細川内膳家肥後史料 「廃嫡後の細川忠隆」

                            

    細川忠興とガラシャの嫡男忠隆(1580-1646)は、1600年の岐阜攻めや関ヶ原合戦に父忠興に従いある
   いは細川家の将を率いて戦功をあげ、内府(徳川秀忠)からも感謝状を得た。関ヶ原合戦前後における忠
   隆の松井興長等宛自筆状5通が松井文庫に残っているが、それらでは忠隆は自他ともに嗣子と認められ
   ている様子がうかがえる(八代市立博物館史料)。

    しかしガラシャ自刃の際に、妻の前田千世が大阪玉造屋敷から逃れたことを咎められ、忠興から千世離
   縁を命じられた。忠隆は千世との離縁を納得せず、千世をかばって前田家を訪ねて助力を求めたりしたが、
   忠興の怒りを買い勘当される(1600年12月、父子不和となる/綿考輯録や内膳御家譜)。さらに1604年に
   は廃嫡されてしまい、忠隆は千世と熊千代を伴い京都で蟄居(号は休無)した。忠隆の妻は前田利家の愛
   娘だったため、前田・細川の姻戚関係が徳川家康から快く思われていなかったことにも廃嫡の一因があっ
   た。

    廃嫡後の忠隆の京都での生活は、所領を持ち京都に在住していた祖父細川幽斎が支えた。内膳家史
   料では、1605-1609年に京都で生まれた徳、吉、福、万の4子女の母は千世姫であるとしている。つまり、
   千世は細川家からは離縁されたが、忠隆とは離縁していなかった。 千世はのちに京都を離れて加賀に
   帰り前田八家のひとつ村井家を継いだが、その時期は1605年ではなく幽斎が死去した1610年以後の可
   能性が高いと推測した。「(細川忠隆公と前田千世姫)など」。
    休無は1620年には長谷川キク(喜久 当時20才)を迎えており、程なく二人の男子を得(内膳御家譜他)、
   この子が後に熊本の細川(長岡)内膳家となる。

  *************************************************************************************
  
        以下に内膳御家譜などに基づく調査結果を示すが、作成にあたり、永青文庫川口恭子氏、
       前田土佐守家資料館、熊本県立図書館、松井文庫と八代市立博物館林千寿氏ほかの方々
       に種々の貴重な史料や御教示を頂いた。ここに深く感謝するものである。                                                           
                                        平成17年8月7日 内膳縁者 細川純

  *************************************************************************************


   1580年:細川忠興と明智玉(後のガラシャ)に、嫡男忠隆(幼名熊千代、与一郎)が山城国青龍寺にて誕生。
         同年に、前田利家とまつに7女の千世(ちよ)が誕生。
   1582年:本能寺の変。細川藤孝は隠居し幽斎となる。忠興は玉を丹後深山の味土野にかくまい、時折り訪 
         れていた。
   1584年:秀吉の許しで玉の味土野幽閉解かれる。この年に玉に次男興秋誕生。
   1586年:玉に三男忠利誕生。
   1587年:玉洗礼を受け、洗礼名ガラシャ。この年秀吉のバテレン追放令。
   1597. 1:豊臣秀吉の斡旋で、細川忠隆と前田千世が婚姻する。
   1598年:豊臣秀吉逝去。
   1600. 1:徳川家康、細川忠興に対し第3子忠利を証人(質)に出させて、豊後杵築6万石を与える。

   1600. 7:関ヶ原の戦いを前に、忠興室ガラシャ(法名秀林院)は石田三成方の人質になることを拒み、細川
        大阪邸内で自刃。そのとき千世は、細川大阪邸から姉の豪が嫁していた隣の宇喜多邸に脱出。
      
       ★★「秀林院様御はて被成候次第事(志も女覚書より)」
      
      石田治部少乱のとし七月十二日に小笠原少斎、河喜多石見両人御台所まで参られ候て、わたくしをよ
     び出し、申され候ハ、治部少方より、いずれも東へ御たちなされ候大名衆の人しちをとり申候よし風聞つ
     かまつり候がいかが仕候はんや、と申され候ゆへ、すなわち、秀林院様へそのとをり申上候、秀林院様
     御意なされ候ハ、治部少と三斎さまとハかねかね御あいだ悪しく候まゝ、さためて人しちとり申はじめハ、
     此方へ申まいるへく候、はしめにてなく候ハハ、よそのなミもあるへきが、一はん二申きたり候ハハ御返
     答いかがあそバされよく候ハんや、少斎・石見分別いたし候やうにと御意なされ候ゆへ、すなわち其とを
     りをわたくしうけ給両人二申渡し候事少斎・石見申され候ハ、かの方より右の様子申しきたり候ハバ、人
     しちに出し候ハんひと御座なく候、与一郎様ハひがしへ御立なされ候、内記さまハ江戸二人質に御座候、
     たゝ今ここもとにて人しちに出し候ハん人一人も御座なく候間、出し申事なるまじきと可申候、せひ共に
     人しちとり候ハんと申候ハバ丹後へ申遺し幽斎様御上りなされ御出候物か、其外何とそ御さしつ可有候
     まゝ、それまて待候へ、と返しいたすへきよし申上られ候へハ、一段しかるへきよし御意に候事ちやうこん
     と申比丘尼、日比御上様へ御出入仕人御座候を、彼方より此人をたのミ、内証にて右之様子申こしょ、人
     しち二御出候様二と度々長ごん申候へ共、三斎様御ため候まゝ、人しちに出申候事ハ、いかようの事候
     共、中々御どうしんなきよし仰候、又其後まいり申されしハ、左様に候ハ宇喜田の八郎殿ハ与一郎様をく
     方にてつき候て御一門中二而御座候間、八郎殿まて御出候へハ、其分にてハ御人しちに御出候とハ世
     間にハ申ましく候まゝ、左様に被遊候へと申参候事御上様御意なされ候ハ、宇喜田の八郎殿ハ尤御一
     門中二而候へ共、これも治部少と一味のやうに被聞召候間、それまて御出候ても同前に候間、これも中
     々御同心これなくて、右内証に而ての分に而ハらち明申不申候事同十六日彼方よりおもてむきの使参
     候而、せひせひ御上様を人しちに御出し候へ、左なく候ハおしかけ候て取候ハんよし、申しこし候二つき、
     少斎・石見申されしハ、あまり申度まゝの使にて候、此上ハ我々共是にて切腹仕候共出し申ましき由申
     遺候、それよりは御屋敷中の者共覚悟致罷在候事御上様御意にハ、まことおし入候時ハ、御じがい可被
     遊候まゝ、其時ハ少斎をくへ参而、御かいしやくいたし候様二と被仰候、与一郎様御上様をも人しち二御
     出し有ましく候まゝ、是ももろ共二御じがいなされ候へきよし、内々御約束御座候事少斎・石見・稲富談合
     ありて、稲富二ハおもてにててきをふせき候へ、そのひまに御上様こさいこ候様二可仕由談合御座候故、
     則其日の初夜の比てき御門前までよせ申候、稲富ハ其とき心かわりを仕、かたきと一所二なり申候、其
     やうすを少斎きき、もはやなるましくと思ひ長刀をもち御上様御座所へ参り、只今がこさいこにて候よし申
     され候、内々仰合候事にて御座候故、与一郎様おくさまを呼び、一所にて御はて候ハんと、御へやへ人を
     被遣わ候へ共、もはや何方御のき候哉らん無御座候故、御力なく御はてなされ候、長刀にて御かいしゃ
     くいたし候事わたくし共御門へ出候時ハもはや御やかたに火かゝり申候、御門の外二ハ人大勢みへ申候、
     後に承候へハ、敵二てハこれなきよし二候、敵参り候も一定にて候へ共、稲富を引つれ御さいこ以前二
     引たるよし、是も後二承候、則御屋形二テはらをきり候人ハ、少斎・石見、いわミ甥六右衛門、同子一人、
     此分をハ覚え申候、其他も二三人はてられ候よし二候へ共、是ハしかと覚不申候、こまごましき事ハ書つ
     けられす候間あらあらハ大かたハ如此候。           
                                                      以上  志も 印  
            正保五年二月十九日

   1600年:忠隆は、軍勢を率いて岐阜攻め、関ヶ原などに参陣して武功をたてる。

       ★★ 「関原軍記大成11巻 丹後国田辺城攻」

      大老奉行の面々、大坂において評議せられけるは、丹後侍従忠興は近年内府に因深く御幼君に対し
     て疎略なれば、たとえ今度の企を聞くとも定めて内府の味方すべし。急ぎ丹後へ軍勢を差向け老父幽斎
     を攻むるにおいては、越中守・玄蕃頭、父が救難を救わんためにその志を翻し、日頃の罪を陳謝してこの
     方へ馳来たるべし。もししからずば、他人見懲のために彼が城を攻落し、父幽斎に腹切らせて丹後一国
     を治むべし。しかれば、丹州福知山の城主小野木縫殿助公郷を陣将として、前田主膳正・生駒左近大夫
     小出大和守・石川紀伊守・前野但馬守・谷出羽守・川勝左兵衛尉・織田上野介・山名主殿頭・藤掛三河
     守・長谷川鍋・高田河内守・毛利伊勢守・毛利民部大夫・杉原伯耆守・別所豊後守・斎村左兵衛佐・山
     崎左馬允・玄以法印等、丹後・但馬・播磨・筑紫の軍勢およそ一万七千余人、丹後へ発向せらるべしと
     下知せらる。
      忠興の嫡子与一郎忠隆は、父の跡より関東へ下向すべしとて大坂より丹後へ下り、出陣の用意ありけ
     るが、上方の騒動仄かに聞えしかば祖父幽斎を心許なく思い、しばらく出馬なかりし処に、幽斎、与一郎
     を呼びて申されけるは、上方物騒なるによって我等を覚束なく思うは然る事なれども、先日御催促を蒙り
     ながら出陣の時節遅滞せば関東の御沙汰悪しかるべし。その上、上方の騒動思懸なき事にはあらず。
     敵、もし自国へ働くにおいては兵略を尽して防ぎ戦い、越度なき様に下知すべし。早々関東へ馳下り、越
     中守・玄蕃頭に我等が存念案進〔安心〕申聞せよとあるによりて、忠隆は七月上旬に丹州を立ちて若狭
     路にかかり、大飯郡を経て大谷口という所に至る。小浜の城主木下若狭守勝俊の家老三輪五右衛門・
     松田又右衛門等相談しけるは、太守伏見に御在番なれども、内府方とはいい難し。しかるに羽柴与一殿、
     関東へ発向せらるるを、何心なく御城下を通さば後難の程も如何あらん。さればとて主人の下知もなきに
     路を塞がんも粗忽なれば、所詮、与一殿へ御城下を通り給わぬ様に理を申さんとて大谷口へ使者を出し
     件の意趣を述べければ、忠隆この旨を許容せられ、かの使者を案内者として矢田部坂を打越え名田庄
     川を渡り、小崎の方へ馬を進めらる。

   1600年:千世脱出が忠興の怒りに触れて、千世を離縁するよう忠隆に言い渡す。忠隆は離縁を納得せず、
         千世とともに高守城(中国地方?)に逗留したが、それが忠興の耳に入り退去した。「綿考輯録・
         巻五」 すなわち、荒木善兵衛が高守城預かりの時に、父細川忠興と不和になった忠隆がここに
         一時身を置いた。室前田利家女も高守城の忠隆を訪れたが、それが忠興に知れて非難され、二
         人で前田家を頼り加賀に向かった。
         しかし前田家でも徳川家をおそれ、二人を受け入れなかった。

   1600. 12:忠隆は離縁を承知せず、父と不和になる「父子不和:綿考輯録」。このことから、細川家と前田家
          は疎遠になる。しかしその後も千世は忠隆とともに暮らした(二人の間では離縁していなかった)。
          忠隆には、本能寺の変で妻ガラシャを庇って山奥の味土野に匿った父忠興に対する複雑な思い
          もあったと思われる。

      ★★「八代市立博物館平成十年度秋季特別展覧会出版物:関ヶ原合戦と九州の武将たち p91
          (細川忠隆の廃嫡と忠利の後嗣)/林千寿氏」

      関ヶ原合戦当時、忠興にはガラシャとの間に3人の息子がおり、長男忠隆21才と次男興秋18才は父
     とともに出陣し、証人として江戸にあった三男忠利は徳川秀忠に近侍した。慶長五年六月二三日、家康
     の会津遠征に従軍するため、忠隆と興秋は先陣として丹後国宮津を出発する。父忠興は四女の万の病
     気により四日遅れで出陣したため忠隆が父に代わって軍勢を指揮し、その後近江国朝妻で忠興と合流
     して下野国まで進軍している。七月二五日、石田三成挙兵の報を受けて小山の評定が開かれる。
     忠隆はこの日、松井興長に宛てた手紙(松井文庫所蔵)の中で「明日は大略陣替候はんよし心得申候」
     と述べ、忠隆の予期したとおり忠興らの会津遠征軍は一転して東海道を西上することになり、忠隆もこれ
     に加わった。忠隆自筆状二通(松井文庫所蔵)はこの西上の途に書かれたもので八月五日、六日付け
     と思われる。忠興と共に進軍を続けた忠隆は岐阜城攻撃、関ヶ原合戦に参加し、興秋とともに細川家の
     一員として奮闘した。徳川秀忠が九月二四日に出した書状(松井文庫所蔵)は、合戦における忠興忠隆
     の戦功をたたえたものである。
      忠隆は関ヶ原を中心とする一連の戦いにおいて、常に父忠興に同陣して戦功をあげている。当時の忠
     隆の動向を見る限り、忠隆は忠興の跡継ぎの地位にある。ところが、戦後忠隆を待ち受けていたのは廃
     嫡という運命であった。「綿考輯録」によると、忠隆の妻前田千世が姑であるガラシャとともに死を選ばず
     屋敷から逃れたことが忠興の怒りを買い、千世をかばった忠隆は廃嫡されたという。しかしながら、その
     後次男興秋も廃嫡され、徳川家の心証の良い三男忠利が細川家の跡継ぎとなったことを考え合わせる
     と、忠興が前田家との姻戚関係を断つことで新しい権力者となった徳川家への従順の意志を示して自家
     の存続を図ろうとした意図が浮かび上がる。忠隆が廃嫡された時期は豊前豊後への国替えが決定され
     た11月から12月にかけてと考えられる。国替え決定後に書かれた松井興長宛の忠隆書状11月6日付
     は、国受取準備のため豊前に派遣された松井康之の労をねぎらう文書であり、11月20日付書状は、丹
     後で新知の豊前のことを気にかけながら忠興の帰国を待っている様子が書かれている。この2通の書状
     (松井文庫所蔵)を見る限り、忠隆が廃嫡された様子はない。忠興が豊前に移るのは12月になってから
     であるが、忠隆が豊前に来た形跡はないので、おそらくこの間に廃嫡されたのであろう。廃嫡後、剃髪し
     て休無と号した忠隆は山城国北野に閑居し、正保3年に67才で亡くなった。(松井文庫所蔵の忠隆自筆
     状5通の内容は後掲)
     一方、三男忠利(光)も関ヶ原合戦を契機として人生の転機を迎える。光は慶長五年正月から証人(人
     質)として江戸にいた。このため忠興への従軍は叶わなかったが徳川秀忠に近侍する役目が与えられ
     た。忠興は岐阜城攻撃にも関ヶ原にも出陣できなかった忠利を気遣い、遠征先から江戸の忠利宛に5通
     の書状を送っている。慶長九年(1604)忠興は跡継ぎを忠利に定めた。「徳川実紀」の記述では、忠興の
     望みによって忠利を嗣子にしたことになっている。しかし関ヶ原合戦当時、忠利が江戸で秀忠に近侍しそ
     の働きを認められている事を考えると、徳川家から何らかの意見があったのではないかと推測される。

   1602年:細川忠興は丹後田辺城主から豊前豊後中津城主となり、小倉城の築城を開始した
        (完成は1607年)。
   1604年:細川家では第3子忠利を忠興の嗣子と決め徳川に届ける。
        忠隆は剃髪し休無と称して、妻子を伴い京都で蟄居した(新・熊本の歴史:熊本日々新聞社発行 
        花岡興輝著より)。ちなみに蟄居後の忠隆は、隠居所領6千石を持ち京都に在住していた祖父幽斎
        から支援を受けた。忠隆住居となった聚楽第跡地(旧利休邸)の北野屋敷も幽斎の援助。
   1604年:忠隆と千世の嫡男熊千代(生年不明)が幼くして死去。号は、空性院殿則謳大童子。西園寺に葬る
        (内膳御家譜地)。
   1605年:忠隆と千世に長女徳が誕生。徳は長じて西園寺実晴公(のちに左大臣)に嫁し公満と公義(別名公
         宣又は随宣)を生み、69才京都で没する(内膳御家譜完)。1608年:忠隆と千世に次女吉が誕生。
         吉は奥山三郎兵衛秀宗に嫁し、63才没。
   1609年:忠隆と千世に福誕生。 その後、萬女誕生するも早世(内膳御家譜地)。 福は京都の久世中将通
         武朝臣に嫁し、27才没。 
   1610年:細川藤孝公(幽斎)、京都三条車屋町の自邸で逝去、南禅寺に葬る。幽斎葬儀参列者の中に休無
         の名はない。位牌は幽斎次男興元(常陸谷田部藩主)の嫡男7才が捧げる。
   161?年:前田千世、忠隆と別れて加賀に帰り前田八家のひとつ村井家に再嫁す。幽斎公遺領6千石のうち、
         3千石分が忠隆隠居料として認められる。
   1613年:千世再嫁先の村井長次(1568〜1613)死去、千世は春香院となる。村井家では養子が家督を継ぐ。
   1615年:大阪落城、豊臣秀頼ら自害し豊臣滅亡。米田監物(後に帰参し細川藩家老)とともに大阪城豊臣方
         に参陣した忠興次男の細川興秋(母はガラシャ)は稲荷山東林院で切腹。
   1616年:徳川家康公没。
   1617年:前田家の芳春院(まつ)没。
   1620年:「史料纂集 泰重卿記のU巻60頁」元和六年12月9日に土御門泰重卿が「長岡休無へ諸白樽二ツ
         遣シ候」。その諸白樽は、前日に泰重が吉宮(道晃親王)から諸白壱荷を拝領したお裾分け。
   1621年:忠興公三男の細川忠利(母ガラシャ)が正式に細川藩の家督を継ぐ。
   1621年:忠隆と喜久(当時21才)の長子、忠恒誕生。
   1622年:忠隆と喜久の次子、忠春誕生。
   1626年:この冬、忠興公は勘当後初めて北野の忠隆邸を訪問し、以後は忠興公上洛時(京都吉田に細川公
         邸あり)には、父子の行き来が始まる(内膳御家譜地 川口恭子氏読解)。
         なお、この年に将軍家光公が上洛した際に忠隆を宥めて以後は還俗したとの異説があるが、忠隆
         と立允を混同しており信憑性に欠ける。

     ★★「丹後叢書 一色軍記」

     與市郎忠隆剃髪して名を立允と改め洛陽に閑居しけるが、遙かに後寛永の頃三代将軍家光公御上洛の
     時忠興夫婦の忠義をや思召されけん彼立允を召出し給ひ還俗させられ父の勘當をもゆるさしめたまひ中
     務少輔と改名させらる。

   1626年:11月京都の休無(忠隆)より小倉の忠利公へ書状。明石源左衛門が困っていることがあり訪ねてゆ
         くのでよろしくと(福岡県史/小倉藩時代の項の記述)。
   1628年:正月に休無より小倉に飛脚。町宿申し付けと京都借銀前書きの件(福岡県史/小倉藩時代の項)。
   1628年:京都三人衆から忠利公への申越し。休無殿の娘婿久世通武殿死去とのこと、忠利公は泰勝院へお
         りの際に御冥福を祈る(福岡県史/小倉藩時代の項)。
   1632年:細川家は豊前小倉から肥後熊本へ移る。忠利公が熊本城主。父の忠興公は居所として八代城主
        へ。忠興公は忠隆を八代に呼んで父子正式和解し(内膳御家譜地)、熊本で住むように説得したが、
        忠隆は固辞して京都に帰った。
   1638年:三斎公、休無と大徳寺清巌和尚や松屋久重などと茶の湯(三斎公伝書)。
   1639年:三斎公、休無や清巌和尚や松屋久重などと茶の湯(三斎公伝書)。
   1641年:前田千世が加賀村井家で死去。法号は春香院、墓地は野田山。
   1641年:細川藩主の忠利公死去。
   1643年:三斎公、休無や土御門卿などと茶の湯(三斎公伝書)。
   1644年:休無晩年の住居は、京都毘沙門町と判明。寛永二十年の滞在手形調査書に熊本藩関係者に毘
         沙門町の長岡休夢と記載「朝尾直弘著 近世京都の牢人」。
   1645. 12:細川忠興公(三斎)熊本八代で死去。
   1646. 8:忠隆(休無)京都で死去。忠隆の遺骸は大徳寺高桐院(京都市北区紫野)に葬る。
         現高桐院の裏庭。法号は泰仰院瑞厳宗祥。
         休無隠居料のうち千石は、徳などの娘達に分けるように遺言があった(内膳御家譜地)。
         徳の夫西園寺実晴公は、後に朝廷で左大臣まで昇進するが、それには休無の遺産が貢献と推定。
   1648年:喜久と忠恒、忠春は藩主光尚公の招きで熊本へ。一門家臣として長岡姓を名乗る。
   1651年:朝廷は内大臣西園寺実晴公を勅使として日光に派遣した(徳川家光公に対して太政大臣・正一位
         の追贈と大猷院の謚号を決めたため)。
   1660年:万治3年、忠恒は肥後益城郡秋多田村に瑞岩寺を再興し、ここを内膳家菩提寺とし、休無の墓を作
         る(内膳御家譜完)。
   1665年:「http://www.kikuyo.co.jp/html/shoukai/B.html#sai_haka」
        熊本県古閑原西端から北に農道を登った芳ケ平に西園寺随宜公を祀る神社がある。その境内中央
        部に玉垣で囲まれた墓碑あり、正面に「圓明院月渓浄心大禅定門」背面に「西園寺左大臣実晴男随
        宜之墓」と刻まれている。この墓の主西園寺随宜朝臣は、時の左大臣西園寺実晴の末子として京都
        に生まれたが、生来宮仕えを好まず、叔父にあたる長岡忠春の領分である入道水村の安福寺(阿弥
        陀堂)を仮の住居として寛文5年(1665)に移り住み、寛文10年8月15日病のため約45才で逝去。 

   1665年:寛文5年に藩主綱利公より忠恒(与八郎、長岡友山)に三千石への加増とお城に屋敷を下さる。
        また忠清(忠春、長岡半左衛門)にも三千石への加増と千葉城屋敷を下さる。なお忠恒には嗣子がな
        かったため、後にこの三千石を忠春分に合わせて計6千石が忠春の嫡子忠季に相続され、内膳家
        禄となった         (内膳御家譜完)。
   1673年:寛文13年9月13日、左大臣西園寺実晴公御台所の徳が京都にて逝去69才。西園寺菩提寺に葬る
        (内膳御家譜完)。
   1680年頃:徳と西園寺実晴公の子(実際は孫)が細川藩主綱利公女(松?17才で死去)と婚約するも女死去
         との記述(系図纂要11冊上)。
   1683年:天和3年4月24日 忠恒、忠春母の長谷川喜久(眞光院)逝去83才。法名眞光院霊■妙照。 
         肥後瑞岩寺に葬る。
   1702年:益城郡秋多田村の瑞岩寺を、飽田郡島崎村千原に移設。
   1704年:忠春逝去、83才。 法名本浄院殿月渓義水大居士。 
   1709年:忠恒(友山)逝去、89才。 法名松雪院殿春■友山大居士。
   1716年:享保元年9月23日千葉城邸から出火し屋敷焼失のため、内膳家は翌年2月朔日、古京町邸に移る。
   1746年:忠季次男の季規(桂山)、千五百石扶持、細川本藩家老に。
   1754年:藩主重賢公が藩校時習館設立、忠季嫡男の忠英(タダフサ)が初代時習館長に。
   1812年:忠虎嫡男の忠壽(タダヒサ)誕生。
   1852年:忠壽嫡男の忠穀(タダヨシ)誕生。
   1871年:明治政府の廃藩置県。
   1875年:忠穀と山本子爵女泰子の嫡男忠雄(タダオ)が誕生。
   1877年:「熊本市にある旧江図花壇(旧砂取邸)庭園の変遷に関する研究/延藤二三子・李樹華」
        現熊本県立図書館南の庭園は旧江津花壇(旧細川砂取邸)であり、1877−1922年は砂取細川内
        膳男爵家の屋敷であった。
   1878年:明治維新で朝廷と熊本藩とを結ぶ功があった内膳7代且つ牧崎分家祖の忠顕(忠虎次男として
           1816年生)が逝去。瑞岩寺墓所に葬る。
   1879年:忠壽(遊山)逝去。瑞岩寺墓所に葬る。
   1900年:忠穀に男爵位授与。
   1905年:明治維新、廃藩置県などを経験した男爵忠穀逝去54才。法名忠信院。瑞岩寺墓所に葬る。
   1929年:事業失敗等により内膳男爵家の家政困難になる。
   1931年:男爵忠雄逝去。56才。瑞岩寺跡墓所に葬る。
   1968年:忠穀三男細川隆春(千原分家祖 瑞岩寺跡歴代墓所所有し出水神社第五代宮司)逝去91才。
        法名尚徳院殿養寿隆春日崇居士。瑞岩寺跡墓所に葬る。
   1994年:牧崎分家の政治評論家細川隆元(1900−1994)、12月19日逝去。





    忠隆子孫は細川藩臣六千石、細川一門首座内膳家として明治に至り、長岡姓から細川復姓。
    忠隆と喜久に始まる千原瑞岩寺跡内膳家歴代墓所(五十二基)は熊本市島崎3丁目24の県営団地奥。
    なお忠季は故ありて熊本久本寺に葬る。
    内膳家では養子をたてず、幽斎、ガラシャの血は歴代父系で現在まで継承。


    「細川内膳家系」

     忠隆─+─忠恒                                 +─隆春(三男)─隆康--:千原系
         │                                    │
         +─忠春─忠季─忠英─忠昌─忠虎─+─忠壽─忠穀─+─忠雄─忠督─忠幸-- :本家
                                  │
                        +─忠顕(次男)─隆虎─+─隆顕─隆英。
                                                  │
                                  +─隆志--    :牧崎系
                                  │
                                  +─隆元(三男)。


       「松井文庫所蔵 忠隆自筆状5通」 
        (解読は八代市立博物館学芸員の林千寿氏)

    12-5-2忠隆自筆状「小田原近辺の陣所無し、返事待ち」
        松井新太良(興長)宛 1600年■月20日付 31cmx47cm
      書状披見申候、今朝 其方小姓両人まて披残候て 念入候、令満足候、
      小田原辺相披尋候へ共、陣所無之候由、無是非候、乍去、我等小姓、
      唯今其地辺へやと申越ニ進候間、返事待、様子丹後之儀無別儀候由自■
      相替儀候ハハ、重而可承候、恐々かしく   与
          二十日 忠(花押)


    12-5-1忠隆自筆状「陣替えのこと」 
        松井新太良(興長)宛 1600年7月25日付 40cmx45cm
      ■人迄之書状、披見申候、明日ハ大略陣かへ候ハんよし心得申候、謹言、与
          七月二十五日 忠(花押)


    16-1-3忠隆自筆状「忠興小田原着陣、明日陣替え」
        新太良(松井興長)宛 1600年8月5日付 31cmx45cm
      わさと書状令披身候、明日陣換の事、得其意候、しかれハ、其方之
      今夜之陣やを、明日我等可参候間、其方之者一人残しをキ候て
      可給候、明日早々■此方之者可遣候、それまての儀候、
      家かす二十五六もとり可 給候、但、又小田原のきわニ、家共多く候ハハ、
      同ハ小田原の近所ニてほしく候、かしく、
          五日   与一 忠(花押)


    16-1-2忠隆自筆状「遠国ではあるが豊前豊後を拝領。康之、興長を派遣」
        松井新太良(興長)宛 1600年11月6日付 29cmx45cm
      尚々、書状  まんそく申候、
      態書状満足候、■内府様ヨり 越中ニ、豊前一國・豊後二郡被下候由候、
      思ひ之外遠国事候、其付又 松井彼国へ被下候よし、打つつき大儀と申事候、
      其方ハ松倉へ被越候よし、尤候、尚、期面 時候、かしく、
          拾一月六日 忠(花押)


    12-5-3忠隆自筆状「豊前国替の用意はいかが。忠興も五三日中に御下り」
        松井新太良(興長)宛 1600年11月20日付 31cmx49cm
      尚々、見廻祝着候、■上
      為音信、蛎壱桶到来、祝着候、豊前用意いかか候や、無心元候、
      越中も五三日中ニ、■元へ御下之由にて、其刻此地にて可申候、 かしく
          十一月二十日   与 忠(花押)




                                 (了)