
● 忠興の晩年・その1
元和2年(1616)豊前小倉生まれの本寿院という山伏が、豊前中津城から肥後八代城へと移られた
三斎公にしたがって肥後に移り住み、三斎公の死の18年後、切腹後蘇生し、時の八代城主松井佐渡寄之を
91日間呪詛して死にます。現在は八代市荒神町に権現堂として、また芦北郡芦北町に西龍神社として祀られ
ています。八代市袋町にある現在の医王寺は、当初は長丁にあって、三斎公が城の祈祷寺として本寿院に再
建させて、その住職にしたところでしたが、杉本院(本寿院)の切腹後、時の城主長岡寄之から没収破却され、
杉本院の死の二年後、寄之夫人によって現在地に再建されたものです。
現在の医王寺本堂には、長岡家(松井家)代々の位牌の前に、杉本院の位牌と棟札=杉本院怨念消滅の祈
願文=が置かれています。
晩年の三斎公については、あまり知られておりません。愛児立孝の早世さえも見方を変えれば、子供から裏
切られたことになりますが、だとすれば、6人男子すべてから背かれたというか誠に淋しい人生の終焉とされた
わけです。これらのことは細川家のカルマというより、三斎の性癖がもたらしたものかもしれませんが、杉本院
事件にしても、三斎の最後の願い立孝の遺児宮松を八代藩主たらしめたいとの思いを、熊本藩執政者が取り
上げることなく、長岡佐渡興長を八代城主にしたことによって惹起されたと云ってよいかと思います。
杉本院事件では当山派の山伏三人が自決していますが、本山は事件など無かったかのように知らぬふりを
続けたのでした。それは今だ一度も人の口に上がったことがないことからでも解ることですが、そこに一石を投
じてみたらどうなるのかとの思いがこのレポートを書くきっかけとなりました。
● 忠興の晩年・その2
元和5年(1619)豊前38万石を忠利に譲って、三斎宗立と改めた細川忠興が、肥後国八代に足を入れたの
は寛永9年(1632)12月22日で、隠居してから12年後のことでした。
その夜は、先乗りの部下があらかじめ手配していた町屋に宿泊し、その居城たるべき八代城に初めて足を踏
み入れたのが翌23日。家臣の知行地や屋敷割振りが終わったのを待っていたかのように、年明け早々三斎
の元に、忠利の家臣を通じて将軍の懸念が伝えられます。三斎が返事として在府中の忠利へしたためた書状
(寛永10年2月20日付け)には次のように記されています。
「三斎の知行が多いのは為にならないとの内意とか。立允と興孝に遣すべき知行と城付士
の分と自分の三万七千石、それに河内長野(村上縫殿介景則)の一万石を入れると九万
七千石になる。稲葉正勝殿(老中)はその事をご存知だが、家光公はそれをご存じないの
で、今回の正勝殿の内緒のお知らせとなったのであろう。立允三万石、興孝二万五千石
の内分領と河内の一万石が含まれていることを書面にして提出したら、それでこの件は落
着するはずだ。しかし、そう報告したからといつても、自分の知行は前と同じ九万石である
と承知しておいて欲しい。・・・・・・・・・・・
その方が味ある儀にて候条、従って幕閣へのことわりようの子細は必ず承るべく候」

*** 八代城下町図***
● 忠興の晩年・その3
八代入りした三斎の監督下に立允と興孝という同母兄弟の二人の子供がありました。八代入りした時立允は
十八歳で、三歳年下の興孝は幼児の頃から二十二年間三斎の証人(人質)として江戸に居りました。この興孝
は成長するにつれて三斎と不仲になり、寛永十五六年頃は修復不可能になって忠利を嘆かせるようになります。
三斎は立允を溺愛していたと伝えられていますが、内実九万石余、表向き三万七千石であれ、三斎としては江
戸へ証人をたてねばならず、興孝に替えて立允を証人として江戸へ出します。
立允と云うのは僧名ですが、この時期将軍にお目見えして還俗し中務大輔立孝と名乗ることになります。
熊本への帰国途中病気した興孝は剃髪し、帰国後幽居しますがまもなく忠利(異母兄)が一万石をあたえ細川
刑部家として存続させています。
三斎には次のように6人の男子がありました。
長男 忠隆(出家して休無、忠利はその子忠雄に六千石を与えている)
次男 興秋(出奔して大阪方に加わる、大阪陣後切腹)
三男 忠利(細川家初代肥後藩主)
四男 立孝(内分領八代藩主・嫡子宮松が後の宇土初代藩主)
五男 興孝(出家・後細川刑部家一万石)
六男 寄之(長岡佐渡興長養嗣子)
(実際には忠利の後に千丸という夭折した男子があった。)
● 忠興の晩年・その4
関ヶ原で武功のあった忠隆は、戦後すぐ廃嫡されています。その理由として、ガラシャ夫人が生害(慶長五年
七月十七日)したのに対して、同じ細川屋敷にいた忠隆夫人千世(前田利家女)は、隣家の宇喜田秀家(敵
方)屋敷に逃れて無事であったことを知って、ガラシャを愛していた忠興が怒ってのことだと云われています。
しかし細川軍功記には七月三日「とだ」という宿で、忠興・忠隆親子が仲違いされたと記していますが、理由に
ついては触れていません。その前日である2日には、大谷吉継隊の所に三成からの使者があつており、大谷
隊が家康の上杉討伐軍から離脱したのが11日です。忠隆の義兄である前田利長が、上杉討伐軍に参加して
いなかったことなど考え合わせますと、忠隆のところにも使者があって、三成のコマーシャルベースに乗せられ
て細川隊の西軍参加を父忠興に勧めてその怒りを買ったとも考えられなくもありません。
(前田軍は自国の国境で西軍と対陣しあるいは対戦していた)
関ヶ原の後忠興(以下隠居名の三斎で統一)は、長男忠隆の廃嫡と三男忠利の後嗣届けを出しています
しかし、実際に忠利が豊前藩主を嗣封したのはその二十年後のことです。忠利を嗣子にすることについては、
関ヶ原のとき、証人(人質)として将軍秀忠の馬廻り(小姓勤めとも)をしていた忠利が、その誠実な人柄を見
込まれて、その内意が伝えられたからだとも云われています。
叔父興元の養子となっていた次男興秋は、興元が家を出たことから中津城主になっていたのですが、忠利
の証人として出府の途中で出奔し大阪城に入り、大阪の陣の後怒った忠興に切腹させられています。
これを三斎が西軍が勝ったときに備えて、保険をかけたと見る人がいますが、それは無いと言えます。
と云いますのは、その半年ばかり前のことですが、三斎が島津義弘の使者に次のように言っています。
「信長公が七年もかかって攻め落とせなかった石山城(大阪城)は、その当時よりよほど堅
固である上に、諸国の名有る牢人が大勢詰めているから中々落城しないだろう。数年も籠
城すれば老人である家康(七十五歳、その翌年死去)は死ぬであろうから、大阪方の勝利
は間違いない、というのが世間の多くの見方だが、ワシはそうは思わない。『落城は早速
たるべし、と見ている。子細は秀頼は乳飲み子(マザコン)にして、お袋専制(ヒステリック)
なればなり』ワシがそのように云っていると維新(義弘)殿に伝えてくれ」
また、後で触れますが、有馬の変(天草・島原の乱)が起きる二年も前に、その事を予告していたことからも、
三斎の時代を見るめの確かさが伺えます。興秋が出奔したのは、ガラシャと同腹の弟が後継者にされた事自
体もそうでしょうが、その忠利の証人として江戸(徳川家)へ向かわされたことで、より不満が高じていた所へ、
大阪方の甘い言葉があったからと見るのが正解だろうと思っています。
● 忠興の晩年・その5
松山主水が三斎公の命で誅殺された年月はさだかでは有りません。三斎は寛永十三年十一月七日、病気
療養の名目で京都に向けて出発し、在京中に有馬の変(天草・島原の乱)の勃発を聞くと江戸へ向かい、八代
に帰ったのは乱が終わった年の寛永十五年十一月五日でした。
原城を攻めた肥後軍の中に、主水の名は見受けられません。主水が御座船の屋形の上を飛び越えるという
事件を起こしますが、肥後に来る直前の中津城での参勤交代の途次だったのではないかと思っています。
江戸在府中の忠利は、登城の折籠先に主水を置くのを常としましたが、それは主水が手をかざすと道を遮る
者がたたらを踏んで道を開けたからで、人馬でごったがえすラッシュアワーの中を、忠利の籠だけがすいすい
と通れたからだとのこと。その主水が自分の身軽さを見せびらかしたかったのか、三斎が乗っていた御座船の
屋形の上を二度三度飛び越して見せたのです。その事が三斎の耳に入るや、その癇癖に火がついてしまった
のでした。忠利が自分を軽く見ているから、家来までもが頭の上を飛び越したりすると思われたのかも知れま
せん。その経緯は下母沢氏(?)の小説に書かれていますが、同氏が触れていなかったことがあります。
それは三斎公が家臣の荘林十兵衛に主水の誅殺を命じたとき、詰碁の問題を与え「ヤツは心法の達人だか
ら、その間合いに入るまで詰碁を考えよ」と云ったということです。
主水は三斎公が怒っておられると聞き、お詫びすべく八代町に来たのでしたが、お目通りかなわぬまま、出
町の光円寺(廃寺)に逗留しているうちに風邪を病み、発熱して寝込んでいた処を、見舞いに訪れた加藤家で
同僚だった同じ尾張出身の荘林十兵衛に切りつけられたのでしたが、十兵衛もまたこの時主水の従者に切ら
れて亡くなりました。
主水誅殺によって細川熊本藩と八代藩の対立が表面化しますが、驚いた三斎公と忠利公の直接対話で、対
立の表面化は回避されたのでした。この事がきっかけで生じたのかどうか定かではありませんが、熊本細川家
の執政者の間に「藩内にまったく独立した他藩が存在するような状況は、藩の為に好ましくない」という意識が
顕在化したのは確かなようです。
● 忠興の晩年・その6
三斎が八代城にきて5年め、寛永14年(1637)10月、有馬の変(天草・島原の乱)が勃発します。
その1年前の10月から病気治療の名目で、京都は守山の細川屋敷に行っていた三斎は、その知らせを受け
るや急遽江戸屋敷に向かわれ、それと行き違いに忠利が肥後軍を率いて鎮圧に赴くべく熊本へ帰ります。
その11月7日、肥後在藩中の光尚(三斎の孫、忠利の後嗣)へ宛てた三斎の興味ある書状があります。
「・・・・九州島原の儀 定めてそこ元へ相聞こえて申すべく候 かようの儀につき去々年
その方広間にて越中(忠利)に申し候へども 合点参らず候あいだ また奥にてその方
(光尚)へ申し候いつる その方も合点参らず躰に候いし ただ今存当となさるべく存じ
候 書中火中 恐々謹言」
乱が起きる2年も前に、天草や島原がこの様な有様では一揆が起こるに違いないと、忠
利親子に注意するよう進言したが、二人とも老人(この時74歳)の繰言とみてか相手に
しなかったが、乱が起きた今となっては、当時の自分の言葉を納得せざるを得ないだろう。
なにやら忠利親子に無視された腹立たしさが伝わってくるようです。
原城が陥落し乱が鎮圧されたのは、寛永15年2月28日のことですが、八代からは立孝が1500名の軍勢を引
きつれ出征、落城前日の2月27日には本丸一番乗りを果たし、引き上げ命令が出るまで本丸桝形にとりつい
ていたのですが、落城後の論功行賞では八代軍は除外されてしまいます。
「八代は別なれば」と忠利が云ったからだそうですが、そのせいでしょうか、まだ乱の跡形付けも終わらない3
月3日、立孝はわずかの近臣と共に海路を八代に帰ってしまっています。
● 忠興の晩年・その7
有馬の変が収束して半年後の9月15日、在府中の忠利が肥後の光尚に宛てた書状は、三斎の置かれた立
場が、決して安定したものでなかったことを示しています。要約すると次のようになります。
「(八代城の)二の丸に館を建てるについて、敷地に突き出ている石垣が邪魔だから除去
工事をすることについては、無断で行って、後になって無許可で城の石垣工事をしたと受
け取られかねないから、あらかじめ石垣普請の許可願いを三斎様が幕閣に提出しておら
れたのだが、丹後殿(稲葉正勝)が云われるには、『一国一城の法令からしたら熊本城さ
えあればよく、八代城など不要。まして普請などまったく不要である』との仰せである。
これをそのまま三斎様の耳に入れるわけには行かぬから、加賀山主馬が国に帰ったとき
主馬からそれとなく耳に入れるようにしてほしい」
八代城など不要と云うのは、言葉を変えれば、三斎不要と云うことですから、八代に入るについてイスパニア
など海外や薩摩に対する備えからとの内意があったとの説は、単に領内向けでしかなかったようにも思われま
す。もともと三斎は、関ヶ原の論功行賞に禄は少なくとも京に近い処をと望んでいたと云われていますが、家康
の外様大名政策が、遠国を宛がうというものでしたから、公家に親しい三斎の要求など入れられるはずもなか
ったのです。それにしても稲葉正勝の言葉は少々きついように思われます。
● 忠興の晩年・その8
三斎は寛永16年(1639)2月5日、八代城内において立孝が自分の後継者である事を表明されます。
この後、三斎は江戸に向かいます。同年4月25日、江戸の忠利公が熊本の光尚公に宛てた書状があります。
「三斎公は歯が浮きでもされたのか、立允(立孝)を黒田の子のように独立させたいと運動
しておられるが、何事も自分が承知しない限りは聞き流しておくと老中(堀田正盛)は云つ
ておられる。このことは興長にも古保(興長妻・三斎二女)にも伝えておくように」
三斎としては出来得れば94,000石、でなくとも自分の隠居領37,000石と立孝の内分領30,000石を合
わせた67,000石の八代藩主にしたいと思っておられたのでしたが、忠利はそれを快く思っていなかったこと
が、、文面から察することが出来るのではないでしょうか。しかし90,000石はともかく、すでに30,000石の
内分領を与えている提出書の手前からは、御目見そのものに反対することは出来なかったらしく、江戸へ出た
立孝は、9月20日将軍に御目見して、それまでの立允という僧名をあらため、髪をのばし中務大輔立孝と称し
ます。御目見し従五位下に叙爵されたという事は、少なくとも以前に届けていた内分領30,000石の大名たる
べき存在を、将軍家光が認めたことになります。細川立孝邸すなわち八代藩邸を立てたのもこの年だったよう
です。立孝の弟の興孝は、先に述べたような理由から出家していますが、その内分領はそのまま三斎の統治
下に置かれていたようです。
● 忠興の晩年・その9
寛永17年(1640)7月、宮本武蔵が長岡興長屋敷に来着します。光尚と替わって熊本入りした忠利に、8月
6日お目見し、千葉城址(中級の侍130軒余が建っていた地で加藤清正以前の熊本城の跡)に居宅を下賜さ
れ、『7人扶持、合力米18石』を支給され客分扱いとなります。ついで12月5日付けの新たな辞令では、米
300石を堪忍分の合力米として渡すとあります。
二天記によれば、武蔵が二の丸にある長岡興長邸に伺うと、式部寄之や山本源五左衛門ほか門弟などが
玄関まで出迎えたが、その時の扱いは備頭格だったと記されています。
細川家中にあっては、備頭というのは3千石以上の人が勤める地位で、家老・中老の次ですから、武蔵として
は57歳にして初めて己の望んだような扱いを受けたといえるのではないでしょうか。
忠利が召抱えていた松山主水が殺されたとなると、三斎が召抱えていた佐々木小次郎を試合といえど殺した
武蔵を遠ざけていた遠慮も、今となっては不要と考えたと云うのは穿ちすぎでしょうか。
● 忠興の晩年・その10
寛永18年(1641)3月18日忠利没、享年56歳。労咳=結核だったといわれています。その4日前、江戸の
光尚宛の三斎がしたためた急便に曰く
「忠利の病が重いのを我々八代方に隠していて、よくなった・よくなったと云うばかりだった
から、てっきりそうとばかり思っていたら、今日になって危篤と云う。忠利はと見ると、はや
口もきけず目も見えず意識もなくて、ただ死をまつばかりである。かくなる有様では、何も
聞かされていない自分としては、肥後のことはどうしようもない。ともあれ酒井忠勝殿や柳
生宗矩殿に面会されて、御暇を願って至急帰国なされたし」
忠利の側近は(執政間の合意の上で)忠利の病が重いことを隠していたのでした。何故でしょうか。
独断と偏見で云えば、9万石の分国(八代藩)を三斎公が願えば、元気なときと違って、本来誠実な忠利公が
今わの際とあっては承知してしまうことを興長などの重臣らが恐れたからに違いないと思っています。
忠利のあとを嫡子の光尚22歳が就封し、細川家肥後藩主2代目となります。
● 忠興の晩年・その11
正保元年(1644)5月19日武蔵没、享年62歳。
武蔵が病むと聞いた長岡(松井)式部寄之は、自ら霊巌洞に出向いて、強引に千葉城跡の屋敷に武蔵を帰
宅させ、細川家の寺尾求馬助と家士中西孫之丞を看護責任者として、その死まで手厚く看護させたのでした。
寄之(当時28歳)はまた武蔵の死後も、豊前小笠原家の家老宮本伊織と連絡をとり、その葬儀万端を取り仕
切っています。また武蔵の従者二名を自分の家来にもしています。
同年閏5月11日、江戸の立孝邸(八代藩邸)において立孝没。
熊本城の執政者にとっては誠に都合のよい立孝の死でありました。ノドに刺さった小骨が取れた思いであった
に違いありません。その反対に愛児立孝32歳の早世は、82歳の三斎にとっては誠に酷な知らせだったに違
いありません。気落ちした三斎は、半年後の同年暮れ12月2日に没します。
立孝には遺児宮松9歳が居ましたが、その取り扱いについて三斎が遺言しなかったはずはないのですが、そ
れらに関しては今のところ一切不明です。
● 忠興の晩年・その12
三斎公の死去に際し5人の殉死者がでました。その中に宝泉院という山伏がいます。なぜ山伏がと思ってい
たのですが、状況が理解できるようになってきますと、殉死したことが頷けてきたのでした。
宝泉院はガラシャ夫人の甥で、郡伊織勝延と云う名の武士でしたが、当山派の山伏となって、宝泉院高順坊
勝延と改称していたのでした。八代では山伏ながら寺社奉行(300石)を勤めていました。
戒名は「権大僧都大越家大先達法印宝泉院高順勝延」
大越家(だいおっけ、当山派の称号の一つ、大峰登山回数によって称号が異なっている)
法印(出世法印と云って僧網で云う法印とは異なる。また法印は律師以上の当山派の山伏の死後の
戒名称号でもある)
● その後の八代 (長岡興長-1)
長岡興長八代城主となる。
翌年早々三斎・立孝の八代藩九万石は解体され、10歳になった立孝の遺児宮松は、父の内分領3万石のみ
を受け継ぐ形で宇土に移され、八代城主にはそれまで北部の玉名郡を領していた細川家筆頭家老の長岡(松
井)佐渡興長3万石が任命されます。幕府の内命があってのこととされていますが、実情からすると、幕府の許
可を得た上での任命だったのでしょうが、旧八代藩士の不満を抑えるには内命の方が都合がよかったに違い
ありません。
94、000石が宇土30,000石になるについては、今で云うリストラが、それも三分の一に縮小するという大
削減が行われたわけです。分かっているだけでも、宇土移転に強く反対したと思われる河内長野(村上縫殿
介)10,000石は所領を召し上げられて致仕、三斎公が黒田家からヘッドハンティングした村上良慶(370
石)も致仕して大阪守口に退去、丹後以来の家臣で八代藩では家老だった志方半兵衛(500石)は、50人扶
持(約75石)の蔵米支給に切り替えられ、熊本場内の屋敷に移されたのでした。
村上良慶は織田信長が石山本願寺を攻撃していたとき、教如上人ほか6騎が鶯森近くを通りがかったところ
を信長方の23騎に急襲され、あわやの処を村上七郎右衛門(良慶)の奮戦によって危機を脱したのでした。
感激した上人から、「我が子孫のある限り、汝の子孫が生活に苦しむにあたりては、必ずやそれに報いん」と
の感状を授けています。黒田家で900石だった良慶でしたが、黒田長政との不仲を聞かれた三斎が、中津に
居られたころに1,000石で招かれたのでしたが、来るのが遅くなった故に300石(後70石加増)しか与えら
れなかったのでした。その不満が光尚(熊本細川三代藩主)には、あたかも本藩に不満があるように聞こえ、
宇土に移される一因になったと云われています。それよりか「藩中に他藩が存在するような状況は好ましくな
い」との重臣の懸念があったように、八代での諸政策が本藩の意向を無視した形だったことが問題だったので
すから、縮小移転は早くからの懸案事項だったと見たほうが良いようです。
● その後の八代 (長岡興長-2)
それはともかく、八代としても松井三万石の家臣だけでは、万一の場合は不足であるからと、細川家直臣で
200石クラスの武士50名が、八代城付士として派遣されたのでした。この城付士は城の東の堀沿の長丁
(現在の八代城は当時の半分の面積も残されていない。長丁は現小嶋ビルから八代東高校西側道路に面し
たあたり)に屋敷を与えられていました。
このとき興長は63歳(天正10年生まれ)本来は松井姓でしたが、徳川時代は長岡姓で通し、明治になって
松井姓に帰っています。(以後松井で統一します)
興長の父松井佐渡守康之は、上杉家の直江山城守兼続や石田三成の家老嶋左近勝猛とならべて、天下の
三家老と呼ばれていたそうです。(康之も兼続も叙爵されていましたから「守」を付けますが、徳川家は陪臣に
は原則として叙爵しない方針で、興長も叙爵されていません。ちなみに「従五位下」以上は、即ち諸侯であるか
ら「守」としたのですが、徳川家では六位以下の官位は直臣にも認めていなかったようです)
康之は細川家の二度の危機、すなわち関白秀次事件へ連座しようとした時、また前田家と細川家の家康討
の企てありと噂された時、そのいずれも彼の働きによって危機を脱していたのですが、特に諸大名が康之に瞠
目したのは、文禄の役の功績に対して秀吉が、石見半国を彼に与えて直臣(大名)にしようとしたとき、即座に
辞退して細川家の家老でよしとした出処進退の見事さからでした。
もっともこの石見半国が12万石だったことを考えると、秀吉が本気で康之を直臣にしようとしたとは思えませ
ん。なぜならば秀吉時代の忠興は、信長の与えた12万石のままで終始していたからです。
明智光秀の乱に対してこそ幽斎・忠興は傍観者の態度をとっていますが、あの大判振舞いをする秀吉が、柴
田勝家との戦、あるいは小田原攻めにしてもそれなりの戦績を挙げているにもかかわらず、細川親子に対して
少しの加増もしていなかったからです。康之の手柄は細川家の功績ですが、その細川家を無視してその家臣
を大名に取り立てることは、言うなれば一種の嫌がらせでしかありません。
● その後の八代 (長岡興長-3)
興長自身の功績は父の康之に比較したらさしたることは有りません。
しかし、父康之より著名なのは宮本武蔵の関係においてであって、その人となりについては、まったく未知とい
ってよいかもしれません。その少ないエピソードにつぎのようなものがあります。
有馬の変(天草・島原の乱)が、細川勢の活躍によって収束されたとき、上使の松平伊豆守が、「立花飛騨守
が、自分の家来が一番乗りをしたと云つてきている。また水野や有馬の手の者も、一番乗りしたのは私ですと
名乗り出てきている。一緒に戦った細川勢の中にその証人がいるというから、至急調査するように」と云ったと
き、「お言葉ではございますが申し上げます。その者らが先駆けを争つたことは武士として褒めてしかるべきで
す。しかしながら、彼らに限らず当家の者を頼んで陣借りをした諸牢人、それに自分の陣を脱して細川勢にま
ぎれて一緒に戦って、敵を討ち取ったりあるいは討ち死にした者がいるのは確かな事実で御座います。そうで
はありますが、蓮池から海際まで、隙間なく細川勢がつめかけ、ついには本丸に攻め入りましたことは、御本
営で伊豆守様がご覧なされた通りで御座います。そうでありますがゆえに、当家の中でさえ先駆けを誰彼と争
って、未だに決着を付けかねている始末でありまして、たとえ他家の者が、二百人、三百人と細川勢のなかに
まぎれて戦ったとしても、それは細川勢あってのこと、いや細川勢そのものと思われてもしかるべく、大筋の前
にはそのような些細な論を取り上げるのは如何かと存知あげます」と即答したのが興長でした。
その言葉も終わらぬうちに笑い出した伊豆守が「それこそ大器の論である」と云って調べることが沙汰止みに
なった、と当時の記録にあるように、かなりな人物であったことが伺われます。
● その後の八代 (長岡興長-4)
細川藩史によれば、慶安2年(1649)2代藩主光尚が31歳で没したとき、嫡子六丸は(後の綱利)まだ六歳で
しかなく、10歳未満の場合は改易と法度にあることから、幕閣では肥後三分割案を実施しょうとしたくらいでし
たから、光尚の遺言が「このように早世してご奉公が出来なくなることを誠に申し訳なく存じます。肥後は公収
されるも御意のままに思し召しください。天下静謐を願っておられる上様におかれましては、細川家のことなど
取るに足らないこと、いささかもおかまい下されませぬようお願い奉ります」と誠に殊勝だったことに加え、江戸
家老沼田勘解由と急遽江戸入りした寄之の必死の奔走もあって、豊前小倉藩主小笠原忠真を後見人にするこ
とを条件に、綱利就封が認められたと記しています。そこには興長の名は出てきませんが、肥後藩がその間ま
ったく平静さを保っていた事は、筆頭家老としての興長が、藩内を見事に抑えていたからこそ、と云っても過言で
は有りません。
● その後の八代 (長岡興長-5)
寛文元年(1661)興長71歳で死去、式部寄之(46歳)が嗣封し、佐渡寄之と称します。
代替わりすると側近が入れ替わるのが普通だったのですが、寄之の場合は人事だけでなく体制自体も刷新し
ていたようです。それというのも藩主綱利はまだこの時18歳でしかなく、その大叔父という血筋に加え、肥後
藩の後見者小笠原家の家老宮本伊織とは、伊織の養父宮本武蔵を通して昵懇だったことが彼を大胆にさせ
たと言えないことはありません。松井家臣団は、三斎の子である寄之の就任と施策を見て、これで名実ともに
直臣と同じであると喜んだと伝えられます。
寛文二年寄之が最初に手をつけたのは、城付士と呼ばれた細川家直臣の処罰でした。
地方の代官所への左遷や改易などを行いました。
陪臣は直臣に出会ったら、履物を脱いで道の端によって蹲踞しなくてはならなかったそうですが、松井家臣に
おいては直臣と同じにするとの定めが出ていたというものの、切歯扼腕するときが度々あり、興長主には遠慮
もあってか目をつぶっておられたと伝えられます。
体制の再編成の一つに医王寺の没収が有ります。
医王寺は加藤時代、地震で倒壊した麦島に替えて現在地に八代城を構築するにあたり、薬師森を開いて侍屋
敷(長丁)としたのですが、そのおり廃寺とされて井戸だけ残っていたのです。
八代城に入った三斎は、その寺跡が城の鬼門に当たることから、祈祷力に定評のある山伏の本寿院養清坊
教円(18歳)に与えて医王寺を再建させ、熊本神護寺同格とされたのでした。
『医王寺は元は侍屋敷につき公収する。その代わりに石原町の威重院屋敷を与えるから、そこを医王寺とす
べし』という上意を発したのでした。山伏威重院は元三斎の家臣だったのですが、同時期同様に紺屋町に移
されています。
つまり細川家直臣である城付士の屋敷が並ぶ長丁のとっかかりにある医王寺を角田伊左衛門に与え、その
押さえにしたわけです。伊左衛門は有馬の変で戦死した家老松井外記(700石)の次男で、別家として200
石で取り立てられていたのですが、有馬の変武名の高かった山本五左衛門(500石・松井家番頭)の娘婿で
あることも彼が選ばれた背景にあったのは確かでしょう。