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細川公爵家の先祖忠興夫人の信仰美談

   日本基督教会宣教教師:山本秀煌

   (昭和5年1月20日山田聖天堂発行本による)

  (はしがき・略)

夫人の本姓は明智氏名は玉子、其のクリスチャンネームは迦羅奢、又其の法謚は秀林院といふ。

 迦羅奢とは恩寵といふ意義である。彼女は日本名婦傳中の一人で才色兼備、淑徳圓満の賢夫人で、 其の貞節殉難の精神は発露して壮烈、悲痛なる美談となり、啻(タダ)に正史に傳へられて居るの みでなく、詞歌に、小説に、戯曲に、文学上種々の形式に於て取扱はれて居ることは世間周知の ことであるが、私がこゝに叙述するのは、夫人の基督教的信仰を中心として観た所の苦節、殉難 の美談である。夫人が熱心なる切支丹信者であったことは細川家の記録にも明記してあるが、其 の信仰的美談は除外してある。例令(タトエ)ば細川家記霜女覚書の如き、夫人の殉難當時遺命を託 された侍女霜と云へるものが、夫人の孫に當る細川肥後守光尚の問に答へて呈出した「しうりん ゐん様御はて成され候次第の事」と題する有名な夫人殉難始末書にも、信仰のことは一切省いて 書いてない。又小須賀覚書といふ記録があるこれも當時の殉難始末の記録であるが、これにも亦 一切信仰的のことは記してない。これ皆吉利支丹厳禁時代に記されたものであるから、徳川幕府 を憚つて信仰談を省かなねばならなかつたからである。蓋し徳川時代には、吉利支丹を國害視し て之れが撲滅を期し、其の教徒を殺し、其の教書を焼き、吉利支丹に関する一切の事物を煙滅せ しめんと努めたので、吉利支丹史実の傳へられたるものは殆どなく、偶々(タマタマ)傳へられるも のがあつても、信用するに足るものが尠い(スクナイ)のである。されば吉利支丹の信仰談を記述す るには、西洋に傳はる記録を参照して考究せねばならぬのである。私はこの方針によりて細川夫 人の信仰美談を研究して叙述するのであるが、煩を避ける為め、一々其の出所を記することを省略する。

 彼女は明智光秀の三女で、長岡兵部大輔藤孝の長男細川忠興通称與一郎に嫁し、其の夫人とな る。藤孝は元足利の家臣で、光秀は美濃の土岐氏の一族で、當時は偕に織田信長に仕へて其の家 臣となり、藤孝は丹後を領し、光秀は丹波を領して居た。彼女は絶世の美人で、又頗る淑徳の誉 れ高き賢夫人であつたので、忠興は深く彼女を愛し、伉儷(カウレイ)の情最も睦まじかつたのであ るが、偶々天正十五年夫人の父なる明智日向守光秀が、突然反旗を翻して主君信長を本能寺にて 弑いするや、直ちに使者を派して女婿忠興を誘ふたけれど、忠興は頑として應じなかつた。のみならず忠興は世の批判を憚り夫人を其の領内三戸野の山中に移し、山伏の家にあづけ、殆んど離 別同様の待遇をなすの止むなきに至つた。

 斯(カ)くて夫人は三戸野の山中のかすかなる住居して有るに甲斐なき世を送りつゝある、其間讀 書三昧に耽つて修養を怠らず、其の知識と道念との向上は著しきものがあつたといふ事で、これ ぞ彼女が後年基督教を信ずるに至つた素因となつたのである。

 羽柴秀吉は細川藤孝、忠興父子の此の際に處する苦節を嘆称し「今度信長不慮に付き比類無き 御覚悟特に頼母しく存候」と申し送り、御身上見放し申間敷候事という誓言を立てた。「上様も そなたの夫婦仲をお怒りにはなられまい。どうじや異存が無くば秀吉が媒酌を致そう、あれほど の國色を山中に朽ちさするは惜しいものじや」といつて、秀吉親ら媒酌して忠興夫妻を再び元の 鞘に納めて同棲せしむるに至つた。忠興夫妻の感激や知るべきである。だが當時秀吉の貴婦人に 対するいかがはしい挙動は忠興をして夫人に対する秀吉の誘惑を痛く警戒するに至つた。

  靡くなよ我籬垣(マセガキ)の女郎花
         男山より風は吹くとも

 これが忠興が出陣中其の留守宅に在る夫人に送つた歌であると傳へてゐるが、此の一首によつて も、如何に、忠興が夫人の上に懸念して居たかは、思い半に過ぎるものがあるが、此の際に處す る夫人の苦心は一層惨憺たるものであつたに相違ない。それに就いてはさまざまの傳説がある。 ここに其の中の一、二を記述して見やう。

 それはずつと後の事であるが、秀吉が彼の有名な伏見城の落成式を行ふたとき、諸大名の夫人 に拝見を許し、それぞれ城内に召されたのである。此の際、細川夫人にも是非参上するやうにと の沙汰があつたが、夫人は矢張り出られなかつた。代りに夫人の幽居中にも冊(カシヅ)いた小侍 従が名代として御禮に出た。此の小侍従は、清原外記の女マリーで、細川夫人に洗禮を授けた吉 利支丹女と同人であらう。小侍従も亦中々の別嬪で、おまけに其の面貌が夫人によく似てゐたと いふことである。関白秀吉は一見して大いに悦び、そちは女の身として、夫人が三戸野の隠家に まで附き添ひ、永年の間忠節を励にだ由、寔(マコト)に天晴ぢやとて、綾の小袖などを賞賜された。 その際の戯れに「そちに男を二人持たせたい、其の中の一人には自分がならう」と言はれた。 それは勿論冗談であつたらうが、誠に物騒千萬な戯言である。又熊本での傳説であると云ふ事だが、 朝鮮征伐の留守中太閤は出征諸将の奥方で美人の聞えある夫人連に頻りに内謁見を申附けられた。 其間には随分如何はしい風聞さへあつた。順はまはつて細川夫人の番となつた。表面名誉な召で あるから辞退するわけにはゆかぬ。思慮に富んだ夫人は、覚悟を極め、さらぬ體にて参殿され、 やがて太閤の前へと出で、しとやかに両手をついて敬禮をされる時、誤つて、転げ落ちたやうに して、帯の間から懐剣を取り落し、周章てた振りして、それを取り納めながら、粗忽の段をわび られた。粗忽は、何處までも粗忽であるから、無事に謁見は相済んだが、太閤はそれを見て、底 気味悪く感ぜられたが、其の以後、侯伯夫人の謁見は沙汰止みとなつたといふことである。傳説 のことであるから保証は出来ぬが、事実恁(コ)う云ふ事があつたかも知れぬ。

 それはさて措き、夫人は何ういふ動機から、否、何ういふ関係から、又どんな経路を踏んで、 基督教信者となられただらうか、細川家記に「迦羅奢様(夫人のクリスチャンネーム)始めは建 仁寺の祐長老に三十四五則参学被成しが、忠興公大徳寺の参学よりは心安きものなるべしと被仰 候。其後加々山庄右衛門(細川家老臣加々山隼人正興長といふ有名なる吉利支丹信者で、後に殉 教したる人)が母、吉利支丹にすゝめ申候しが、常々殊の外物祝ひを被成候て、事しげく事騒敷 時分、武具、衣裳の事に就ても、日を餘り御選び被成、はかの行かぬ気の毒さに、吉利支丹は物 を打破りにしてはか行くべしと被思召、其時分迄は御法度にてはなし、共に進めて彼の宗門に被 成しが、後には無用なりと被仰けれども、最早御聞込有て御承引なかりしなり」

とある。迦羅奢の如き賢夫人でも、吉凶判断、日選び、運勢などといつた風の一種の迷信に捉は れてゐて、物事・はか行かず、それが為、往々時機を失する虞があつたので、夫君忠興を始め、 家臣の迷惑一方ならずであつたので、此等の迷信を打破するには吉利支丹宗をすゝむるに限ると の事で、改宗をすゝめたといふ話だが、時代の関係や、其他の点に於て、疑はしいことが尠くな い。それを一々弁ずることは姑く(シバラク)措き、直ちに事実と思はれる談に移らう。

 夫人が吉利支丹の教義に接したのは、夫君忠興を通じて、吉利支丹の熱心家高山右近の信仰談 を傳へ聴いたのが始めであるといふ事だ。高山右近は其頃攝州高槻の城主で、しばしば戦場を往 来して武名を挙げ、信長の弔合戦たる山崎の役には、秀吉の先鋒となつて、明智の反軍を突撃し た勇将であるが、父子偕に吉利支丹の熱心家であつた。西教史には右近ヂャスト殿と云つて有名 な吉利支丹大名である。右近は忠興と友として善く、互に往来して親交を重ねて居る間柄であつ た。熱心家たる右近は、機を見て、頻りに信仰談を試み、基督教の要義を説いて忠興に改宗をす ゝめて止まなかつた。忠興は毫も心を動かす気配なく軽くそれを受け流して居たが、夫君より其 のことを傳聞したる夫人の方が却つて大いに心を動かして吉利支丹の信仰談を聴聞することに熱 中した。親しく吉利支丹の宣教師に就き教を受けて見たいと思つたが、それは到底夫君忠興の同 意を得る望みがなかつた。又故あつて夫人は堅く外出を禁じられて居たので、其の身は、さなが ら籠中の鳥の如く、出るに由なく、僅かにきき覚えた教義をたどり、沈思冥想しつゝ、其の心の 開発されることを祈つて居た。折から、九州征伐の役起り夫君忠興は出陣した。其の留守中、夫 人は腹心の侍女をかたらひ微服して潜かに裏門より抜け出でゝ、吉利支丹寺に詣で宣教師の司祭 カスペード及び邦人の修道士ヴァンセンに見えて親しく教を受けた。爰に初て年来の宿望達して、 歓喜に堪えず、直ちに洗禮を受けたいと願つたのであるが其の姓名を秘して明かさなかつたので、 其の願望を果たすことが出来なかつた。蓋し司祭カスペードは彼女を細川夫人と知るよしもなく 関白殿下の貴嬪の一人だろう位に思つて其の願に応じなかったのである。基督教は一夫一婦の道 を守ることが厳格で、妾などには洗禮を授くることをしないからである。斯る間に細川邸の留守 居役等は、夫人の邸内に在らざることを発見して周章狼狽た。直ちに手を別け轎を吊らせて、市 内の諸佛寺に夫人を尋ね廻つた。最後に吉利支丹寺にて、漸く夫人に邂逅して帰館を促し、轎に移して伴い去つた。是れより邸内の取締は一層厳重になつて再び外出することは不可能となつた。 寺院参詣の途は全く途絶して了つた。そこで、夫人は殊に怜悧なる侍女を選抜して司祭の許へ遣 はし、手書を以て、教義上の疑問を質した。或は侍女を代参せしめて説教を聴聞せしめ、其の帰 邸を待受けて其の日の教旨を傳受した。疑問の點は翌日侍女を介して更に司祭の説明を請ふた。 斯くすること數閲月にして略其の教義に通ずるに至つた。のみならず、信仰も亦次第に進み、自 ら断食祈祷して宗教的勤行に努めて怠らなかつた。兎かくする中、其侍女等十七人も亦大に基督 教に感服し改心して、洗禮を受くるに至つた。夫人はそれを聞いて喜んだが、またうらやましく 思つた。さうして自分も亦洗禮を受くるの日が、一時も早く来たらんことを祈つて止まなかつた のである。既にして秀吉が、九州博多で、外国宣教師追放令を出したといふ風聞に接した夫人は、 更に驚く気色もなかつた。却つて此の際如何なる代償を拂ふも、宣教師などの日本を退去する前 に、是非とも、洗禮を受けねばならぬと決心した。されど、外出することの出来ない自分が、何 して宣教師の手より洗禮を受くることが出来るか、それが難問題であつた。窮すれば通ずるの習 ひ、ここに夫人は一計を案出した。夜中柩中に身を潜めて窃に邸内の窓より出で、吉利支丹寺に 詣でやうとのことであつた。さうして侍女をして其の意を司祭に通告さしが、その止むる所とな つて思ひ止まった。

 夫人の侍女の中にマリーと云ふ貴嬢が居た。先に、洗禮を受けた十七人の侍女中の一人で、其 の父は清原外記といふ公卿で、足利将軍義輝時代に已に洗禮を受けて居る人であるが姻戚関係か ら其の女を細川の奥に入らしめたのだと云ふ事だ。前記の小侍従と云ふのは、此の嬢のことだら う。司祭カスペードは、細川夫人の信仰堅固なるを認め、其の志望に應じて洗禮を授けやうと思 つたが、夫人に接近するの機なきを以て、変則ながら侍女マリーに洗禮の方式を授け彼女をして 夫人に洗禮を授けしめた。夫人の宿望始めて達し、欣喜明状すべからざるものがあつた。教名グラシャ(Gracia)充つるに迦羅奢の三字を以てした。是れ即ち天正十五年(西暦1587年)のこ とで本能寺の変後六年目、基督教傳来後三十八年目、信徒総数約四十萬人に達して居た頃だ。其 の時日は不明であるが前後の事情より推考すれば其年の七月頃と思はる、何となれば秀吉が宣教 師追放令を出したのは、天正十五年六月十九日であるからである。蓋し是の推考は當らずといへども遠からずであらう。

 既にして忠興の九州より凱旋するや、夫人の洗禮を受けて基督教徒となりしがを聞いて大いに 怒つた。しば/\短刀を夫人の咽喉に擬して転宗を迫つたが、應じないので、果ては、其の憤怒 を侍女に移し小侍従のマリーの外、他の吉利支丹侍女を悉く放逐して了つたと云ふ事だ。這般の 消息は迦羅奢夫人から宣教師に贈つた書翰の中によくあらはれて居る。

 ペール僧官貴下

タクダサン、ショーの齎した報告によつて貴下等は日本内地から退去されない由を承はり、私共の欣慰は他に比するもの無之程に候。貴下等の勇敢なる御決心は私共の惰気を奮はしむるもの有之、又遠からず大阪に於て再開するの念を生じしめ候。御承知の通り私をして佛教を放棄せしめて固々人力に非ず私をして知らしめしは久しく祈願したる天主の御洪恩によるものに候。天主の御恩寵により私の昏瞑より救はれて以来其の教の道に非ざれば、決して天堂再生の方を得べからざることを確知し、寰宇壊頽し、海陸変遷 萬物消滅に至るとも、私は天主の洪恩によりて確固として安全を保ち候。貴下並に諸教に背戻して聖教破滅の令あるは(秀吉の宣教師追放令を指す)是れ私をして甚だ憂慮せしめ候。然れども貴下等の勇剛、信仰、及び決心は甚だ私を慰安せしめ候

バテレン其の知恵の法を以て心ざし次第に檀那を持候と思召され候處右の如く日城の佛法を相破 事四事に候條バテレン儀日本の地におかせられ間敷候間今日より廿日の間に用意仕り帰國すべき 事といふ秀吉の追放令に反して宣教のバテレン等が日本から退去しない事に決心せしを云ふ。

私は貴下の御出発(大阪を)以来一日も心を安ずることなく常に信仰の為に迫害を受けて困苦して罷在候、然れども天主の御恩恵により死をだも恐れざる勇気を與へられて居り申候。又私の末子(忠利か)が病に罹り危篤に至り医師に見放されしが、其の肉體の死を憂へざれども来世に於て霊魂の罪せられんことを恐る故にマリーに乞い受洗せしめしに直ちに平癒せしを以て、これにジャンの名を與へ候。

幼にして洗禮を受けし迦羅奢の王子が若し忠利ならば彼は後に第二世細川家の君主として慈母の 意に悖り啻に切支丹を転ばせねばならぬのみならず、夥多の切支丹たる家臣を誅戮せねばならぬ 羽目に陥つたのは定めて苦しかつたことだらう。

私の良人は基督信者を讐敵とし、私も亦常に前刻の待遇を受け居り候。其の九州より大阪に帰るの後、私が子女の乳母或る日、良人の意に適さざる些細の事故より直ちに其の鼻をきり、両耳を殺ぎ且官女等を悉く剃髪して邸中より放逐致し候、私は是等を救助し、須要の物品を附與することに注意致し候。又良人丹後の國へ出発するに臨み、私に告げるに、再び此の地に帰れば家臣中或は聖教の信者あるべし、然るときは須らく之れを検査すべき旨を申置き候。私に随従する基督信者の婦人等は、例命私の良人、或は関白殿下が基督教を棄てしめんことを欲せらることも、宗教の為に身命を犠牲に供して之を固守せざるものは無之候。

随分残酷な迫害をしたものだ。戦国時代の武将の習慣とは云へ忠興の気象のはげしかつたことは 一通りではなかつた。それにつき恁ういふ伝説がある。或時座敷の縁に膳を持出して、迦羅奢夫 人と楽しく夕餉をしたゝめ居ると、屋根を葺いて居た屋根屋が、足をすべらして庭に落ちて、キ ューと悲鳴を上げた。それが忠興の清興を妨げた。普通の者ならば「どうじや怪我は無いか」と 尋ねてやるべきところを「むさぐるしい不禮者」と飛びあがつて手討にした。その髯だらけの首 を膳の端に載せた。カラシャ夫人は眉も動かさず箸を使つて居た。忠興は何のつもりか知らぬが 「どうじや、なんとも無いか」と夫人の美しい顔をのぞいた。夫人は矢張り箸を使ひながら「別 に」といつた「そちは蛇だな」「鬼の女房にふさはしゅございましよう」これは風諫であつた。 夫人に目の無い忠興も、この時はモウ一度刀を抜かうとしたほど立腹した。それでも夫人は泰然と箸を使つて居るので忠興は手が出せなかつた。此の荒き気象を切支丹迫害に應用したとすれば 其惨酷さ知るべきである。

私は貴下並に諸教師等の新報を受くることを甚だ欣称致し候。之に由りて私は日夜天主を祈念し教師等をして私及び子女の霊魂幸福の為め新報を贈與せしむることを希望致し候。私及び親族の為めに貴下等の祈念あらんことを懇願し、且私の如き不幸に際し悲嘆に堪へざる者に閑却すること無らんことを至願し候。大阪丹後侯夫人 カラシャ十一月六日

斯くて忠興はあらゆる手段を盡して夫人に棄教を迫つたのであるが、夫人は如何なる艱難辛苦を も信仰の為めには甘んじて受くる覚悟ありて毫も心を動かさず、其の上沈勇温和にして善く夫君 に仕へ信仰以外の點に於て未だ會て父君の意に反したことがないので忠興も遂に我を折り夫人の 信仰を自由に放任し置いて干渉しなかつたと云ふ事だ。

 爾来夫人は信仰堅固にして謹厳に宗教的儀式を行つた。而してあらゆる苦錬を励行した。且つ 専ら慈善事業にはげみ幾多の捨児を養育し又五六人の傳道者を扶持して宣教事業を援助した。其 の信仰の感化夥多の人々を改宗せしめた。忠興の弟興之、迦羅奢の義母マリー、五人の子女等が 其の重なる人々である。彼女は又宣教師より贈つて来た文法書によつて始めて欧文を学び、葡萄 牙語及び拉典語に通じ其の信仰文才ふたつながら基督教内に嘖々たりであつた。

 歳は移つて慶長五年(西暦1600年)となつた。有名な関ヶ原戦争の起こつた年である。

是より先き石田光成等の徳川家康を討たんとするや、家康の上杉征伐の軍に関東に赴いた諸侯の 妻子の大阪邸にある者を城中に召し納れて人質となさんと評議一決し、先ず使者を細川邸に遣は し幼君秀頼公へ忠順を表する為夫人を城中へ差出すべし、若し此の公命に違背するに於ては兵力 を用ゐても押いり曵立つべしとの旨を通じた。蓋しそれは家康に従ひし豊臣家の大小名を掣肘し て家康を孤立せしめ、上杉と東西挟撃せんとの主眼であつた。使者の来る數日前石田等が東に行 つた大名衆の人質を取り立てるとの風聞が頻りに立つたので、迦羅奢夫人は其の風説を聞き「冶 部の少と(三成)三齋様(忠興)とは兼々御あいだあしく候まゝ定めて人じち取はじめには此の 方に申しまゐるべく候、はじめにてなく候はゝ”そのなみもあるべきか。一番に申来候はゝ″、い かゝ″返答してよろしき、せうさいいわみふんべついたすへし」と申し渡された。せうさいは小 笠原少齋秀清で、いわみは河喜多石見一成で二人とも細川邸留守居役である。當時忠興は長男忠 隆、次男忠秋(ママ)とと共に上杉征伐に出陣し、三男忠利は江戸に質となつて居たので、大阪 の細川邸に残るものは夫人女子のみで、少數の家臣が之れを護衛して居たのである。然るに兼て より細川家の奥へ出入りして居たちやうこんと云へる比丘尼あり、今度三成様の内命を受けしば /\迦羅奢夫人を訪ふて大阪城中に入つて人質たらんことを勧めたが、夫人は拒んで應じなかつ た。「今や夫君忠興、家康に従つて関東に在り、夫君の命令なくして出て、城中に入るは夫君の 為によろしからず」と答へ、頑として動かなかつたので、今はこれまでなりと、扨こそ表向きの 談判となつたのである。細川家の留守居役正齋・石見等使者の口上を承はり、たとへ大阪奉行の 下知たりとも、殿の仰せなきに猥に奥方を城中に渡すべからず若し一旦不慮の事あらば、奥方を 刺殺し我々も自殺すべきであると覚悟を定め、使者に対して判然謝絶の旨答へて追ひ返し、直ち に奥に伺候してそれとなく夫人の気色を窺つた。然るに迦羅奢夫人は城中より使者が来たとの由 を聞き、騒ぐ色なく泰然として静に諭して曰く、夫君忠興は武士の義強く、一旦内府(家康)に 一味し今回會津へ御下向ありし上は、上方勢蜂起すとも、内府をすてて京勢に荷擔し給うことあ るべからず。然らば自ら城内へ取籠られなば、殿の御心も立て難し、奉行等討手を差向けなば、 それを一期に覚悟すべければ、直ちに介錯せよと命じたので、正齋等涙を流して大いに感じ、御 志の程辱なし、若し萬一の事あらば、小臣等御介錯申し、後より割腹して冥土の御供仕るべしと 云へば、夫人これをとゝ″めて、否とよ。殉死は神の禁じ給ふことなれば萬一我身に不慮のこと あるも、卿等は決して殉死してはならない、殉死は必と思ひ止まつて貰いたい。我身は基督信者 であれば、死はその畏るゝ所に非ず却つて不朽の生命が天国に得るの道であるが、卿等は然らず、 基督教を信ぜずして其のまゝ死さば、天国に至る望みがないではないか、此の際、速に改心して 基督教を信ぜば、死すとも尚生くべく、我身も亦安心して死に就くことが出来るのであると、い と熱心に勧めたまひしが、正齋等承り、家臣の主君に殉ずるは臣たる者の道にして、武士の栄誉 とする所である。然るに基督教はこの栄誉なる殉死を禁ずるものであれば臣等は之を信ずること を好まない、のみならず今き時急にして教えを受くる暇なし、臣等君夫人の難に殉すべし、死し て以て君夫人を苦めし罪を謝すべきであると、夫人の勧諭に従はなかつた。

 かくて夫人は夫君忠興の叔母で、竹田信重の未亡人である七十餘歳の老夫人宮川殿と世子忠隆 の夫人前田氏とを落し遣り、夫君忠興と世子忠隆とへ遺書を認めて霜と云へる侍女に託し、又十 二歳と二歳との女子二人を侍女に託して宣教師の許へ送り、今は心安しと暫く一室に入つて天神 に祈祷して居た。世子與一郎忠隆の夫人前田氏の避難されたことは、後で大問題になつたと云ふ 事だが、その避難振りにかんして両説がある。霜女の覚書には

與一郎様御上様へも人じちに御出しあるまじく候まゝ、是ももろともに御じがいいたさるべきよし内々御やくそく後座候事然るにいよいよ最後の時に至り内々仰合され候事にて御座候ゆゑ、與一郎様御上様(前田氏)および一所にて御はて候はんとて御へやへ人を遣はされ候えばもはやいづかたへやらん御のき成され候に付、力なく御果成され候云々

とある。然るに小須賀覚書には

 越中守(忠興)子息與一郎殿(忠隆)は前田肥前守殿(利長)妹婿、此の嫁御の儀は若き上臈を召連候て退き申事中々成申間敷候間、幸屋敷隣備前浮田中納言殿内儀は、嫁御の姉御にて候間、築地一重の事に候間、橋を架け候て隣へ是非々々御退候へと姑御(迦羅奢夫人)御申候故、嫁御も備前中納言殿御前へ御退候、越中守殿御前(迦羅奢夫人)嫁御も宮川殿を出し抜き御退けり候云々

とある。即ち霜女の覚書によれば前田氏は姑迦羅奢夫人との約束に背いてひそかに立ち退いたので あるが、小須賀の覚書によると迦羅奢夫人が出し抜にに退去せしめたのだといふ、

蓋し迦羅奢夫人の基督教的信仰によれば立ち退かせたのが事実であらう。然もそれが出し抜けあつ たので霜女は恣に避難されたのだと合点したのではあるまいか。又世傳には両人の子供を刺し殺し たとあるが、それは全く虚説で、熱心なる基督教徒として其の子供を殺す筈はなかつた、二女を 宣教師に托したのが事実であらう。

 やがて討手の来るや、夫人は侍女等に永の訣をつげ呉々も堅く殉死を禁じ、泣き哀れみつゝ左右 より取縋る侍女等を諭して室外にさらしめ徐に衣紋をつくろひて、最後の祈祷をさゝ下基督馬利亞 の御名を唱へながら、家臣の介錯を受け、其の霊は永遠の安息に入り、其の遺骸は炎々と立昇る火 焔につゝまれて空しく灰燼となつてしまつた。正齋皆難に殉したが、獨り稲富なるもの防ぎ矢仕ま つるとて表門に向ひ大阪方へ内通して、遁れ去つたと傳へて居る。

 夫人の切なる説諭によりて最後の永訣を悲しみつゝ避難したる侍女等は、泣く/\猛火を犯して 邸内より遁れ出で、吉利支丹寺にオルガンチノ師を訪ひ、告ぐるに君夫人の最後のさまを以てした。 オルガンチノ大に驚き、且悲しみ、鎮火を待つて、翌日、侍女を指揮して君夫人の遺骨を収拾せし め、厚く之れを埋葬したが、忠興凱旋後改めて葬儀を執行した。それは勿論基督教式であつた。 葬儀當日オルガンチノ師は近畿地方にありし司祭修道士を悉く招集して参列せしめた。又寺院の周 囲には黒幕を張り、其の中央に夫人の棺を据え、繞らすに無数の燈火を以てし、点々たる火光は宛 ら冲天に輝く星の如くであつた。やがて司祭オルガンチノ師は、かたの如く、極めて荘厳なる葬儀 を執行し、夫人の信仰、其の節操の高潔、無比、節烈、超邁なるを演説するに至り、衆皆感激して 流涕し敢て仰ぎ見るものはなかつた。会葬せる諸侯千有餘人、未だ會て斯る厳粛にして盛大なる葬 儀を見たことはないと云つて嘆称したと云ふ。此の如く迦羅奢夫人は貞女として生き、烈女として 死んだ。基督に在つて生き、信仰的に受難して昇天した。その感化實に偉大なるものがある。さし も吉利支丹嫌ひであつた忠興侯も此の時より吉利支丹に対し好意を寄せ、教徒を保護したと云ふ事 である。享年三十八歳。熊本の細川家の墓所泰西寺(ママ・泰勝寺)に藤孝夫妻と忠興夫妻の墳墓 がある。そこの忠興夫人の墓の傍らに九曜の紋所を刻みたる石の手水鉢がある。それは夫人殉難の 際、水鏡を寫したものであると傳へて居る。云ふまでもなく九曜の紋は細川家の定紋である。

 細川忠興夫人玉子姫が殉難の時遺命を託された侍女霜といへるものが、偃武の後まで存命し、夫 人の孫細川肥後守光尚の問に答へたのが左記の覚書にて、関ヶ原役を距る四十餘後のものなれども 実際目撃の模様を録したる書なれば信を措くに足るものである。

   しうりんゐん様御はて成され候次第の事

一、石田治部少亂の年七月十二日小笠原少さい、河ぎたいわみ両人御臺所までまゐられ候

  私をよび出し申され候は、治部の少かたよりいづれも東へ御たち成され候大名衆の人

  じちを取申され候よし風聞仕候が、いかゝ”仕候はんやと申され候ゆゑ、即ち秀りん 院様ひその通申上候へば、秀りんゐん様御意成され候は、治部の少と三齋様とは兼々 御あひだあしく候まゝ、定めて人じち取はじめには此方に申まゐるべく候、はじめに てなく候はゝ″よそのなみもあるべきが、一番に申来候はゝ″御返答いかゝ″遊ばさ れて能候はんや、せうさい、いわみぶんべついたし候様にと御意被成候ゆゑ、其通私 両人へ申渡候

一、せうさい、いわみ申され候は、かのかたより右のやうす申来り候はば人じちに出候は ん人御座なく候、與一郎様、與五郎様はひがしへ御立成され候、内記様は江戸人じち に御座候、唯今爰もとにて人じちに出候はん人一人も御座なく候間 出し申すこと成 まじきと申すべく候、ぜひとも人じち取候はんと申候はゝ″、丹後へ申遣はし幽齋様 御上り成され御出候もの歟、其外何とぞ御さしづ可有之候まゝ、それまで待候ゑと返 事いたすべきと申上られ候へは、一段然るべきよし御意御座候事

一、ちやうこんと申すびくに御上様へ御出入仕り候を、彼方より此人をたのみ、内せうに て右の様を申こし、人じちに御出候様にとたびたびちゃうこん申候へども、三齋様御 ためにあしく候まゝ、人じちに御出候事はいかようの事候とも、中々御どうしんなき よし仰られ候、また其の後まゐり申され候は、左様に候はゝ″、うきたの八郎殿は與 一郎おくさまにつき候て御一門中にて御はし候まゝ、八郎殿まで御出候えば、其分に ては世間には申まじく候まゝ、さように遊ばされ候へと申いり候事

一、御上様御意成され候は、うき田の八郎殿は尤も御一門中にて候江ども、是も冶部少と 一味のやうにきこしめされ候まゝ、それまでも御出候ても同前に候まゝ 是も中々御 同心なく候ゆえ内せうにの分にては埒明申さず候事

一、同十六日かのかたよりおもてむきの使参り候、是非/\御上様を人質に御いだし候へ、 

  左なく候はゝ″押かけ候て取候はんよし申越候に付、少齋、石見申され候は、餘り申 たきまゝの使にて候、此上は我々ども是にて切腹いたし候ともいだし申まじき由申遣 はし候、それより御屋敷のものども覚悟仕申候事

一、御上様御意には、誠に押うり候時は御自害遊ばされべく候まゝ、其時少齋奥へまゐり 御かいしやくいたし候にと仰せられ候、與一郎様御上様へも、人じちに御出しあるま じく候まゝ、是ももろともに御じがいなさるべきよし内々御やくそく後座候事

一、少齋・石見・稲富此の三人だんがう有て、いなとみは表に敵を防ぎ候え、其ひまに御 上様御さいご候様に仕るべきよし談合御座候ゆゑ、即ち稲富は表門に居り申候、左候 て其日の初夜の頃敵門までよせ申候、稲富は其時心がはりを仕り、敵と一所になり申 候、其様子を少齋聞き、みはや成るまじくと思ひ、長刀を持、御上様御座所へ参り、 只今が御さいごにて候よし申され候、内々仰合され候事に御座候ゆゑ、與一郎様、御 上様をよび一所にて御はて候はんとて御へやへ人を遣はされ候へば、もはやいづかた  へやらん御のき成され候に付、力なく御果成され候、少齋長刀にて御かいしやくいた し申され候事

一、三齋様、與一郎様へ御書置成され私へ御渡し成され候ば、おくと私と両人にはおちの き候て御書を相届、御さいごの様子、三齋様へ申上候やうにと御意成され候ゆえ、御 さいご見すて候ては落まじく候まま御供いたし候はよし申上候えども、二人はぜひお ち候へ、さなく候えば、此様子ごぞんじなされまじく候まま、ひらにと仰せられ候故、 ぜひなく御さいごを見届しまい候ておち申候、内記様御乳人には内記様への御かたみ を遣はされ候事

一、私ども御門へ出候時分はもはや御やかたに火かゝり申候、御門外には人大ぜい見え申 候、 後に承り候えば敵にては御座なく候よし、火事故あつまりたる人にて御座候と申候、 敵まゐり候も一ぢやうにて候えども、いなとみを引連御さいご以前に引申たるよし、 是も後に承はり候、即ち御屋敷にて腹を切申候人は、少齋、石見、いわみ甥六右衛 門、同子一人、此分をば覚え申候。其外も二三人もはてられ候由に申候へども、是は しかと覚え申さず候、こまごましき事は書付けられず候まゝ、あら/\大かた如此に て候。以上

 正保五年二月十九日   しも

 小須賀覚書

 長岡越中守殿、子息與一郎殿 同舎弟内記殿両三人は家康公御同陣にて景勝陣に立被申候。越中 守忠興御内儀は明智日向守光秀御息女にて候。大阪玉造口に屋形候て其れに御入候。越中守殿奥方 の法度世上に無之堅き仕置にて、地震の間と申候て八畳敷に座敷を拵へ、四方の壁に鉄砲の薬を紙 袋に入懸並べ置候て何時も大地震あり候はゝ″御内儀右の座敷へ御入候て焼御果候筈に不断之仕置 にて候由。就其屋敷の表は小笠原正齋預り、裏の門は稲富預り、奥方は光秀公より御前に附参候川 北石見請取、右の三人は長岡越中守殿大阪屋敷の留守居にて候。越中守殿と石田冶部少輔三成、前 方より中悪敷猶以て此度は敵味方にて候故、右三人の留守居拵へ候は自然越中守殿御前を人質に取 に参候はんこと気遣仕居候處、稲富は其頃鉄砲之天下一にて知行千石取、生国は丹後の國の者にて、 冶部少輔殿内衆に鉄砲の弟子多持居候に付、越中守殿御前を人質に取申由沙汰御座候と、稲富方へ 内證申来候間、小笠原正齋、川北石見被相心得候へと稲富申候に付屋敷の門外を見せ候へば人多居 申候由候間、扨は必定と存候て、川北石見御前へ参り候て、右の旨申入候。幽齋の妹若狭國竹田殿 内儀後家にて年七十に餘り、越中守殿伯母御を常に御内儀に被付置候處に御前申候は、我等は人質 取候はんと申来候はゝ″、いかにも賎しきなりを致置可申左候へば、宮川殿は都の建仁寺に御子息 雄長老御座候間是非御退頼申候と色々被仰候に付、宮川殿建仁寺へ退被申候。越中守殿子息與一郎 殿は前田肥前守殿妹婿、此嫁御の儀は若き上臈を召連候て退き申事中々成申間敷候間、幸屋敷隣備 前浮田中納言殿内儀は、嫁御の姉御にて候間、築地一重の事に候間、橋を架け候て隣へ是非々々御 退候へと姑御御申候故、嫁御も備前中納言殿御前へ御退候。越中守殿御前嫁御も宮川殿も出し抜き 御退け候。其内に稲富裏の門を明逆心致候而、立退申候。御前地震の間へ御入候て川北石見守御呼 被成被仰候は局しも事は我等供可致候と色々様々申候へども、不残何も御果候はゝ″越中守殿、與 一郎、内記帰陣致しても、此一巻語り傳へ可申者無之候間、しも儀ははしたの様に出立候て、我等 自害致し候段々見届候て、火を掛け候と、一度に小さき包に物を入戴き局を退候て何方にも隠れ居 候て、越中守殿、與一郎、内記帰陣被申候を待居候て、逢申具に物語致候へば、草の陰にても満足 可申、其上にて越中守殿、與一郎、内記可為満足と御申候て、夜半時分に川北石見守長刀を持御前 へ懸御目、石見申候は、御祝言之時懸御目只今御目に懸り納めにて御座候、追付御供可申と申候て、 長刀にて介錯仕り、地震の間に火を掛け、面々廣間へ出候て、小笠原正齋、川北石見両人致切腹候 て、長岡越中守殿屋敷焼拂申候て、局おしも退済まし候て京都に忍び居候て越中守殿、與一郎殿御 帰陣の時右の段々委細物語申候。内記殿は人質として江戸に御置被成候。