津々堂電子図書館    細川ガラシャ夫人の生害を伝える「霜女覚書」
                                                                  ・
 
          
       
       「秀林院様御はて被成候次第事」
                                                          
     石田治部少乱のとし七月十二日に小笠原少斎、河喜多石見両人御台所まで参ら
    れ候て、わたくしをよび出し、申され候ハ、治部少方より、いずれも東へ御たちなされ
    候大名衆の人しちをとり申候よし風聞つかまつり候がいかが仕候はんや、と申され候
    ゆへ、すなわち、秀林院様へそのとをり申上候、秀林院様御意なされ候ハ、治部少と
    三斎さまとハかねかね御あいだ悪しく候まゝ、さためて人しちとり申はじめハ、此方へ
    申まいるへく候、はしめにてなく候ハハ、よそのなミもあるへきが、一はん二申きたり
    候ハハ御返答いかがあそバされよく候ハんや、少斎・石見分別いたし候やうにと御意
    なされ候ゆへ、すなわち其とをりをわたくしうけ給両人二申渡し候事
少斎・石見申され候ハ、かの方より右の様子申しきたり候ハバ、人しちに出し候ハん
ひと御座なく候、与一郎様ハひがしへ御立なされ候、内記さまハ江戸二人質に御座
候、たゝ今ここもとにて人しちに出し候ハん人一人も御座なく候間、出し申事なるまじ
きと可申候、せひ共に人しちとり候ハんと申候ハバ丹後へ申遺し幽斎様御上りなされ
御出候物か、其外何とそ御さしつ可有候まゝ、それまて待候へ、と返しいたすへきよし
申上られ候へハ、一段しかるへきよし御意に候事
ちやうこんと申比丘尼、日比御上様へ御出入仕人御座候を、彼方より此人をたのミ、
内証にて右之様子申こしょ、人しち二御出候様二と度々長ごん申候へ共、三斎様御
ため候まゝ、人しちに出申候事ハ、いかようの事候共、中々御どうしんなきよし仰候、
又其後まいり申されしハ、左様に候ハ宇喜田の八郎殿ハ与一郎様をく方にてつき候
て御一門中二而御座候間、八郎殿まて御出候へハ、其分にてハ御人しちに御出候
とハ世間にハ申ましく候まゝ、左様に被遊候へと申参候事
御上様御意なされ候ハ、宇喜田の八郎殿ハ尤御一門中二而候へ共、これも治部少
と一味のやうに被聞召候間、それまて御出候ても同前に候間、これも中々御同心こ
れなくて、右内証に而ての分に而ハらち明申不申候事
同十六日彼方よりおもてむきの使参候而、せひせひ御上様を人しちに御出し候へ、
左なく候ハおしかけ候て取候ハんよし、申しこし候二つき、少斎・石見申されしハ、あ
まり申度まゝの使にて候、此上ハ我々共是にて切腹仕候共出し申ましき由申遺候、
それよりは御屋敷中の者共覚悟致罷在候事
御上様御意にハ、まことおし入候時ハ、御じがい可被遊候まゝ、其時ハ少斎をくへ参
而、御かいしやくいたし候様二と被仰候、与一郎様御上様をも人しち二御出し有まし
く候まゝ、是ももろ共二御じがいなされ候へきよし、内々御約束御座候事
少斎・石見・稲富談合ありて、稲富二ハおもてにててきをふせき候へ、そのひまに御
上様こさいこ候様二可仕由談合御座候故、則其日の初夜の比てき御門前までよせ
申候、稲富ハ其とき心かわりを仕、かたきと一所二なり申候、其やうすを少斎きき、
もはやなるましくと思ひ長刀をもち御上様御座所へ参り、只今がこさいこにて候よし
申され候、内々仰合候事にて御座候故、与一郎様おくさまを呼び、一所にて御はて
候ハんと、御へやへ人を被遣わ候へ共、もはや何方御のき候哉らん無御座候故、
御力なく御はてなされ候、長刀にて御かいしゃくいたし候事
わたくし共御門へ出候時ハもはや御やかたに火かゝり申候、御門の外二ハ人大勢
みへ申候、後に承候へハ、敵二てハこれなきよし二候、敵参り候も一定にて候へ共、
稲富を引つれ御さいこ以前二引たるよし、是も後二承候、則御屋形二テはらをきり候
人ハ、少斎・石見、いわミ甥六右衛門、同子一人、此分をハ覚え申候、其他も二三人
はてられ候よし二候へ共、是ハしかと覚不申候、こまごましき事ハ書つけられす候間
あらあらハ大かたハ如此候以上      志も 印
正保五年二月十九日

       平成元年六月熊本日々新聞に掲載された細川護貞氏による「歴史の証人たち・永青文庫所蔵の書簡から」引用した。
       これらは氏の著書「魚雁集」に収められている。又細川家正史綿考輯録に納められている事も当然の事である。