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     「御家草創」松井佐渡守康之・長岡佐渡守興長 続稿
                    松井家御給人先祖附の人々

                                       御池章史(熊本県八代市)
                                                 

   元和元年、大坂夏の陣が終わった年を、元和偃武といいます。まさに、武器を偃(ふせ)るのです。
  平和を希求する時代となります。
   永禄八年、細川兵部大輔藤孝に従った十九歳の松井康之が、慶長十七年六十三年の生涯を閉じ
  ました。細川藤孝は、兵部大輔藤孝として将軍足利義晴、義輝、織田信長に仕え、幽齋玄旨と号して
  二十七年、豊臣秀吉、徳川家康と時代の変転の中枢を歩んで、七十七年の生涯を終えています。
   当主となった細川忠興、松井興長は歴戦の武将から政権政治の世界を凌いでいく官僚となります。
  家臣団も武功の機会の無い新しい時代を生きて行きます。共に「武」の時代を生きた武将たちが、時
  代と共に変貌しながら、家を守っていく姿を、御給人先祖附の中の養子縁組を辿って見てみたいと思
  います。松井家家臣団の先祖と武功と、親戚・縁故関係の姿を紐解いて見ます。

   ◎ 寛永時代1624年〜1643年
     (松井興長:家督1661年まで)
 
 【橋本家】橋本与左次には、井上(松井)紀伊守之勝次男井上与助が婿養子となります。
  年月が特定できませんが、父の没年寛永元年六月以前でしょう。橋本、井上(松井)の縁ができました。
  井上先祖井上正季は、足利幕府管領細川晴元の幕下で活躍しますが、晴元没落後浪人、子供の井
  上市正吉勝が、丹波久美で康之の客分として召し寄せられます。市正は、松井の称号を許され松井紀
  伊守之勝と名乗り、伊勢峰山城攻めでの組討、賎が岳の合戦では越前敦賀由良湊で軍功を上げます。
  天正十一年のことです。

  【中山家】 中山藤兵衛正明には、松井外記元勝次男角田助九郎が養子となります。
  年月は確認できませんが、寛永十一年の豊後府内竹中采女正切腹に関して松井外記組の一員として
  出陣に加わっていますので、寛永十一年以前のことでしょう。ただし、この養子縁組は後日中山に実子
  が生まれたため解消されます。助九郎(後に弥右衛門昌良と名乗ります)の長男は早世、次男中山仁
  兵衛勝英が新知二百石を拝領して角田姓に復します。
  中山は藤兵衛正明の実子が家督を相続します。角田は、先祖角田貞常が足利将軍義政に仕え、貞常
  曾孫采女は足利義輝に仕え、諱を貰って藤秀と名乗り従五位下因幡守に叙任されますが、足利義輝
  弑逆の後浪人、妻が松井康之の姉ですので、勝龍寺城に康之を訪ね、二人の子供と共に仕えます。
  丹後久美で、子供たちは松井の称号を許されて、松井半右衛門盛秀・同仁平次元常と名乗ります。

  【下津家】 下津権内一通が天正五年大和片岡城攻めで討死にしたため、志水悪兵衛元清次男半左
  衛門一安が養子となります。この、権内という人は、天正元年織田信長の淀城攻めに、細川藤孝旗下
  にて敵将岩成主税を討ち取った人です。岩成主税は三好三人衆のひとりです。
  織田信長から感賞されたことが「信長公記」にも見えます。
   藤孝は権内の妹婿に名跡相続を言い渡すのですが、断られてうまくいきません。そこで、松井康之が
  権内の甥の半左衛門へ名跡相続するよう召出したということです。下津、志水が親戚になりました。
  下津、志水、松井は足利幕府のもと、山城国の在地領主でした。
   志水先祖志水清朝も足利幕府管領家細川右京太夫晴元に仕えます。晴元没落後、清朝の子達が藤
  孝に招かれて、兄弟で藤孝に仕えます。江州箕作城攻めでは康之共々活躍し、松永久秀が京都の六
  条本圀寺に足利義昭を攻めたとき、桂川で活躍します。
  松井、下津、志水は、細川藤孝青龍寺城入城以前から苦労を共にしてきた武将たちです。

  【後藤三右衛門家】 井上(松井)紀伊守之勝四男久之允が養子に入ります。慶長十九年頃です。
  後藤、井上(松井)これで、井上、橋本<之勝次男>、後藤<之勝四男>が親戚になりました。
  しかも、井上、橋本、後藤は兄弟です。
  後藤は、鎌倉幕府、足利幕府に仕え、天文・永禄年間江州佐々木承禎の家老を務めていました。
  佐々木氏没落後織田信長に仕え、信長没落後丹後国に浪人していたところ、久美にて康之に召出され
  ました。文禄の役で朝鮮渡海、晋州鎮守城攻めでは、田中理右衛門他9人と先陣を切って働き、関が
  原の合戦では立石表の戦いに、松井河内守、同紀伊守、中川下野守と共に豊後杵築城を守りました。

    ◎ 正保年間 1664年〜1647年
      (松井興長:家督寛文元年1661年まで)

  【中西家】 豊前小倉で中西孫之允が、松井興長に仕えます。正保四年から万治元年の頃、下総国宇
  都宮城主松平家家来芝山五兵衛友実五男を養子に迎えます。尤も、孫之允の父大西道也は細川忠
  興に召出され、茶の湯の御伽をしています。大西道也は、明石右京進範宗と云い織田信長・豊臣秀吉
  に仕えて豊臣滅亡後浪人していました。中西孫之允は、晩年を細川家ですごした新免宮本武蔵と係わ
  り、武蔵の遺言を取計らっています。

    ◎ 明暦年間 1655年〜1657年
       (松井興長家督1661年まで)

  【豊田家】 福島家浪人岡田権左衛門正継末子四郎次郎が養子となり、豊田伝右衛門と名乗ます。
  豊田先祖は、下総国豊田を領知し、鎌倉将軍源頼朝に仕え、建久年中鎮西奉行大友氏の九州下向に
  従って豊前宇佐郡橋津を知行しました。大友家没落後肥後国山鹿に浪人します。
  その子甚之允高久は元和元年細川忠興に仕えますが、浪人。寛永元年松井興長に召抱えられました。
  養子縁組の後甚之允に実子が生まれ、頼藤へ養子に入り、頼藤浅右衛門信房と名乗ります。
  豊田、岡田、頼藤が親戚になりました。

    ◎ 寛文年間 1661年〜1672年
      (興長家督寛文元年まで:寄之家督寛文六年1666年まで、
       直之家督元禄五年1692年まで)

  下津に二度目の養子が入ります。沢井次右衛門重豊次男です。下津丹左衛門一政と名乗ります。
  これで、下津、志水、沢井が親戚になりました。沢井は、松井寄之の母の生家の別れです。松井家とも
  かかわりが出来ました。松井寄之の父は細川忠興ですから細川家とも繋がる事になりました。

  【西垣家】 寛文二年、今川半之進が婿養子に入ります。初代は、丹後久美で召抱えられた、今井惣
  兵衛政吉です。文禄三年伏見城築城の時大谷刑部少輔吉継家との論争や、関が原合戦のとき、豊後
  杵築における大友義統家臣吉弘加兵衛軍との立石合戦などで働きます。
  西垣、今川が親戚になりました。

  【山口家】 寛文元年山本源太左衛門勝行三男が養子に入り、山口伝左衛門を名乗ります。先代山口
  彦之允景貞は、寛文元年松井興長の死に、許しを得て追腹を切ります。殉死です。
  山口彦之允景貞は丹後久美で松井康之に召抱えられ、関が原合戦では豊後立石合戦の折、肥後加
  藤主計頭清正との連携に奔走して働きます。天草陣、有馬陣と出陣して有馬陣では鉄砲傷を負います。
  彦之允景貞は初め牧彦七郎と名乗りますが、牧先祖は、足利幕府に仕え牧秀和の時和泉国守護代を
  勤めたといいます。足利家没落後、浪人、丹後に居住します。山口と山本に縁が出来ました。

  【頼藤家】 豊田甚之允の実子が養子に入ります。頼藤浅右衛門信房と名乗ります。
  寛文元年先代杢之助具定は松井興長の死に追い腹を切ります。殉死です。頼藤先祖岡田刑部大輔は、
  伊勢国船江城主として織田信長に仕え、子孫は尾張の星崎城主でしたが、織田信雄との戦いで落城、
  嫡子岡田権左衛門正継は幼少でした。成長後福島左衛門太夫正則に仕え、福島家没落後久留米有
  馬家へ仕え、寛永十五年有馬陣で戦死します。権左衛門正継の嫡子岡田庄五郎のとき松井興長に召
  抱えられ、母方の姓頼藤を称し、頼藤杢之助と名乗りました。豊田甚之允には、頼藤(岡田)杢之助の
  末弟岡田四郎次郎が養子に入り、豊田伝右衛門と名乗りますから、頼藤と豊田は兄弟(岡田)ですが、
  頼藤浅右衛門信房は豊田甚之允実子ですから、頼藤が豊田に、豊田が頼藤になったわけです。豊田、
  頼藤、岡田が親戚になりました。

  【木本家】 渡辺久助が松井興長に召出され、先祖の姓を称し木本権右衛門正守と名乗ります。
  先祖は大友家に仕え、朝鮮の役で渡海、現地で討死にしています。有馬出陣の後木本権右衛門と改
  め、寛文元年松井興長の死に従って殉死。中川将監次男渡辺権八が養子に入り、木本権右衛門正勝
  と名乗ります。木本は初め渡辺姓です。中川将監も渡辺姓を名乗っていますから、一族でしょうか。
  木本、中川の縁です。
   
     ◎ 延宝年間1673年〜1680年
       (直之家督寛文六年1666年〜元禄五年1692年まで)

  【竹田家】 前川彦右衛門正信次男前川次助定頼が養子婿に入ります。次助定頼は本姓三渕、祖父は
  長岡重政、曽祖父が三渕好重つまり細川藤孝の弟です。又、この時次助定頼の兄惣四郎正之が三渕
  本家を継ぎます。竹田、三渕は兄弟であったわけです。今一つ、父彦左衛門正信の妹が長岡寄之の妻
  です。次助妻には、山本弥左衛門金重娘、松井角左衛門の孫娘を養女にして娶わせます。山本弥左衛
  門金重とは山本源左衛門五男、後の山本源太左衛門金重のことです。女性のことについて家譜で触れ
  ることは非常に少なく、今回の両方養子では、竹田家の血筋を残すため、血統を、娶わせる養女に頼っ
  たといえるのではないでしょうか。山本弥左衛門金重娘が松井角左衛門の孫娘ですから、弥左衛門の
  妻は角左衛門の娘であったというわけです。竹田、前川、山本の養子縁組で、竹田、山本の婚姻関係
  が解ってきました。
   竹田氏祖は武田氏です。武田侍従定栄瑞竹軒は足利義晴に仕え、山城国竹田郷を領地していまし
  た。瑞竹軒嫡子竹田織部正定雄は足利義晴・義輝に仕え、三好・松永による義輝弑逆後浪人、梅松軒
  と称して羽柴秀吉に仕えました。梅松軒の妻は沼田上野介光長の娘でした。
  つまり、松井康之の妻の姉です。このことから、梅松軒嫡子竹田藤松は丹後久美の城で康之に養育さ
  れて成長したのです。松井の称号を許され、松井長介定勝と名乗ります。子供の成長を見届けた梅松
  軒は、家督を二男竹田源助長勝に任せて、豊臣秀吉に仕え、大坂の陣で三男竹田永翁と共に、豊臣秀
  頼に殉じ切腹して果てます。


   山口に二度目の養子です。橋本奥左衛門二男が養子に入り彦之允成定を名乗ります。宝永二年隠
  居。子孫断絶。同家には、寛文年間に山本家から養子に入っています。山口、山本に橋本が親戚に加
  わりました。奥左衛門代の橋本は、寛永年間橋本与左次に、井上(松井)紀伊守之勝二男井上与助が
  婿養子となっており、井上・橋本です。橋本を介して山口、井上のつながりが出来ました。

  【遠藤家】 本嶋市郎左衛門二男が養子に入り、七太夫常政と名乗ります。先祖は、丹後久美で松井康
  之に召出され、豊後杵築下向の時長柄奉行を勤めています。

  【梶原家】 三上彦右衛門二男が養子に入り、梶原友益景英と名乗ります。剃髪して名前を改め三上三
  実と称した後母方の姓和田を名乗り、和田三実として医師に成ります。先祖は、加藤主計頭清正に仕え、
  船大将を勤め、加藤家改易後浪人、川尻に居住しました。梶原周庵景好のとき松井興長に召出されま
  した。三上家も勘左衛門能信が松井興長に豊後杵築で召出されています。

    ◎ 貞享年間1684年〜1687年
      (直之家督元禄五年1692年〜元禄五年

   西垣に貞享四年二度目の養子今井平次郎が入ります。平次郎は曽祖父庄太夫政勝実子弥衛門の倅
  です。弥衛門は松井康之に仕えていましたが、暇を出されて今井惣兵衛と改め、豊後杵築に居住してい
  ました。松井直之により養子に仰せ付けられたのです。寛文年間の今川との養子縁組は婿養子でした。
  さらに今回、西垣の血統が戻ってきたわけです。西垣、今川、今井(西垣)との親戚関係です。

    ◎ 元禄年間1668年〜1703年
         (直之家督元禄五年1692年、寿之家督元禄五年〜正徳四年1714年)

  【山本武右衛門家】 山本四代源五左衛門勝安養子宇土細川家家来見崎弥兵衛二男が、源五左衛門
  勝安の隠居料二百石を相続し、山本源左衛門勝命と名乗ったことに始まります。
  源五左衛門勝安は、先代源左衛門の二男です。初め生地家に養子に入り百五十石、加増されて三百
  五十石になりますが、山本嫡男四郎太夫が有馬陣で討死したあと、嫡子となり家督五百石を相続しま
  す。源左衛門勝行の三男が山口養子山口伝左衛門勝成、四男山本金右衛門勝為、五男山本弥左衛
  門金重、養子見崎家二男です。源五左衛門勝安隠居により嫡男源左衛門勝秀は、家督七百石を相続
  しますが病を得て死亡してしまいます。そこで、本知五百石が弟の五男山本弥左衛門金重へ下され、山
  本の家督を相続します。
   源五左衛門勝安の知行三百五十石は、山口伝左衛門に五十石加増、山本金右衛門勝為に新知とし
  て百五十石、山本弥左衛門金重に新知百五十石が下されます。隠居した源五左衛門勝安は山本土水
  と名乗り隠居料百俵拝領した後、二百石加増されます。この二百石を養子見崎奥之助(源五郎・源太
  夫)が拝領して山本源左衛門勝命を名乗ります。ですから、山本武右衛門家は見崎家といえます。

  【仲井家】 元禄三年松井(田中)又右衛門盛季末子が養子に入ります。又右衛門盛季の父は角兵衛盛
  勝、祖父は松井志摩守盛永と云い松井康之に殉死した田中志摩守です。仲井八郎右衛門貞吉は越前
  宰相松平忠直家臣でしたが、忠直卿豊後配流のとき浪人、松井釆女康秀を頼り、豊前小倉で松井興長
  に召出されます。有馬陣では原城本丸一番に乗り込んで働きます。二代武兵衛貞則、三代が養子田中
  八■■です。仲井武兵衛貞秀を名乗ります。これで、仲井、田中(松井)の縁ができました。
 
  【平田家】 元禄九年後藤小左衛門真秀二男が養子に入り、平田長太夫隆豊と名乗ります。
  先祖は江州佐々木氏で、能登守は江州舟木城主でした。没落後一族の平田城主平田右京方にて過ご
  した後肥後加藤主計頭清正に仕え、肥後守忠広改易により浪人、熊本町に住居します。
  源太兵衛隆久のとき有馬陣へのお供を願い出、許されて出陣し、その働きは忠利、光尚、興長、寄之に
  認められます。しかし、このとき多くの浪人が仕官を望んで出陣しましたので、細川家は、一人も浪人を
  召抱えない方針を貫きました。源太兵衛隆久は、松井寄之の肝いりで、忠利や光尚 に仕官を要請しま
  すが日延べ日延べになり、結局、松井興長に召抱えられ、寄之付となり、八代で屋敷を拝領することに
  なりました。
   後藤助太夫家は、新兵衛真勝のとき豊後で木下右衛門太夫に仕えますが、身体不足を理由に暇を
  願い出ます。しかし、願いは許されず、怒って立ち退き、豊前の松井興長を頼り、そのまま召抱えられま
  す。木下右衛門太夫からは興長へ新兵衛を帰すように依頼がありますが、興長は「我家を頼みにした者
  を差し返すことは出来ない」と、返しません。こうして、興長に仕えた新兵衛真勝は、興長の死の当日追
  い腹を切ります。殉死です。平田、後藤が親戚になりました。

   木本二度目の養子は、婿養子で、松井治部右衛門正元の二男です。木本所兵衛正名と名乗ります。
  松井治部右衛門正名とは井上姓です。興長の幼名松井新太郎を名乗り、有馬陣では本丸一番鑓の功
  名を上げました。井上は、橋本、木本と縁続きとなり、橋本の縁から山口とも縁故となりました。木本は井
  上の縁で橋本、山口と縁故関係ができました。しかも、この三家は寛文元年興長に殉死した家です。殉
  死という大きな因縁は、年を経ても縁を繋いでいく重要な起因があるようです。

  【宇野八左衛門家】 瀬戸源七が養子に入り、宇野源七隆久を名乗ります。先祖は、宇野与三左衛門
  (源右衛門)治時が慶長の初め頃、松井康之に召抱えられます。関が原では、松井興長に従って岐阜
  城攻めに出陣、関が原表には、松井市正之勝組で出陣しています。その子、与三左衛門治久は、有馬
  陣で、筑後立花家家老十時三弥と細川家家臣とが、口論喧嘩の末果し合いになるところを仲裁していま
  す。宇野源七隆久は、瀬戸からの養子ですから、宇野、瀬戸の縁故が出来ました。
   瀬戸源七は前川勘右衛門に仕えていましたが、延宝元年1673年勘右衛門と藤田助之進方との出入り
  に働きます。このとき山名十左衛門も一緒です。松井直之は満足して、源七に紋付・帷子を下します。
  ところが、前川勘右衛門が出奔することになり、源七も従います。処々流浪のうちに豊後臼杵の稲葉右
  京亮景通を頼り、厚遇を受けますが、勘右衛門が自害して果てます。その後、松井直之から稲葉右京亮
  景通へ源七差し返しの依頼を受けて熊本に帰った後、松井直之に召抱えられることになります。

  【堤甚右衛門家】 元禄二年、宇野源七隆久二男が養子に入り、堤又左衛門永栄と名乗ります。
  堤先祖は、鎌倉、足利幕府に仕え、九州探題大友氏に従い九州に下向、大友氏に仕えますが、大友氏
  没落後肥後国に居住します。寛永九年九郎右衛門永正のとき肥後国八代で細川立孝に仕えた後、浪
  人します。九郎右衛門永正嫡子又左衛門永衛のとき松井興長に召出されます。明暦元年のことです。
  堤、宇野(八)、宇野は瀬戸からの養子です。

  【村上家】 浜田伝右衛門二男が養子に入り、村上甚兵衛義■と名乗ります。先祖は、伊予国能島に居
  住し(所謂村上水軍です)、代々毛利家、小早川家へ仕えましたが、小早川中納言秀秋死亡後遁世浄
  喜寺良慶と改め、黒田如水・同筑前守に仕えます。その後、黒田家を辞して豊前で細川忠興に仕えます
  が、忠興死亡後、河内国森口へ移り、末子が興長に召出されて与右衛門氏長と名乗ります。
  二代目が甚兵衛義■です。村上、浜田の縁です。

  【坂井八郎太夫家】 元禄五年から宝永の初め上原兵助四男が養子に入り、坂井十蔵と名乗ります。
  松井直之に召出されます。上原兵助貞次は上原嫡家です、先祖は長三郎貞久のとき丹後久美で松井康
  之に召抱えられます。豊後立石合戦で軍功をあげ、有馬陣で討死にします。兵助二男茂次郎家、三男五
  郎太夫家があります。坂井(八)、上原が親戚になりました。

    ◎ 宝永年間 1704年〜1710年
         (寿之家督正徳四年 1714年まで)

  【田中(松井)】 三宅道仙二男里見(母方の姓)左角が、宝永二年養子に入り、田中左角秀定、のち松
  井清三盛光と名乗ります。田中先祖田中山城守源盛重は、織田信長の世に明智光秀に属し丹波国船
  井郡大村城主でした。光秀没後一族で羽柴秀吉を討とうと聚楽第襲撃を企てますが、事前に露見してし
  まいます。一族は、丹波国船井郡へ退きその後離散します。山城守盛重嫡子田中理右衛門は、天正十
  一年丹後国久美城下を訪ねた時、松井康之から召出されます。小牧表、美濃加賀井城攻め、秀吉の九
  州征伐における豊前岩石城攻め、島津征伐、九州から関東に移って小田原攻め、伊豆韮山攻め、さら
  に奥州に入り陸奥・出羽検地で働きます。奥州では、妙貴城攻め、九部城攻めに働き陣中で越年しま
  す。文禄元年朝鮮へと渡海して、岩山城攻め、登菜城攻め、安昌城攻め、鎮守城と軍功をあげます。
  関が原合戦では、豊後杵築で大友義統家老吉弘加兵衛統幸を撃退、杵築城を守ります。その後、安岐
  城、富来城攻めに働き、細川忠興に多年の武功を感賞されます。康之が煩うと殉死を願い出、松井の称
  号を許され、志摩守と改め殉死します。介錯は坂本三郎右衛門でした。田中、三宅が親戚となりました。

  【中山家】 平左衛門正勝に宇土細川家家来見崎弥兵衛三男が養子に入ります。中山陽右衛門正武で
  す。中山は見崎と結ばれました。元禄年間山本へ養子に入り、山本武右衛門家初代となった山本源左
  衛門勝命は、見崎弥兵衛二男です。山本源左衛門勝命と中山陽右衛門の兄弟です。
  中山、見崎、山本武右衛門は三兄弟の家でしょうか。
  中山先祖は、豊臣秀吉の中老中村式部家来藪内匠に仕え、松井興長に召抱えられます。

  【近藤家】 宝永二年志水右衛門重教二男五次郎が養子に入り、八兵衛景包と名乗ります。
  近藤先祖は、丹波亀山の住人で織田信長の近習を勤めました。八兵衛が景包五男弥十郎が丹後久美
  を訪れて、松井康之に召抱えられます。豊後立石表合戦で働き、軍功をあげます。
  安岐城、富来城攻めにも働きます。近藤、志水の縁です。
 
  【村上家】 宝永に年二度目の養子です。蓑田惣左衛門正元二男が半次郎義教と名乗ります。
  村上、浜田、蓑田と親戚になりました。


   中西に二度目の養子が入ったのは、元禄の終わりごろと思われます。堀口左次兵衛二男弥三郎浅之
  助です。中西五三右衛門昌晴と名乗ります。中西、柴山、堀口という関係ができました。堀口先祖山名
  藤広は、三渕伊賀守晴員の同名親戚で将軍義輝に仕えました。三渕の祖は足利持清、持清の父は足
  利義満です。

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