持ち主を転々として、家康の家臣津田秀政の拝領するところとなった。
 其の事を知った忠興は買い戻すべく秀政に持ちかけるが「拝領の品である」として断られてしまう。
 何とか「有明」を買い戻したい忠興は、義弟の木下右衛門大夫(延俊)と共に稚技に等しい謀りごとを計画し
 たのである。秀政が茶会を催すに事寄せ「有明」を使ってもらうよう頼み込む。
 そして当日、茶席で右衛門大夫は隙をみて「有明」を懐にいれ席を飛び出してしまったと云うのだ。
 慌てた秀政は中くぐりまで追いかけたが返してもらえない。其の後どう云う交渉があったのだろうか。
 忠興が黄金五百枚にてゆずり受けるのである。
 右衛門太夫(延俊)は秀吉の奥方「おねねの方」の甥子、後の日出藩主である。
 すなわち父家定は「おねねの方」の兄である。室は藤孝の女加賀であり忠興とは義兄弟ということになる。
 親しい間柄であったらしい。子供の悪戯に等しい二人の行動が面白いが、利休七哲の一人とされる忠興に
 するとあんまりいただける話ではない。

  忠興に依り銘を「中山」と変えたこの茶入れは、忠利の家督に当たり忠利に譲られた。
 其の後家中の扶助のために再度手放され酒井忠勝に黄金千六百枚にて譲り渡された。
 忠興は忠利に対し「茶の湯があかりし」と褒められたと伝えられる。

             (延俊と細川家との親しい交流は、二木謙一著・慶長大名物語に詳しい)