細川忠興の晩年とその後の八代
     
  ● 忠興の晩年・その1
 元和2年(1616)豊前小倉生まれの本寿院養清教円(杉本院)という当山派の山伏が、豊前中津城から肥後八代城へと移られた三斎公にしたがって肥後に移り住み、三斎公の死の18年後、切腹後蘇生し、時の八代城主長岡(松井)佐渡寄之を90日間呪詛して死にます。現在は八代市荒神町に権現堂として、また芦北郡芦北町に西龍神社として祀られています。

八代市袋町にある現在の医王寺は、当初は長丁にあって、三斎公が城の祈祷寺として本寿院に再建させて、その住職にしたところでしたが、杉本院(本寿院)の切腹後、時の城主長岡寄之から没収破却され、杉本院の死の二年後、寄之夫人によって現在地に再建されたものです。
 現在の医王寺本堂には、長岡家(松井家)代々の位牌の前に、杉本院の位牌が置かれています。またその棟札には養清坊の怨念消滅の文字が刻まれています。(棟札写真後掲)

 晩年の三斎公については、あまり知られておりません。愛児立孝の早世さえも見方を変えれば、子供から裏切られたことになりますが、だとすれば、6人男子すべてから背かれたというか誠に淋しい人生の終焉とされたわけです。これらのことは細川家のカルマというより、三斎の性癖がもたらしたものかもしれませんが、杉本院事件にしても、三斎晩年の願い即ち立孝を八代藩主として公認させたいとの願いを忠利・光尚が受け入れないまま、立孝が死去し、その遺児宮松内分料3万石のみをもって宇土に移して、長岡佐渡興長を八代城主にしたことによって惹起されたと云ってよいかと思います。(便宜上藩という言葉をつかいますが、藩という言葉は明治になって使用されるようになった文字とのことです。であれば八代分領主即ち八代支藩9万石は事実上存在していたというべきでしょう)

 杉本院事件では当山派の山伏三人と女性一人が自決していますが、本山(醍醐寺三宝院)は事件など無かったかのように知らぬふりを続けたのでした。それは今だ一度も人の口に上がったことがないことからでも解ることですが、そこに一石を投じてみたらどうなるのかとの思いがこのレポートを書くきっかけとなりました。

   ● 忠興の晩年・その2
 元和5年(1619)豊前38万石を忠利に譲って、三斎宗立と改めた細川忠興が、肥後国八代に足を入れたのは寛永9年(1632)12月22日で、隠居してから12年後のことでした。その夜は、先乗りの部下があらかじめ手配していた町屋に宿泊し、その居城たるべき八代城に初めて足を踏み入れたのが翌23日。家臣の知行地や屋敷割振りが終わったのを待っていたかのように、年明け早々三斎の元に、忠利の家臣を通じて将軍家の懸念が伝えられます。三斎が返事として在府中の忠利へしたためた書状(寛永10年2月20日付)には次のように記されています。

「三斎の知行が多いのは為にならないとの内意とか。立允と興孝に遣すべき知行と城付士の分と自分の三万七千石、それに河内長野(村上縫殿介景則)の一万石を入れると九万七千石になる。稲葉正勝殿(老中)はその事をご存知だが、家光公はそれをご存じないので、今回の正勝殿の内緒のお知らせとなったのであろう。立允(立孝)三万石、興孝二万五千石の内分領と河内の一万石が含まれていることを書面にして提出したら、それでこの件は落着するはずだ。しかし、そう報告したからといつても、自分の知行は前と同じ九万石であると承知しておいて欲しい。・・・・・・・・・・・その方が味ある儀にて候条、従って幕閣へのことわりようの子細は必ず承るべく候」

  

        *** 八代城下町図*** (画面をクリックすると拡大図が御覧いただけます)


 ● 忠興の晩年・その3

八代入りした三斎の監督下には立允と興孝という同母兄弟の二人の子供がありました。

八代入りした時立允は十八歳で、三歳年下の興孝は幼児の頃から三斎の証人(人質)として江戸に居りました。この興孝は成長するにつれて三斎と不仲になり、寛永十五六年頃は修復不可能になって忠利を嘆かせるようになります。(興孝は二五才になるまで証人として江戸にいた)
 三斎は立允を溺愛していたと伝えられていますが、内実九万石余、表向き三万七千石であれ、三斎としては江戸へ証人をたてねばならず、帰国するという興孝に替えて立允を証人として江戸へ出します。立允と云うのは僧名ですが、この時将軍にお目見えして還俗し中務大輔立孝と名乗ることになります。(江戸で成人した興孝が反三斎に染まった、と言うことは細川藩邸の空気がそうだったというしかない)
 熊本への帰国途中病気した興孝は剃髪し、帰国後幽居しますがまもなく忠利(異母兄)が、興孝に一万石をあたえ細川刑部家として存続させています。
 三斎には次のように6人の男子がありました。
       長男 忠隆(出家して休無、忠利はその子忠雄に六千石を与えている)
       次男 興秋(出奔して大阪方に加わる、大阪陣後切腹)
       三男 忠利(細川家初代肥後藩主)
       四男 立孝(内分領八代藩主・嫡子宮松が後の宇土初代藩主)
       五男 興孝(出家・後細川刑部家一万石)
       六男 寄之(岩千代と称していた幼児に長岡佐渡興長養嗣子となる)
       (実際にはこの他に忠利の後に千丸という夭折した男子があった。)

   ● 忠興の晩年・その4


 関ヶ原で武功のあった忠隆は、戦後すぐ廃嫡されています。その理由として、ガラシャ夫人が生害(慶長五年七月十七日)したのに対して、同じ細川屋敷にいた忠隆夫人千世(前田利家女)は、隣家の宇喜田秀家(敵方)屋敷に逃れて無事であったことを知って、ガラシャを愛していた忠興が怒ってのことだと云われています。
 しかし細川軍功記には七月三日「とだ」という宿で、忠興・忠隆親子が仲違いされたと記していますが、理由については触れていません。その前日である2日には、大谷吉継隊の所に三成からの使者が来ていて、大谷隊が家康の上杉討伐軍から離脱したのが11日です。忠隆の義兄である前田利長が、上杉討伐軍に参加していなかったことなど考え合わせますと、忠隆のところにも使者があって、三成のコマーシャルベースに乗せられて細川隊の西軍参加を父忠興に勧めてその怒りを買ったとも考えられなくもありません。(前田軍は自国の国境で西軍と対陣しあるいは対戦していて参加できなかった)

 関ヶ原の後忠興(以下隠居名の三斎で統一)は、長男忠隆の廃嫡と三男忠利の後嗣届けを出しています。しかし、実際に忠利が豊前藩主を嗣封したのはその二十年にもなろうという後のことでした。

忠利を嗣子にすることについては、関ヶ原のとき、証人(人質)として将軍秀忠の馬廻り(小姓勤めとも)をしていた忠利が、その誠実な人柄を見込まれて、「忠利を後継者にするように」との将軍家の内意が伝えられたからだと云われています。
 叔父興元の養子となっていた次男興秋は、興元が家を出たことから中津城主になっていたのですが、忠利の証人として出府することになったその途中で出奔し、大阪城に入り、大阪の陣の後怒った忠興に切腹させられています。(京都に幽居していた興元は家康から下野茂木一万石で迎えられ、大坂の陣の後六千二百石を加増され、常陸谷田部藩一万六千石の藩祖となる)

興秋出奔については、三斎が西軍が勝ったときに備えて、保険をかけたと見る人がいますが、それは無いと言えます。と云いますのは、大阪の陣の半年ばかり前のことですが、三斎が島津義弘の使者に次のように言っているからです。


 「信長公が七年もかかって攻め落とせなかった石山城(大阪城)は、その当時よりよほど堅固である上に、諸国の名有る牢人が大勢詰めているから中々落城しないだろう。数年も籠城すれば老人である家康(七十五歳、その翌年死去)は死ぬであろうから、大阪方の勝利は間違いない、というのが世間の多くの見方だが、ワシはそうは思わない。『落城は早速たるべし、と見ている。その子細は、秀頼は乳飲み子(マザコン)にして、お袋専制(ヒステリック)なればなり』ワシがそのように云っていると維新(義弘)殿に伝えてくれ」

 

また、後で触れますが、有馬の変(天草・島原の乱)が起きる二年も前に、その事を予告していたことからも、三斎の時代を見る目の確かさが伺えます。興秋が出奔したのは、ガラシャと同腹の弟が後継者にされた事自体もそうでしょうが、その忠利の証人として江戸(徳川家)へ向かわされたことで、より不満が高じていた所へ、大阪方の甘い言葉があったからと見るのが正解だろうと思っています。(興元は中津城主だったようですが、興秋はその替わり即ち城代=忠利の家臣=ということが不満だったとか。三斎はその興秋に同情して仕送りしていたが、大阪城に入ると聞き勘当する)

    ● 忠興の晩年・その5

松山主水が三斎公の命で誅殺された年月はさだかでは有りません。三斎は寛永十三年十一月七日、病気療養の名目で京都に向けて出発し、在京中に有馬の変(天草・島原の乱)の勃発を聞くと江戸へ向かい、八代に帰られたのは乱が終わった年の寛永十五年十一月五日でした。
 原城を攻めた肥後軍の中に、主水の名は見受けられません。主水が御座船の屋形の上を飛び越えるという事件を起こしますが、肥後に来る直前の中津城での参勤交代の途次だったのではないかと思っています。(主水の墓石に寛永12年10月とあるとのこと)

江戸在府中の忠利は、登城の折は籠先に主水を置くのを常としましたが、それは主水が手をかざすと道を遮る者がたたらを踏んで道を開けたからで、人馬でごったがえすラッシュアワーの中を、忠利の籠だけがすいすいと通れたからだとか。その主水が自分の身軽さを見せびらかしたかったのか、三斎が乗っていた御座船の屋形の上を二度三度飛び越して見せたのです。その事が三斎の耳に入るや、その癇癖に火がついてしまったのでした。忠利が自分を軽く見ているから、家来までもが頭の上を飛び越したりすると思われたのかも知れません。その経緯は下母沢氏(?)の小説に書かれていますが、同氏が触れていなかったことがあります。
 それは三斎公が家臣の荘林十兵衛に主水の誅殺を命じたとき、詰碁の問題を与え「ヤツは心法の達人だから、その間合いに入るまで詰碁を考え続けよ」と云ったということです。
 主水は三斎公が怒っておられると聞き、お詫びすべく八代町に来たのでしたが、お目通りかなわぬまま、出町の光円寺(廃寺)に逗留しているうちに風邪を病み、発熱して寝込んでいた処を、見舞いに訪れた加藤家で同僚だった同じ尾張出身の荘林十兵衛に切りつけられたのでしたが、十兵衛もまたこの時主水の従者に切られて亡くなっています。(十兵衛の子の半十郎は翌年夏、夕涼み出たところを何者かによって後ろから槍で突き殺されている)
 主水誅殺によって細川熊本藩と八代藩の対立が表面化しますが、驚いた三斎公と忠利公の直接対話で、対立の表面化は回避されたのでした。この事がきっかけで生じたのかどうか定かではありませんが、熊本細川家の執政者の間に、

「藩内にまったく独立した他藩が存在するような状況は、藩の為に好ましくない」

という意識が顕在化したのは確かなようです。

  ● 忠興の晩年・その6


 三斎が八代城にきて5年め、寛永14年(1637)10月、有馬の変(天草・島原の乱)が勃発します。
 その1年前の10月から病気治療の名目で、京都は守山の細川屋敷に行っていた三斎は、その知らせを受けるや急遽江戸屋敷に向かわれ、それと行き違いに忠利が肥後軍を率いて鎮圧に赴くべく熊本へ帰ります。
 その11月7日、肥後在藩中の光尚(三斎の孫、忠利の後嗣)へ宛てた三斎の興味ある書状があります。
 

「・・・・九州島原の儀 定めてそこ元へ相聞こえて申すべく候 かようの儀につき去々年その方広間にて越中(忠利)に申し候へども 合点参らず候あいだ また奥にてその方(光尚)へ申し候いつる その方も合点参らず躰に候いし ただ今存当となさるべく存じ候          書中火中 恐々謹言」

乱が起きる2年も前に、天草や島原がこの様な有様では一揆が起こるに違いないと、忠利親子に注意するよう進言したが、二人とも老人(この時74歳)の繰言とみてか相手にしなかったが、乱が起きた今となっては、当時の自分の言葉を納得せざるを得ないだろう。と云っているのです。なにやら忠利親子に無視された腹立たしさが伝わってくるような気がします。
 原城が陥落して乱が鎮圧されたのは、寛永15年2月28日のことですが、八代からは立孝が1300名の軍勢を引きつれて出征、落城前日の2月27日には本丸一番乗りを果たし、引き上げ命令が出るまで本丸桝形にとりついていたのですが、落城後の論功行賞では八代軍は除外されてしまいます。
「八代は別なれば」

と忠利が云ったとかですが、そのせいでしょうか、まだ乱の跡形付けや論功行賞も終わらない3月3日、立孝はわずかの近臣と共に海路を八代に帰ってしまいます。

 ● 忠興の晩年・その7

有馬の変が収束して半年後の9月15日、在府中の忠利が肥後の光尚に宛てた書状は、三斎の置かれた立場が、決して安定したものでなかったことを示しています。要約すると次のようになります。

 「(八代城の)二の丸に館を建てるについて、敷地に突き出ている石垣が邪魔だから除去工事をすることについては、無断で行って、後になって無許可で城の石垣工事をしたと受け取られかねない。であるから、あらかじめ石垣普請の許可願いを三斎様が幕閣に提出しておられたのだが、丹後殿(老中稲葉正勝)が云われるには、『一国一城の法令からしたら熊本城さえあればよく、八代城など不要。まして普請などまったく不要である』との仰せである。これをそのまま三斎様の耳に入れるわけには行かぬから、加賀山主馬が国に帰ったとき主馬からそれとなく耳に入れるようにしてほしい」


  八代城など不要と云うのは、言葉を変えれば、三斎不要と云うことですから、八代に入るについてイスパニアなど海外や薩摩に対する備えからとの内意があったとの説は、単に領内向けでしかなかったように思われます。もともと三斎は、関ヶ原の論功行賞に禄は少なくとも京に近い処をと望んでいたと云われていますが、家康の外様大名政策が、遠国を宛がうというものでしたから、公家に親しい三斎の要求など入れられるはずもなかったのです。それにしても稲葉正勝の言葉は少々というよりかなりきつすぎます。

 ● 忠興の晩年・その8
 

三斎は寛永16年(1639)2月5日、八代城内において立孝が自分の後継者である事を表明されます。この後、三斎は江戸に向かいます。同年4月25日、江戸の忠利公が熊本の光尚公に宛てた書状があります。

「三斎公は歯が浮きでもされたのか、立允(立孝)を黒田の子のように独立させたいと運動しておられるが、何事も自分が承知しない限りは聞き流しておくと老中(堀田正盛)は云っておられる。このことは興長にも古保(興長妻・三斎二女)にも伝えておくように」

三斎が、今日よりは立允が八代城主であると宣言された事は忠利の耳にも聞こえていたに違いなく、江戸では三斎が幕閣に立允の独立運動しておられたのですが、忠利がそれを快く思っていなかったことが、その文面から察することが出来るのではないでしょうか。

94,000石はともかく(宇土藩関係史料によれば、2月5日に由緒の品々と共に7万石を分与され、家臣一同に御酒を振る舞われたとのこと)、すでに30,000石の内分領を与えているとの報告書の手前からは、御目見そのものに反対することは出来なかったらしく、江戸へ出た立孝は、9月20日将軍に御目見して、髪をのばして立允という僧名を中務大輔立孝と改めます。御目見して従五位下に叙爵されたという事は、少なくとも以前に届けていた内分領30,000石の大名たるべき存在を、将軍家光が認めたことになります。立孝が江戸に立孝邸すなわち八代藩邸を立てたのもこの年だったようです。            


 ● 忠興の晩年・その9


 寛永17年(1640)7月、宮本武蔵が長岡興長屋敷に来着します。光尚と替わって熊本入りした忠利に、8月6日お目見し、千葉城址(中級の侍130軒余が建っていた地で加藤清正以前の熊本城の跡)に居宅を下賜され、『7人扶持、合力米18石』を支給され客分扱いとなります。ついで12月5日付けの新たな辞令では、米300石を堪忍分の合力米として渡すとあります。
 二天記によれば、武蔵が二の丸にある長岡興長邸に伺うと、式部寄之や山本源五左衛門ほか門弟などが玄関まで出迎えたが、その時の扱いは備頭格だったと記されています。細川家中にあっては、備頭というのは3千石以上の人が勤める地位で、家老・中老の次ですから、武蔵としては57歳にして初めて己の望んだような扱いを受けたといえるのではないでしょうか。
 忠利が召抱えていた松山主水が殺されたとなると、試合と云えども三斎が召抱えていた佐々木小次郎を殺した武蔵を遠ざけていた遠慮も、今となっては不用と武蔵を招かれたのかもしれません。


 ● 忠興の晩年・その10

寛永18年(1641)3月18日忠利没、享年56歳。労咳=結核だったといわれています。その4日前、江戸の光尚宛の三斎の急便曰く
 

「忠利の病が重いのを我々八代方に隠していて、よくなった、よくなったと云うばかりだったから、てっきりそうとばかり思っていたら、今日になって危篤と云う。忠利はと見ると、はや口もきけず目も見えず意識もなくて、ただ死をまつばかりである。かくなる有様では、何も聞かされていない自分としては、肥後のことはどうしようもない。ともあれ酒井忠勝殿や柳生宗矩殿に面会されて、御暇を願って至急帰国なされたし」

忠利の側近は(執政間の合意の上で)忠利の病が重いことを隠していたのでした。何故でしょうか。独断と偏見で云えば、94,000石あるいは70,000の分国(八代藩)願いの幕閣への提出を三斎公が願えば、元気なときと違って、本来誠実な忠利公も今わの際とあっては承知してしまうことを興長等の重臣が恐れたからに違いありません。

 忠利のあとを嫡子の光尚22歳が就封し、細川家肥後藩主2代目となります。

 ● 忠興の晩年・その11


 正保元年(1644)5月19日武蔵没、享年62歳。
 武蔵が病むと聞いた細川家中老長岡(松井)式部寄之は、自ら霊巌洞に出向いて、強引に千葉城跡の屋敷に武蔵を帰宅させ、細川家の寺尾求馬助と家士中西孫之丞を看護責任者として、その死まで手厚く看護させたのでした。寄之(当時28歳)はまた武蔵の死後も、豊前小笠原家の家老宮本伊織と連絡をとり、その葬儀万端を取り仕切っています。また武蔵の従者二名を引き取って自分の家来にしています。

 同年閏5月11日、江戸の立孝邸(八代藩邸)において立孝没。
熊本城の執政者にとっては誠に都合のよい立孝の死でありました。ノドに刺さった小骨が取れた思いであったに違いありません。その反対に愛児立孝32歳の早世は、82歳の三斎にとっては誠に酷な知らせでありました。気落ちした三斎は、半年後の同年暮れ12月2日に没します。
 立孝には遺児宮松9歳が居ましたが、三斎が何を言い残したかのか、遺言は明らかにされていません。と云うより、三斎に遺言があったか否かさえも明らかではないのです。(京にいた宮松の存在を、立孝の死まで、三斎は知らなかったらしい。立孝の遺言で初めて明らかされたとのこと)

 ● 忠興の晩年・その12


 三斎公の死去に際し5人の殉死者がでました。その中に宝泉院という山伏がいます。なぜ山伏がと思っていたのですが、人物像が判ってきますと、殉死したことも判らなくは有りません。
 宝泉院はガラシャ夫人の甥で、郡伊織勝延と云う名の武士でしたが、当山派の山伏となって、宝泉院高順坊勝延と改称していたのでした。八代では山伏ながら寺社奉行(300石)を勤めていました。その戒名は、
 「権大僧都大越家大先達法印宝泉院高順勝延」
 (大越家=だいおっけ、当山派の称号の一つ、大峰登山回数によって称号が異なっている。この法印は出世法印と云って僧網で云う法印とは異なる。また法印は律師?以上の当山派の山伏の死後の戒名称号でもある)

 ● その後の八代 (長岡興長−1)


 長岡佐渡興長八代城主となる。
 翌年早々三斎・立孝の八代藩九万石は解体されます。10歳になった立孝の遺児宮松は、八代分領を三斎公が譲っておられたことについては証拠がないと一蹴され、幕府へ届け出ていた内分領3万石のみをもって宇土に移され、八代城主にはそれまで北部の玉名郡を領していた細川家筆頭家老の長岡(松井)佐渡興長3万石が任命されます。幕府の内命があってのこととされていますが、実情からすると、生前の妙解院(忠利)の意志を汲んでのことでしょうが、旧八代藩士の不満を抑えるには幕府の命あって、とした方が都合がよかったに違いありません。
 94、000石が宇土30,000石になるについては、今で云うリストラが、それも三の一に縮小するという大削減が行われたわけです。分かっているだけでも、宇土移転に強く反対したと思われる河内長野(村上縫殿介)10,000石は所領を召し上げられて致仕、三斎公が黒田家からヘッドハンティングした村上良慶(370石)も致仕して大阪守口に退去、丹後以来の家臣で八代藩では家老だった志方半兵衛(1000石)は、50人扶持(約75石)の蔵米支給に切り替えられ、熊本場内の屋敷に移されています。(後に宇土藩家老500石に復帰)
 村上良慶は、織田信長が石山本願寺を攻撃していたとき、教如上人ほか6騎が鶯森近くを通りがかったところを信長方の23騎に急襲され、あわやの処を村上七郎右衛門(良慶)の奮戦によって危機を脱したのでした。
 感激した上人から、「我が子孫のある限り、汝の子孫が生活に苦しむにあたりては、必ずやそれに報いん」との感状を授けています。黒田家で900石だった良慶でしたが、黒田長政との不仲を聞かれた三斎が、中津に居られたころに1,000石で招かれたのでしたが、来るのが遅くなった故に300石(後70石加増)しか与えられなかったので、その不満が、光尚(熊本細川三代藩主)には、あたかも本藩に不満があるように聞こえ、宇土に移される一因になったと云われていますが370石でしかありません。それよりか「藩中に他藩が存在するような状況は好ましくない」との重臣の懸念があったように、八代での諸政策に本藩が口を挟めなかったことが問題だったのですから、縮小移転は忠利在世時代からの懸案事項だったと見たほうが良いようです。

 

● その後の八代 (長岡興長−2)


 それはともかく、八代としても松井三万石の家臣だけでは、万一の場合は不足であるからと、細川家直臣で200石クラスの武士50名が、八代城付士として派遣されたのでした。この城付士は城の東の堀沿の長丁(現在の八代城は当時の半分の面積も残されていない。長丁は現小嶋ビルから八代東高校西側道路に面したあたり)に屋敷を与えられていました。

 このとき興長は63歳(天正10年生まれ)本来は松井姓でしたが、徳川時代は長岡姓で通し、明治になって松井姓に帰っています。(以後松井で統一します)
 興長の父松井佐渡守康之は、上杉家の直江山城守兼続や石田三成の家老嶋左近勝猛とならべて、天下の三家老と呼ばれていたそうです。(康之も兼続も叙爵されていましたから「守」を付けますが、徳川家は陪臣には原則として叙爵しない方針で、興長も叙爵されていません。ちなみに「従五位下」以上は、即ち諸侯であるから「守」としたのですが、徳川家では六位以下の官位は直臣にも認めていなかったようです)
 康之は細川家の二度の危機、すなわち関白秀次事件へ連座しようとした時、また前田家と細川家の家康討の企てありと噂された時、そのいずれも彼の働きによって危機を脱していたのですが、特に諸大名が康之に瞠目したのは、文禄の役の功績に対して秀吉が、石見半国を彼に与えて直臣(大名)にしようとしたとき、即座に辞退して細川家の家老でよしとした出処進退の見事さからでした。
 もっともこの石見半国が12万石(18万石とも云われている)だったことを考えると、秀吉が本気で康之を直臣にしようとしたとは思えません。なぜならば秀吉時代の忠興は、信長の与えた12万石のままで終始していたからです。
 明智光秀の乱に対してこそ幽斎・忠興は傍観者の態度をとっていますが、あの大判振舞いをする秀吉が、柴田勝家との戦、あるいは小田原攻めにしてもそれなりの戦績を挙げているにもかかわらず、細川親子に対して少しの加増もしていなかったからです。康之の手柄は細川家の功績ですが、その細川家を無視してその家臣を大名に取り立てることは、言うなれば一種の嫌がらせでしかありません。(幽斎・忠興は関ヶ原の時18万石でしたが、6万石は、関ヶ原の直前に在阪料の名目で家康が与えたものだった)

 ● その後の八代 (長岡興長−3)


 興長自身の功績は父の康之に比較したらさしたることは有りません。
 しかし、父康之より著名なのは宮本武蔵の関係においてであって、その人となりについては、まったく未知といってよいかもしれません。その少ないエピソードにつぎのようなものがあります。

 有馬の変(天草・島原の乱)が、細川勢の活躍によって収束されたとき、上使の松平伊豆守が、「立花飛騨守が、自分の家来が一番乗りをしたと云ってきている。また水野や有馬の手の者も、一番乗りしたのは私ですと名乗り出てきている。一緒に戦った細川勢の中にその証人がいるというから、至急調査するように」と云ったとき、

「お言葉ではございますが申し上げます。その者らが先駆けを争ったことは武士として褒めてしかるべきです。しかしながら、彼らに限らず当家の者を頼んで陣借りをした諸牢人、それに自分の陣を脱して細川勢にまぎれて一緒に戦って、敵を討ち取ったり、あるいは討ち死にした者がいるのは確かな事実で御座います。そうではありますが、蓮池から海際まで、隙間なく細川勢がつめかけ、ついには本丸に攻め入りましたことは、御本営で伊豆守様がご覧なされた通りで御座います。そうでありますがゆえに、当家の中でさえ先駆けを誰彼と争って、未だに決着を付けかねている始末でありまして、たとえ他家の者が、二百人、三百人と細川勢のなかにまぎれて戦ったとしても、それは細川勢あってのこと、いや細川勢そのものと思われてもしかるべく、大筋の前にはそのような些細な論を取り上げるのは如何かと存知あげます」

と即答したのが興長でした。

その言葉も終わらぬうちに笑い出した伊豆守が「それこそ大器の論である」と云て調べることが沙汰止みになった、と当時の記録にあるように、かなりな人物であったことが伺われます。


 ● その後の八代 (長岡興長−4)


 細川藩史によれば、慶安2年(1649)2代藩主光尚が31歳で没したとき、嫡子六丸は(後の綱利)まだ六歳でしかなく、10歳未満の場合は改易と法度にあることから、幕閣では肥後三分割案を実施しょうとしたくらいでしたから、光尚の遺言が、

「このように早世してご奉公が出来なくなることを誠に申し訳なく存じます。肥後は公収されるも御意のままに思し召しください。天下静謐を願っておられる上様におかれましては、細川家のことなど取るに足らないこと、いささかもおかまい下されませぬようお願い奉ります。二人の男子につきましては、成人して何かのお役に立てるようであれば、あらためてお取り立て頂ければ有り難く存じ成す。」

と誠に殊勝だったことに加え、江戸家老沼田勘解由と急遽江戸入りした式部寄之の必死の奔走もあって、豊前小倉藩主小笠原忠真を後見人にすることを条件に、綱利就封が認められたと記しています。

そこには興長の名は出てきませんが、肥後藩がその間まったく平静さを保っていた事は、筆頭家老としての興長が、藩内を見事に抑えていたからこそ、と云っても過言では有りません。


 ● その後の八代 (長岡興長−5)


 寛文元年(1661)興長71歳で死去、式部寄之(46歳)が嗣封し、初めての八代城入りをして以後佐渡寄之と称します。代替わりすると側近が入れ替わるのが普通だったのですが、寄之の場合は体制に加え、直臣を含む人事の刷新も行っていたのでした。 

 それというのも藩主綱利はまだこの時18歳でしかなく、その大叔父という血筋に加え、肥後藩の後見者小笠原家の家老宮本伊織とは、伊織の養父宮本武蔵を通して昵懇だったことに併せて、綱利が初めての熊本いりをするまでの12年間は、彼が熊本の藩政を統括していて、細川家を安泰たらしめたことが、より大胆にさせたと言えなくもありません。また松井家臣団は、三斎の子である寄之の就任と施策を見て、これで名実ともに直臣と同じであると喜んだとか。

 寛文二年寄之が最初に手をつけたのは、城付士と呼ばれた細川家直臣の処罰でした。葦北代官所への左遷や改易などを行っています。
 陪臣は直臣に出会ったら、履物を脱いで道の端によって蹲踞しなくてはならなかったそうですが、城付士は松井家臣と同じにするとの定めが出ていたというものの、切歯扼腕するときが度々あったが、興長主には遠慮もあってか目をつぶっておられたとの事。
 その流れの中の一つに医王寺の没収が有ったのでした。
 医王寺は加藤時代、地震で倒壊した麦島に替えて現在地に八代城を構築するにあたり、薬師森を開いて侍屋敷(長丁)としたのですが、そのおり廃寺とされて井戸だけが残っていたと伝えられています。
 八代城に入った三斎は、その寺跡が城の鬼門に当たるところから、祈祷力に定評のある山伏の本寿院養清坊教円(18歳)に与えて医王寺を再建させ、熊本神護寺同格とされたのでした。ですが寄之は、
『医王寺は元は侍屋敷につき公収する。その代わりに石原町の威重院屋敷を与えるから、そこを医王寺とすべし』

という上意を発したのでした。山伏威重院は元三斎の家臣だったのですが、同時期同様に紺屋町に移されています。
 つまり細川家直臣である城付士の屋敷が並ぶ長丁のとっかかりにある医王寺を寵臣角田伊左衛門に与え、その押さえにしたわけです。伊左衛門は有馬の変で戦死した家老松井外記(700石)の次男で、別家として200石で取り立てられていたのですが、有馬の変で武名の高かった山本五左衛門(500石・松井家番頭)の娘婿であることも彼が選ばれた理由の一つとなっていたようです。

ですが、杉本院に罪があればともかく、主筋でしかも実父である三斎公が守護寺とされた医王寺を杉本院から没収し、侍屋敷にするなど有ってはならないことでしたが、松井家あっての、いや自分有っての細川家であるという自負心が、君に忠に親に孝に、という武士の規範を寄之には顧みさせなかったと云うしか有りません。

医王寺青面金剛堂前にある杉本院と医王寺の関係を示す案内板


 杉本院事件  ・その1


 屋敷替えがあったとき、医王寺住職杉本院は佐敷の杉本院(祈祷寺)にいました。と云いますのは、有馬の変のあった年の11月八代に帰られた三斎公は、立孝が鎧や兜に幾つもの矢弾を受けながらも無傷であったのは、本陣で戦勝と息災を祈祷していた本寿院(杉本院)の法力によるとして、芦北の真言宗の古刹平等寺杉本院の跡地を賜ったのですが、本寿院は、跡地と云えども由緒ある古刹を賜ったことを名誉として、それまでの院号を杉本院と改めて、再建すると同時に、医王寺には弟子智徳院を看坊(代理)として置き、妻子を佐敷杉本院に移していたからでした。(次男の教恵に本寿院を名乗らせ医王寺の住職として置いていたが、まだ16才だった)

 TVなどでは、大名と武芸者や商人などが直接会話をするシーンなどあって、それを不審に思いませんが、山伏は勿論のこと直臣でも限られた家格の武士以外は、大名と直接会話するなどは、許しがない以上は出来なかったのでした。参考までにそのあたりの事を読み下し文とし送り仮名をつけて転記してみます。
・・・・本寿院即ち杉本院と相改め申し候 其の後 右御礼ご機嫌伺い奉るため八代御城へ罷り出 御書院次の間に控え居り申し候処 御懇命仰せつけられ お側衆より改めて前条の意向(加増ともに医王寺の寺領辞退の件)につき 恐れながら三斎公の思し召され候に 何事に依らず申して見候得との儀 直に言上為すべく御申し聞かせられ候に付 恐れながら芦北郡は朝夕怠らず弥以てご祈祷仕り候中につき一戸より永代八木(米)三合宛て頂戴仰せ下され候はば誠に以て有り難く候 と御心を直に言上相成り候由にて その通り仰せ付けられて下述 芦北郡中五千三百余棟へ御達し相成り申し候 将亦その願い殊勝成りとして谷町山(谷町山平等寺杉本院)の山廻り・・・・・・

 医王寺が八代城の守護寺としての寺格をはずされ、軽輩の士の住む石原町(足軽小路とも云った)に移された事は、杉本院にとっては、処罰されたも同然の扱いだったのでしたが、これだけであれば、杉本院事件は起きるはずもなかったのでした。

(寄之は医王寺を没収し石原町への移転を命じたとき、城の鬼門封じとして禅定院を宛てたが、禅定院までも自害するに及んで、新たに北東=鬼門=の場所に法源寺を建立している。)



 ● 杉本院事件・その2

 寛文2年11月29日になって、医王寺の看坊(住職代理)智徳院が、明後日からは師走でもあり植樹の時期でもあるからと、棕櫚の木の移植の日時を決めるべく、角田伊左衛門の屋敷(旧医王寺)に出かけたところ、まったく予想もしていなかった始末すなわち角田親子と刀を抜いて対峙し、双方が怒号しあうという結果を迎えてしまったのでした。これが事件の直接の発端になります。
「要っとならば、何すれば、家移りの時持って行かなんだ。拝領屋敷にあるからには、すでに我が物。渡すつもりや無かぞ」
「そぎゃん無茶な。庭木に限って時期がきてからて、なっとりまっしゅうが」
「なんが無茶か・・・」

と言い争っているところへ、角田の息子が駆けつけ、智徳院の結袈裟をむしりとるや小刀で切り裂き、玄関先へ蹴り出したので、
「修験の袈裟には深き儀あり、刀で決着つける他は無かっぞ」と柴打(山伏の帯刀)を抜いたとのこと。
 近くの城付士二名(佐藤八助200石、和田与右衛門150石)が、騒ぎを聞いて駆けつけ、身を挺して双方を抑えたので、ひとまずその場はおさまったのでした。

  (管理人註・角田伊左衛門 松井康之の姉松林院(角田因幡守藤秀室)の子松井二平次定高の嫡子松井外記元勝の二男)

 ● 杉本院事件・その3

 弟子の日奈久(日奈久町)弁天社司勝善院を伴った杉本院が、八代町に来着したのは、多忙な師走と祝い月を避けた翌年寛文3年2月3日の事で、佐敷近くの州口から漁船を雇っての海路からで、直に鷹辻小路(鷹辻町)の禅定院に入ります。禅定院宥静正學は、法の上では弟子ですが、杉本院養清の実弟で、三斎公から鷹辻天神の社僧にされていましたが、有馬の変でも兄と一緒に従軍していましたし、隔年毎に行う大峯登山も兄と共にして、一度もかかしたことはなかったのでした。

 直に寺社奉行に届を出し、また松井家山伏帳本(山伏頭)金立院(春日神社宮司)を招きます。
 そこへ急遽寺社奉行が出向いて来ますが、杉本院の意向が、できるだけ穏便に済ませたいと知ると愁眉を開いたとか。その場で口上書を認めると寺社奉行に託します。
 しかし、その口上書は松井家番頭(侍大将)山本源五左衛門勝安によって握りつぶされてしまいます。

 この源五左衛門は、有馬の変では玉名郡から出征した寄之に従い、功名を立て、攻城軍諸藩の中では特に勇名をとどろかしていて、当時なお諸国からその武勇談を聞きに訪れる人が後を絶たなかったと伝えられています。

攻城軍が城中に攻め入った時、一足先に城壁に上がった源五左衛門は、大勢が見上げている状況にあって、五人の槍武者に囲まれますが、たちまち三人を突き伏せ、二人を走り去らしめたのです。また、バラバラになっていた鉄砲足軽をかき集めて指揮し、三の丸一番乗りを果たした寄之を側面から援護したのでした。つまるところ、有馬の変では細川勢の功績がもっとも高く評価されたのですが、その細川家中にあっては興長の功績第一とされ、その実戦部隊長は寄之であり、それを支えたのが源五左衛門でしたから加増されて五百石となり番頭に任命されていたのです。
(松井家由緒の山本源五左衛門の姓名を与えられ、それまでの生池武右衛門を改めている。細川家直臣になっている松井家の分家は別にして、彼の上には三人の家老しかいない)

● 杉本院事件・その4

 口上書の控え(寛文三年二月十六日付)が残されている(以下大要)

「新屋敷を拝領しながら今日まで御無音に過ごしましたのは、遠方山家にあってなにやかやととりまぎれている内に月日が過ぎてしまいましたが、決して拙僧の本意とするところでは有りません。しかるところ、薬師堂々守智徳院が角田様お屋敷に出向きましたおり、角田様親子が弟子の智徳院になされた有様は人の道に外れたなさりようです。当佐渡様は三斎様の末のお子様で、三代にわたってご恩をうけている拙僧といたしましては、あれこれと申し立てようとは、いささかも存じておりません。しかしながら修験の面目というものがあります。黙って引き下がったとなりますると、本山から処罰を受けることは確かですが、それよりも本山がお国へ難題を申してくることこそ拙僧がもっとも恐れているところで御座います。さすれば、形ばかりの逼塞あるいは当佐渡様のお言葉だけでも戴ければ、本山に対しましては、我が身に替えて申し開きを致す所存で御座います。弟子の端々にいたるまでお国のご恩を受けていないものは一人も御座いません。こういう時こそお国のためご奉公すべきと存じております。諸事申上度儀も不申上候間 佐渡様へ此段急度後披露被成可被下候」

 八代城主を就封した佐渡寄之は、この年の1月25日に参勤のため出立していて八代には不在でした。
(松井家は京都の八瀬村と相楽郡神童寺村に、200石弱の知行地を徳川家から知行され、八代城の世襲が許されていましたから将軍の代替わりや城主就封の都度御目見する義務があったのです。
 松井家に限って、城代家老ではなく城主とするのは、八代城の世襲もさることながら徳川家直臣としてお目見えする義務があったからでした。ちなみに参勤途次の行列は10万石の格式が許されていました)

● 杉本院事件・その5

 本山という場合は、総本山=法頭を示す場合と所属・師弟関係を思わせる場合が有りますが、口上書で云う本山は、慶長18年修験道法度で定められた当山派法頭である醍醐寺三宝院を指しています。所属すなわち子弟関係でいえば飯道寺岩本院下杉本院となります。

しかし三宝院が法頭(本山)であると云っても、多分に対外的なもので、実質的に当山派を支配していたのは12人の正大先達だったのです。その中でも飯道寺岩本院と梅本院が当山派をほぼ二分して統括していたと云われています。(当初36人、近世初頭以後12人)
 

学研の修験道の本には、当山派を組織したのは醍醐寺開祖の聖宝(真言宗醍醐流の開祖)だとされていますが、多分後世為にするため作られた話でしかありません。聖宝が法力をより確かなものにするためには、実地の山岳修行をする以外にはないと吉野金峰山にこもったこと以外に、それを証明するような文献は見当たらないと聞いたことがあります。元々当山派は熊野系の本山派に対抗するため、吉野系の山岳寺院の36人の修験者住職が「当山方大峯大先達衆」という座を作って運営維持していたのですが、慶長年間に本山派との間に袈裟争いが生じ、正大先達衆が醍醐寺座主義演の政治力を頼って幕府に訴えた結果は完勝したのですが、その政治力が逆に働いて、三宝院座主をその法頭とすることにしたように見えます。
 当山派の官位の補任状は、春夏の大峯入りの後小篠の宿坊で修行の段階に応じて、正大先達衆の一ノ宿が欽名天皇の勅印を、二の宿が役行者の霊印を押し、それに支配筋の正大先達が裏書印を押して発行していたのですが、法度以後は、三の宿が三宝院門跡の印(聖宝の印とも云われる)を加判するようになったことからも、その流れが分かるのではないでしょうか。

 寛文8年(杉本院事件が起きた5年後)に、時の醍醐寺座主で三宝院門跡の高賢は、それまでの習慣・伝統を無視して、三宝院独自で官位を発行するようになります。正大先達衆の強硬な反対に対してもまったく聞く耳をもたなかったところから、それ以後大峯登山(奥駆即修行)することなく、三宝院から金だけで官位が受けられるようになり、それが修験道そのものの権威失墜をまねく大きな原因になったとか。
 その高賢が、醍醐寺サイドからしたら当山派修験の管領寺としての地位を確立した人物として評価されているのですから、なにおか云わんやです。ついでながら、三宝院門跡が醍醐寺座主と当山派修験法頭・大峯検校東寺長官を兼ねる定まりになったのは高賢の先代義演からです。

 ● 杉本院事件・その6

 禅定院や明言院秀清(杉本院三弟、興善寺を再興し明言院と寺名を改めている。)が交代で重臣の家を訪ねますが、そのいずれ方へも口上書は届いていないとのこと、見かねた直臣の一人が、七通の口上書は全て源五左衛門のところで留めおかれていると知らせてくれます。それを聞いた2月16日の朝、留守家老あるいは三人の家老に会って、口上書を直接手渡すほかはないと登城しますが大手門で阻止されたばかりか、「やんぼうし(山法師)の来っとこじゃなか」と、門衛の足軽から拒絶され追い返されます。
 三斎公の時代は本丸書院玄関まで、籠御免であった杉本院の屈辱感はいかばかりだったでしょうか。
「すでに修験の面目失われてあり」と呟いた杉本院は、供の現立院(明言院息子)へ
「医王寺の智徳院え、明朝出立し申し付けている通り岩本院に報告するよう伝えてくれ。他の者は明日まで待つように」

と命じますと禅定院へ帰ります。
 翌17日の朝、いつになく遅い兄の寝間に行った禅定院は、嫡子一乗院清快あての遺書を残して、切腹し喉を突き伏倒れている杉本院を見て驚きます。
 ですが禅定院はその事を秘して、隣家の田中市兵衛(松井家臣、有馬の変で手柄のあった人)へ「我らは面目が立たないので当国を立ち去ることにしました。兄は一足さきに旅立ちましたが、私たち夫婦は昵懇にした貴方がたに挨拶なしには別れがたく、せめて朝飯なりと共にしたくて・・・・」

と、招いて食事した後別杯し、田中夫妻が去った後、夫婦ながらに自害して果てたのです。(当時は酒は食事の後に飲んでいたそうです)

    ● 杉本院事件・その7

 佐敷から駆けつけた妻子や田中夫妻、関係者が大勢集まって夜伽をしていた19日の夜に杉本院が蘇生して、皆を驚かせます。
 禅定院二世宥清は「蘇生記」に次のように記しています。
『その夜半ばかりに杉本院法印蘇生し水を乞、諸人大いに驚くに、師「禅定院、禅定院」と呼ぶ声あれば、現立院密かに答えて、哀れなるかな禅定院夫婦共に既に自害せりと云う。法印来て深く悲嘆し給えり』
 夫婦ながら自害と聞いた杉本院はハラハラと落涙するやにわかに忿怒の相をみせ、腹切れながら顔はアカアカと目をキラキラさせ「かくなる上は、お祟り申す他はなし」と二階に畳を敷かせて安置した不動尊にハラワタを供えて香華献灯し、水で清めた体をその前に置いて読呪を始めたとの事。

杉本院蘇生の届を受けて、城から派遣されて来た二名の医師(中嶋佑庵、松村玄賀)は、ハラワタを掴みだしている有様には、為すところなく帰るほかはなかったのでした。また現立院が砂糖湯をすすめると、「水だけでよい」とのことで、その水も喉の傷口から流れ出る始末だったとのこと。

 芦北郡誌には、腹の中に芹を詰め白布で巻いていたとあります。芹の中にはには殺菌効果の有る種類があるそうですが、肥後から大峯に17回も登山している杉本院なら、そのあたりの知識は充分有ったに違いありません。

            
            鷹辻禅定院所蔵・はらかけ不動尊


● 杉本院事件・その8

『法華経を読み呪を誦する無妙の音声、安閑静寂たるに毎夜暁に達して、其の色を変づるに至りては火焔のごとく不動明王の像に似たりとぞ、軽卒四人は成り難しと八人昼夜を守護しける扱い』(蘇生記)
『二月十七日より五月十八日まで九十一日存命にて、法華経日々に三部仁王経三部昼夜共に読経したる由其の間に問い来る山伏多く・・・・・』(杉本院記)
『九十日程の間食事も仕まつられず元気少しも平日に変わらず、創口より手を入れ、指に懸かり候ものは皆々引き出し、不動尊の像に打ち懸け候て昼夜祈り申され候』(青龍権現建立由緒)

 夜になると町の人はまったく外へ出なくなったが、妙なことに夜になると多くの山伏がどこからともなく姿を現して、禅定院の周囲を徘徊し、朝になると姿が見えなくなったとか。また三月末、智徳院が江州飯道山からの帰途、筑後の紅月院に立ち寄ったころ、山伏仲間から杉本院と禅定院夫婦の切腹生害を聞き、「自分も逃れられぬこと」と切腹したのですが、そのことを伝え聞いた杉本院は「不憫なことを」と成仏作法を行ったとも云われています。
 

● 杉本院事件・その9
 
 5月10日、角田伊左衛門親子が切腹して果てたことを知りますが、寺社奉行がその公式通知を持ってきたのは、18日の昼前のことでした。
「角田親子は切腹を命ぜられ、去る10日に果て申した」と告知されたとあるだけですが、石原医王寺が破却されている事実からして、その告知は
「角田親子に切腹仰せ付け、家禄100石を減じ、杉本院の医王寺は没収、双方の家族にお咎めなし」という上意形式のそっけないものではなかったかと思われます。

 当時の法は、秩序の維持・体制の保持が最大の眼目でしたから、体制側の方が有利であるのは論を待ちませんが、同時に喧嘩両成敗という習慣法も存在したことを思いますと、杉本院と禅定院夫妻の死と医王寺の没収、それに対するに角田親子の切腹だけと云うのは、事件を握りつぶそうとして事を大きくしてしまった山本に何らのお咎めがなかったことは、いかに何でも片手落ちが過ぎたとしか云いようがありません。

「三斎公の御厚恩山より高く生みより広い(当時の表現)ことを思えば、そのお子様である城主様にとやかく申すことではありませんが、禅定院夫婦が、師弟の義理から逗留の間心底尽くしてくれた上、殉死までしたことについては胸襟が抉られる思いです。攻めてのことに忌日を同じくしたいと願っていたのに、我にツガイとなりて障りをなすものがいて、一日遅れたことの残念さよ」
「重々ご尤もです。寺社奉行としては、とかく申すことは出来ませんが、禅定院跡目相続だけはお約束します」
「さあれば、あの世での禅定院への顔向けも成ります。くれぐれも頼み参らせまする」
 このような会話が寺社奉行と交わされたあと、妻子の手を借りて水で体を清め、八ッ目の草鞋・頭巾・結袈裟・柴打を帯び、錫杖を手に笈を背にして山伏装束を身に帯びると深く隈の出来た顔を一同に向け、
「此の様にて御座れば、最早これきり」と告げると、一乗院(杉本院長男、二代目)の手を借りて壇の前に座るとその耳に口を寄せて、
「我は龍主に成り替りたり」と一声残してこの世を去ったのでした。

    ● 杉本院事件・その10

 角田親子の切腹で町民は納得し、修験宗関係者も一応の面目は成ったと思ったようですが、杉本院にとってはそうではなかったのでした。
(松井家上士である角田親子の切腹は、町民にとってはある種の驚きだったようです)
 城主寄之は江戸在府中で、八代不在でしたから、執政陣は杉本院と禅定院夫妻が切腹するやその処置を仰がざるを得なくなって飛脚を立てますが、それが一度では済まずに5月の裁定となったに違いないのですが、書簡上のことはいえ、源五左衛門が事件に大きく関与していることが、寄之に見えなかったはずは有りません。
 長丁医王寺を娘婿の角田屋敷になるように立案具申したばかりか、

「角田親子に形ばかりの逼塞か、或いは御上(城主)から『許せ』とのお言葉でも賜れば、それで事を納めたい」と寺社奉行に託した杉本院の思慮を無視して口上書を握りつぶして事を大きくした山本源五左衛門こそ、不埒な人間であるのにその責任を一切とわなかっつた松井家だったからこそ、その双方に遺恨が残ってしまったのでした。



●        医王寺棟札の全文

 杉本院の死と同時に破却された医王寺が二年後に、現医王寺が再建されていて、そも棟札の表の最初の行に「修験法印養清坊怨心悉除所」の文字があり、その建立者が女性名義となると祟りと思われる現象が連続して生じていたと見てもよいのではないでしょうか。城主ともあろうものが1度や2度ぐらいでは怨念調伏のために破却した寺を再建するはずもないからです。(呪いと祈りはパラレルな関係にあると思っています)
 その棟札願文の末尾に、「大願主 豊臣氏女敬白」とあって、裏面願文の2行目に、「天正・文禄の頃、国家治まらず哀しいかな爾来此の堂衰微し本尊一躯秘かに草堂の裡にあり云々」と事実と異なる文言がありますが、畢竟これは、その体面を粉塗するためでしかありません。体面上から事実を隠蔽したくなる心情は現在ですら松井家武士団の流れを汲む人々の中にあるらしく、「修験法印養清坊怨心悉除所」の文字の意味するところを解説したものは未だ皆無です。

○ 医王寺棟札写真(禅定院現当主撮影・作画筆者)

                         (拡大図が御覧いただけます)

袋町の現・医王寺についての熊本県の観光案内には
『・・・・兵火によって焼失していたところを八代城主松井氏二代寄之が妻の崇芳院尼の願いにより再興。以来松井家歴代の祈願所とされていた・・・・』 とあります。
 破却していたのは松井家だったのですが、それはともかく、尼という言葉を使って、あたかも寄之の死後その菩提を願って建立されたかと思わせる書き方ですが、寄之はこの頃は痔疾に苦しんではいましたが健在だったのです。その寄之は10月吉祥日の医王寺完成からほぼ90日を経た翌年1月6日に頓死しています。

市中に取りざたされた祟りの噂としては、寛文2年2月19日の城内殿守と北の門櫓の落雷焼失があります。この時は火薬庫も爆発炎上して、多数の死傷者(29名)を出していますが、たまたま杉本院の蘇生した日と同じ19日だったことから、人々の耳目をそば立たせたのでした。
 その2年後にも天守閣と菩提寺が落雷によって焼失しますが、これもまた杉本院と結びつけられて市中の噂になったようですが、避雷針などなかった当時は、町人ばかりか武士の中にもそう思う者がいたのも無理はありません。

●青龍権現堂建立由緒

建立由緒によると、八代市荒神町般若院の権現堂建立由緒に、寛文11年病床にあった源五左衛門が「またまた山伏がめが」と脇差に手をかけながら悶死して、市中に杉本院の祟りだと騒がれ、また、何か不祥事があると「祟りだ、祟りだ」とうるさかったところから、松井家はその菩提寺である春光寺境内に観音堂を建て、密かに杉本院を祀ったりしていたとのこと。それでも不祥事が続くところから、松井家用人の川原又市が、親しくしていた般若院常行坊宥智(大阿闍梨法印)に「何か良き了簡有りまじきや」と相談したところ、「杉本院の霊の言い分を聞いてみれば如何」との事から、川原又市・勘定頭黒木半之丞・上原茂次郎が瑞仙院(寿之妹)に進言して実施した結果、「祀れば松井家の守護神とならん」という霊託を得て青龍権現に勧進することになった。
 また、その報告を聞いた城主帯刀寿之(寄之の孫)は「腹を切って事を荒立てた不埒な山伏、それを祀れなど笑止なことを」と一笑に付したので、瑞仙院は般若院の境内に小祠を建て杉本院・禅定院夫妻・智徳院堯盛を祀っていたとのこと。ところが、瑞仙院の死後、寿之の娘・千代や嫡子豊之の室・光華院(24歳)が相次いで亡くなったところから、元文2年(1737)寿之が隠居し豊之の代に至り、慈雲院(寿之室トモ、細川刑部興孝孫娘)の願いを入れ、ついに般若院境内と佐敷杉本院(三代清山の時)境内に権現堂を建立し、杉本院を青龍権現とし、禅定院夫妻を副神として勧進されることになった。と常行坊の後を継いだ実相坊は建立由緒に記しています。(般若院には智徳院も祀られている)

建立由緒は一見すると常行坊の進言がきっかけで瑞仙院が建立した印象をうけますが、決してそうではありません。

般若院が裏鬼門の位置にあること。帯刀寿之の隠居というのは、細川家の家老職を辞して八代領の治世に専念した事を意味している事。般若院棟札願文の末尾に3人の家老が名を連ねていること等を見ますと、松井家が般若院に鎮魂または調伏の方法を相談し、結果として祀ることにして、体面上かつ鎮魂・調伏の為だからと女性名義にしたという事が見えてきます。(降霊術は実際に行われていて、その子細は実相坊の建立由緒に記載されている)

冒頭に現医王寺の本堂には、松井家代々の位牌と並んで養清法印の位牌があると書きましたが、実は禅定院現当主が写真をとりに行かれた時、杉本院の位牌を取り囲むように松井家代々の位牌が置かれていたそうですが、言うなれば松井家代々が杉本院を封じるように置かれていたと云えるのです。
 

松井家が、杉本院の怨念を鎮める為に青龍権現に勧進して祀るようになって以来、いつしか清瀧権現の文字が使われて来ましたが、清瀧権現とは本来女神で、唐の長安は青龍寺に祭られていたのを空海が高野山に勧進したのが最初で、現在は醍醐寺の守護神とされています。法華経の善女竜王はその別称だそうで、杉本院とはまったく関係ありません。
 杉本院を清瀧権現としたのは、大阿闍梨常行法印がおこなった依り(魂寄せ)に、杉本院が「清瀧権現として祀るなら松井家の守護神になるであろう」と云ったからとあります。その棟札本文には
 ・・・・・霊託曰號青龍権現誓約長修護摩則鎮守城中也遂建祠於城西・・・・・・・
  霊託曰く、青龍権現と号す。長く護摩を修すれば、則ち城中の鎮守たるを制約(誓約)するなり。 ここに於いて、遂に城西に祠を建つ、とあります。

なお禅定院へ毎月3斗の米が支給されるようになったのはこの時からですから、それまでは単に屋敷の相続だけが許されていたのでした。(三斎時代は年12俵)

般若院棟札写し禅定院所蔵

           
                般若院と清瀧大権現 (八代市荒神町)案内標柱


●      泉光院江戸旅日記

 1994年5月、「泉光院江戸旅日記」という本が出ました。今から200年ほど前、島津砂土原藩27石の武士で、かつ山伏で安宮寺の住職だった長泉院が、隠居後泉光院と改め九峰修行の旅をしますが、その日記を京都在住の石川英輔氏が抄訳として出版されたものでした。
 泉光院は醍醐寺三宝院の直参山伏でしたから、その旅日記の清書本が醍醐寺にあったことから、子孫の家に残されていた日記原本の欠落部分を補って出版することができた、との主旨の前書きがあったのでした。

 文化9年(1812)10月薩摩を出発した泉光院は、肥後水俣に一泊し次に佐敷に泊まります。ついで温泉地の日奈久に五泊したのち、八代には同じ当山派山伏宅に四泊しますが、杉本院のことにはまったく触れられていません。その五ヶ月前の5月には杉本院の百五十年祭りがあって、城主の代参などもあり八代からだけでなく宇土からも多くの山伏が参加していたのです。この時杉本院6代目清山が住職でしたが、彼もまた泉光院と同じく大先達だったのです。話題にならなかったはずはないのにと、不審を感じないではおれなかったのです。いや、事件に対して無かったような態度をとり続けている醍醐寺のことを思うと意識的に除外したのではないかとさえ思われたのでした。
 泉光院は旅の途中で何度か三宝院にも顔を出していますが、醍醐寺に旅日記の清書本が提出されていた事から察して、配下の山伏の現状把握もかねていたようにも見えるのにとなおのこと疑問が重なったのでした。
 幸いな事に、後書きに、山一書房から出版された『日本庶民生活資料集』2巻には、旅日記の原題である『日本九峰修行日記』の全編が採録されているとあったのです。

●        「日本九峰修行日記」

【九日 晴天 水俣立つ、辰の上刻。ツラヌキ太郎という大峠を越し佐敷と云う宿へ着、町数多し、番所あり、天草島へ渡海のつもりなれば聞合はせる、風悪しき故に近日渡海なしと云う、因て延引す。當町幸吉と云う宅へ一泊す。当地に当山流修験一ヶ院あり、先年法式の事にて、八代城主に願書差上候処、家老の内邪心ありて依古多き人あり、其処に留め置き幾度申上ても御上に通ぜず、因て山伏立腹して本尊不動へ誓詞を掛け、願い事成就さえ致す事に候得ば、吾れ一命を捨てても苦しからずと云い、即時切腹し、腹綿皆々本尊の体へ塗付け、天をうらみて死せり。其願書を留め置きたる家老の宅同時に火災起こり、重宝の品皆々焼失す。夫より引続き災難数を知らず、七難起りて、其身も過ちを出来し、家督断絶に及べり。文化年中迄凡そ八十年計り前との事也。因て今八代領内には山伏を大切にすることの由】

 八十年ばかり前のこととありますが、城主が青龍の宮として祀ってからがそうで、事件そのものは150年前に生じていたのです。
 邪心多き家老というのが山本源五左衛門のことですが、事件当時彼は家司改(番頭)で、山本家が家老(家司)とされたのはもっと後のことです。(泉光院の時代は家老)

「江戸旅日記」にもあるように、日奈久では山伏勝善院(杉本院の供をした日奈久弁天社司勝善院の子孫)に、弁天供の法など教えたことや、八代では妙見まつりのことなど記していますが、日奈久でも八代でも杉本院のことには9日の記事以外にはまったく触れていません。
 事件以後山伏を大切にするようになったと聞いた八代の町で四泊しながら、杉本院事件の確認や詮索をしなかったなどあり得るでしょうか。
 当初に当山流修験一ヶ院あり、と泉光院は同じ当山派でありながらまるで他所事のような書き方ではないでしょうか。畢竟これが杉本院に対する醍醐寺三宝院の態度にほかなりません。
 三宝院が、もし何らかの苦情を松井家に申し立てていたら、源五左衛門も処罰されたに違いありませんし、杉本院も怨念を残すことはなかったに違いありません。なぜ配下の4人を見殺しにしたのかいまだに理解できないでいます。
 

●八代郡誌・郷土史メモより

 昭和40年、区画整理で現在の医王寺の山門が取り壊されたおり、怨念消滅の棟札が関係者の目にとまり、にわかに杉本院のことが話題になったことがあります。それがきっかけとなって、それまで門外不出として秘匿されてきた禅定院守山家の「杉本院蘇生記」や般若院の「青龍権現建立由緒」などが明らかにされ、全体像が見えるようになったのでした。当時八代史談会に在籍されていた禅定院現在御当主の叔父にあたる故守山貞夫氏(杉本院8代目秀賢長女が貞雄氏の祖母)が、読売新聞の地方版に「杉本院ものがたり」として連載(20回)されて、それまで伝説でしかなかった事件の全貌が始めて明らかになったのです。それと前後して、「八代郡誌」の「郷土史メモ」欄に、杉本院のことが松井家家臣のような形ではありますが採録されたのでした。

松井家は、権現に勧進して以来終始一貫杉本院・禅定院に対しては好意的でしたが、杉本院事件の新聞掲載や郡誌メモとしても取り上げることについては、旧松井家臣の間から苦情が出たと仄聞しています。芦北郡佐敷は、三斎公の死後細川家の直轄地とされていたのですが、その地に住む杉本院が松井家の家臣でもあるかのように書かれたのも、その声が反映してのことだと思われています。メモ欄の杉本院についての記載は以下の通りです。

・杉本院養清法印 

 八代地方では、「杉本院と云えば雷、雷といえば杉本院」といろんな話が今日まで伝承されたいます。
 杉本院は寛永九年(1632)細川忠利公が肥後国封の節、三斎公の強い請いに従って八代に来住、八代城東の鬼門畳櫓の門外、白雲山医王寺を寺領三百石、熊本神護寺同格として賜りました。
 彼は幼少のころから極めて霊力に優れ、一生の間に大峯に入峯して修行すること十七回、その名声は諸国まで知れわたっていました。彼は寛永十六年、三斎公より再び請いを請け、医王寺には弟子智徳院を看坊として佐敷平等寺(後日杉本院と改む)再興の為佐敷に住しました。
 寛文二年(1662)松井寄之公が城主になられた翌年、三斎公や興長公の意思に逆いて、突然医王寺を没収し、その跡に家老角田氏を入れ沙門を軽視しました。これによって杉本院多年の尽力は水泡に帰し、杉本院の面目は丸潰れとなりました。その上にこの角田屋敷(旧医王寺)において智徳院と角田伊左衛門父子との間に論磋が起こりました。この争いは沙門に対する重大な事件でありました。
 杉本院は沙門の尊厳を守ると共に主君への災難が及ぶことをおそれ、自己の生命をささげて事件を穏便に解決しようと死力を尽くして事に当たりましたが、事毎に番頭(家司)山本源五左衛門の奸作にあって失敗しました。杉本院は自分の誠意を踏みにじり、その上当局の沙門軽視を深く恨み憤懣やる方なく、遂に禅定院にて切腹しました。時に寛文三年(1663)二月十七日でありました。弟禅定院夫婦もまた同日切腹して殉死、智徳院も後日殉死しました。然るに杉本院は三日後蘇生し、不動尊を安置して自分の腸を掴み出しては不動尊に供え、呪文を唱えては何かを念じていました。その姿は鬼神のようで不動明王に似ていたといいます。かくてこの行は角田親子が切腹を命ぜられ、その生害が杉本院に報告されるまで九十一日間続き、五月十八日遷化しました。これは当時八代城下の大事件でありました。城下の人々は杉本院の怨念を大変恐れました。
 その後松井家には何かと不幸が続きました。人々は杉本院の祟りであると噂しました。松井家では杉本院の怨念消滅を祈願され袋小路に医王寺を再建になり、杉本印の霊をお慰めになりました。
 然るに寛文十一年(1671)山本源五左衛門が「またまた山伏が」と刀に手をかけたまま悶死しました。翌十二年には八代城に落雷ががあって、天守閣をはじめ櫓、火薬庫及び武器庫も焼失し死傷者も沢山出ました。それが杉本院の蘇生から十年目の二月十九日に当たっていましたので、城下は恐怖のどん底におちいり、杉本院の祟りと深く信じて噂しました。その後も松井家の菩提寺である泰巌寺への落雷や天守閣への落雷など雷難が続きましたので、杉本院の祟りの噂は益々盛んになりました。
 松井家においても寿之公の持病痛や御不幸が多発、よって正徳四年(1714)に杉本院と禅定院夫婦を三霊神として般若院内に小社を建立して祀られ、その霊をお慰めになりましたが、その後年月の経過とともに権現堂が大破し、その修理もされずにおられたところ又々松井家に不幸が続きました。
 そこで般若院常行坊に頼んで寄りを修行されて杉本院の怨念をただされました処、
「不信人であればいつまでも不幸があって七世迄も取り潰すであろう。西の方に雷鳴があったら何かおこる事があると心得て夢にも信心を怠らないように・・・・・」 とありました。
 松井家では元文二年(1737)般若院内に権現堂を御再建され、その上法華経千部を誦読させ、佐敷の杉本院も御改造になって、元文三年の元日に遷宮なされ、清瀧大権現とお祀りになりました。その後文化六年(1809)には禅定院夫婦と智徳院を三霊枝として般若院内に清瀧宮同殿として神として御勧進になりました。以後毎正、五、九月には清瀧宮に十八日不動護摩、三霊枝には十七日不動花水を供えて修行になり、明治初期の改革まで松井家においてご供養になりました。
 昭和三十八年(1963)八月十四日には八代地方に集中豪雨があって、古麓蜜柑山に山津波が起こって山本の一家七人、一人残らず鰾谷に押し流され山本家は断絶しました。これは杉本院の遷化より三百年にあたりますので杉本院の祟りであろうと噂されました。尚、淵原町善正寺には「火難守護仕」という杉本院の血書が寺宝として残っています。これは杉本院が切腹蘇生したとき、善正寺二世慶讃和尚が聞きつけお見舞いに来られた時、杉本院は大変喜んで、記念の形見として自分のハラワタを以って書いて渡されたものであります。
(追記)
 佐敷杉本院は御造営より二百五十年の歳月を経過。荒廃甚だしかった処、昭和六十一年一月六日火災の為全焼しました。しかし御神体にはまったく異常はありませんでした。同年十二月七日以前にもまして立派な社殿が建立され、遷宮式が挙行されました。

               
  杉本院血書「火難守護仕 善正精舎・杉本院」(昭和20年代に撮影し、フイルター処理をしたもの。禅定院現当主によれば、現在はほとんど見えなくなっていて、太陽光にすかして字形がやっと判る程度とのこと。)
 
   ● 杉本院雑記・その1
 寛文3年2月16日朝、杉本院登城の件については、別の記述をした古文書があります「・・・・・・明委細都合七通迄上達に相成り申し候得共一切取り揚げ無く 剩へ(あまつさえ)十七日の上達杯は山本源五左衛門へ 御城らんかん橋上登渉に付 直に相渡し申し候処被見も致さず堀の中へ投げ込み申したる由・・・・・・」杉本院はそれを見て心良からず思ったが、ここで事を荒立ててはと、踵を返したとあります。
 十七日朝とありますが、現立院が杉本院と禅定院夫婦が切腹自害しているのを発見して驚愕したのが、十七日の正午過ぎ。そのことは禅定院隣家の田中市兵衛によって確認されていますから、登城するのはその前日の十六日でなくてはなりません。
それはともかく、山本と大手門前の欄干橋で会ったとする文書は、杉本院竹内家の文書だけのようですが、この話はどうした訳か、戦後発表された杉本院関係の話には、尾ひれがついた形で書かれています。杉本院事件の主因を山本のせいにして、松井家への焦点をボカスのには都合のよい脚色かも知れませんが、それにしても何故杉本院家の文書にあるのか、わからないでいます。

 ● 杉本院雑記・その2
 禅定院二世の「蘇生記」と杉本院竹内家文書に共通して書かれているのに触れなかったことがあります。杉本院が寛文3年2月3日に佐敷を出発し、日奈久(現日奈久町・温泉地)の手前の州口から海路を八代入りしたのでしたが、それには理由があったのでした。
 日奈久弁天社の勝善院(杉本院弟子)が、
「町には山本源五衛門の命を受けた侍(足軽)が五六人、師匠の八代入りを阻止すべく、この正月から待ち受けています」と告げたからでした。
 杉本院は、松井家に対しては口上書に窺えるように、城主がいきさつを知ったら必ず善処されるに違いないと思っていたようです。それが結果としては、権力を握っている山本の驕りと、それにへつらう武士団の仕打ちに対して、かくなる上は死んで生きるしか道はないと、切腹したのでした。
 思いがけず蘇生してみると、喪禅定院夫妻が切腹自害し、つまりは智徳院までも切腹したというのに、事件の首魁である山本には何のお咎めもないばかりか、新医王寺までも没収破却した松井家の処置、すなわち善処されるに違いないとの期待が裏切られたことで、松井家に対しての怨念が、改めて勃然と生じてきたのでした。
 杉本院は修験宗ですが、なぜか法華経を好んだと伝えられています。
蘇生後91日の間、法華経と仁王経を日々三部読誦したというのもそうですが、清瀧権現堂建立由来には
「・・・光華院(寄之曾孫豊之室)様御早世遊ばされ候につき遠山西堂(松井城主の叔父?)も殊の外お気の毒に存知奉られ、杉本院を権現と勧進なされる迄にては何れ怨念絶え申すまじく 仏果を得られ候はば自ずら邪心失せ申すべく候 杉本院平生法華経読誦の由承りおよび候らえばとて天台宗の僧を招き密々に因紅庵に一両年も留め置き、法華経千部の読誦を仕られ願文もおさめられ・・・・・」 とあります。
 法頭の醍醐寺が知らぬふりし続けたことを不満に思っていた佐敷杉本院竹内家は、修験道廃止令と神仏分離令がでると神道に鞍替えし、大正年間に佐敷を出た以後は法華経を依経とする日蓮宗に宗旨替えしたとのこと。(現在は真言宗とか)

  ● 杉本院雑記・その3
 大阿闍梨般若院常行法印が、松井家に依頼を受けて行った寄り(憑り祈祷)の詳細が、権現堂建立由緒に書写されています。霊を呼び出す常行坊と霊を乗り移らせ憑座(ノリクラ=霊媒)と、その霊に問答する信念坊(常行坊の師匠で小川町守山神社の社司)の三名が、松井家の用人である上原茂次郎(120石)川原助兵衛(100石)の立会いのもとで、祐筆の高橋善助を書き役として、守山神社で祈祷を続け七日目に、杉本院の霊が憑座に現れ出たとあります。

 両手に持った御幣を打ち振り打ち振り、体をそらせるや「杉本院」と名乗り
『其の方共は何故に我らを呼び候や 我等は今大峯の傍らに夭部と成り居り申す処に(居るのに不躾に呼んだりして)近頃慮外千万の由 大音にてお咎め御座候に付 信念坊平伏仕り候て・・・・・』

 以降にその次第が記されていたのですが、この記事を見たとき何と品の悪いこと、それに夭部にいるなど、いかにも怪しげではないかと思ってしまったものでした。建立由緒を見た翌年、修験関係の方から、御幣を振りながら体を反らせるのが山伏の依り祈祷の特徴であると聞き、またここで云う「夭部」とは若々しい花木の茂れる場所のことだと教えられ、認識を新たにして、問答次第を読み直しました。すると次のような文章がクローズアップされて来たのでした。

『・・・帯刀(城主帯刀寿之=寄之の孫)は大の無信心者にて候 随分信心を凝らすにおいては子孫繁栄すへし 行く末良かるへし 左無くにおいては いよいよ祟り申すへく にくき事海山程うらみ有り 根を絶やす思いすれと 今日の行者に対し差し許し候 今日よりは彼の人 何の障りもなく今宵より気分よかるへし (我は)思いの外けっこう清浄な所へかえり帰って子孫の長久を守らん 我身においては何の望みもこれなく・・・・・』

 この頃帯刀は、頭痛か気鬱かで苦しんでいたらしいことがわかります。同時に杉本院が、恨み腹切ったにもかかわらず思いがけない結構な処に住んでいるが、そこへ帰って子孫の長久を守ることにするが、それ以外に自分には何の望みもないと云っていたのでした。また別の箇所には、災いをもたらしたのは眷属の仕業であろう。以後障りをしないように申し渡しておくとも云っていたのです。それが松井家にはなぜか
「・・・松井のお家の守神のお成り下され候様にと精魂を尽くし祈り申され候処 清瀧権現と崇め候様にとのこと
 にて・・・・・」 と報告されていたのです。

              
                   芦北町(旧佐敷)清瀧神社(1993年)

 ● 杉本院雑記・その4
 有馬の変(天草・島原の乱)が収束したのは、寛永15年(1638)2月28日です。
細川家の記録によれば、その前日27日の七つ(午後四時)には、二の丸・三の丸を占領していて、一旦引き揚げの命令が出た酉ノ刻(午後六時)には本丸にも火の手が上がっていて、すでに落城寸前でした。
 暗さによる同士討ちなどの無駄な犠牲を避けるために本陣への引揚命だ出されたのでしたが、「このような時は得てして夜襲を受けるものである。警戒を厳重にせよ」との厳命で、本陣の前面に二重の柵を設置し、不寝番の警戒隊を置き、厳重にしたため夜襲はなかったと記録されその隊長の名も記されています。

 杉本院T家の文書(杉本院記)には、それに反する事が書かれています。
「・・・・・忠利公お側近く相詰め居り候処 二月二十七日夕 賊多人数本陣近く駆け来たり候に付 お側の御人数も立ち向われ 本寿院儀も御長刀(薙刀)を以て賊大勢に馳せ向かい十七人迄薙ぎ伏せ或は手負せるに付皆逃げ去り申し候由 其の後 御本陣に於いて忠利公は『三十歳余りの士分は知る段 修験の身分にして殊更に未だ二十一歳にしての働き希成り』 と仰せ出され・・・・・・」

 杉本院記を書いた仲光斤楓は、隈部親元の弟親房を家祖として、細川家に500石で仕えた仲光家の分家の一つで、肥後藩の右筆だった人です。斤楓の娘が八世杉本院にとついでおり、その舅である前杉本院の葬儀に出席したおり、婿杉本院の依頼で書いたと後書きしています。
『此の一冊愚生若き時の(婿の)家柄しら編にて記録所に相勤め候砌り 密かに写し置き侍りしを(文書がないと)お明(ナゲキ)につき いよいよ以て記して仕るかなと(お頼みを)お断り申さず候
  写敷とも跡みしくきの誤りを老いのしわざと許し給へよ  七十三夏 斤楓老生 』

 ● 芦北郡誌の杉本院
 
   【杉本院雷となる】 葦北郡誌(熊本県)132頁
 杉本院は京都三宝院の派下、江州飯道寺下岩下院の末寺である。開組は不明であるけれども、一説には高倉天皇の承安二年八月十八日、小松内府平重盛が再興したので、其の頃は現今の新町から谷付近には、沢山の堂塔雑舎があって、西の高野と云われていたが、天象十六年小西行長のために焼かれてしまった。
 寛永十年細川氏入国と共に、細川氏に重く尊敬せられていた山伏が来てこの寺を再興した。
 この山伏の名が所謂杉本院である。杉本院は元京都に居たが、細川氏に見出されて、細川氏と共に丹後宮津に行き、細川氏が小倉城主となるとしたがって小倉に来、又肥後に転封せられた時もついて来たので、杉本院がいかに細川氏に信用あったかもわかる。従って非常な威勢の強かった者で、葦北全部を勧進して歩くことを、細川氏から許されていたので、勧進に行った時も門口に立って大声で「杉本院」といふと、どの家でも平身低頭して品物を献上したといふ。
 さて八代鷹匠小路に善城院という杉本院の出張所の説教所を造ったが、丁度その隣が松井氏の家来の家であって、或る時屋敷の境もめして松井氏に訴え出でて、裁判をしてもらった。この裁判がずいぶん長くかかったので、杉本院は八代へ行っていたことが多かったのだろう。或る日杉本院が一斗二升入りのほら貝をからって八代の町を通っていたら、町の者が「あの僧さんはあんな小さい身体で、あんな大きなのが吹けるのだろうか。」すると一人が曰く「ひとみせたい」と、之が杉本院に聞こえたので、前の裁判のこともあるので、余程尺にさわったと見へて、その大ほら貝を町の真中で精いっぱい吹いたので、大変、棚の茶碗が落ちて破れる植木鉢が倒れる、屋根の瓦が落ちたといふから、余程なったことだろう。長い月日の後松井氏は不公平にも、自分の家来の勝ちと判決を下したので、杉本院は憤慨に堪えずして、直ちに切腹して腸をつかみ出し、芹を腹に詰め二反の白木綿で腹をまいて、一週間生きていた。一週間の後松井氏の屋敷の方を向き、目を怒らし「七代たたってやるから覚えて居れ、西に一つ雷が鳴ったらおれと思へ」と云って死骸は天に舞い上がった。
 その後まもなく八代城の天守閣は落雷して焼け、建築すれば又落雷し、或いは落雷して家を焼き、人を殺すことが多い。そこで杉本院の霊を慰めるためか、松井氏は谷に精霊権現という堂を建てた。之が残っている堂である。こんな事があってから以来八代の人々は、雷を恐ろしがるようになったといふ。
 杉本院の子孫は今竹内氏である。維新までは毎年四月一日から一週間男をつけて、別じょたいで高太郎(杉本山)の頂上で、五穀豊作を祈るため、例のほら貝を夜となく昼となく、ぶうーぶうーぶうー吹いていたという。その報酬として毎年一戸から麦二升宛献上。

 前記の補足説明
 葦北郡誌の「杉本院雷となる」は、内容にかなりの錯誤があります。その最も大きなものが、禅定院を善城院としていることはともかくも、杉本院の出張所にしていることです。これは事件当時、杉本院は医王寺の住職でもあったのですが、その医王寺を没収破却され、また禅定院で切腹していたこともあって、月日を経るにつれ、いつしかそのことが忘れられてしまったせいかもしれません。
 ほら貝を背負って市中を回ったというのは、佐敷に住いを移す以前の医王寺専従時代の勧行時のことでしょうが、ちなみにそのほら貝は三斎公から拝領したものでした。
 葦北郡誌に、医王寺のことが書かれていなかった今ひとつの理由としては、今は竹内氏とある杉本院竹内氏が、佐敷では生活が出来ないと熊本市に転出(大正六年)していて、不在だったことが挙げられるようです。
 云うなれば大正12年に編集された葦北郡誌は、それまでの伝説をまとめた物だったのです。
 葦北郡誌には、別の箇所にも杉本院のことが掲載されていますが、それは次回に掲載することにして、二世禅定院についてここで少し触れてみます。

 禅定院宥静院夫婦が、杉本院の後を追って自害したとき、その遺児である後の二世禅定院宥清はそのとき5歳だったのです。杉本院が智徳院の起こした騒動の始末をつけに佐敷から出て来た以後、家のことにかまけなくなって、実弟の明言院夫妻に預けられたのでしたが、両親が自害したため、そのまま明言院(日隈姓)で養育され、15歳のとき鷹辻天満宮に帰り、禅定院を継いだと禅定院守山家の古文書には記されています。
 ですが、杉本院の口伝によれば、二世禅定院は杉本院で養育され、初の大峯登山をすませ院号を名乗る資格を得ると同時に、明言院に託されて、寺社奉行の了解を得て鷹辻に入り禅定院を継いだとのこと。また二世禅定院本人かその妻が杉本院の孫の一人であったとも伝えられています。
 その件につき故守山貞夫氏にお訊ねしたところ、

「家譜には明言院で養育されたとあります。祖母モツが七代目杉本院の長女であったことは確かですが、それ以外の杉本院との嫁や婿のやり取りは記されていません」

とのご返事だったのです。禅定院に入った二世禅定院宥清は、三年後の18歳のとき、田中夫妻や明言院・現立院など事件当時の関係者からの証言を元に「杉本院蘇生記」を書き表し門外不出としたのでした。
 その蘇生記は、昭和20年代になって杉本院300年祭を前にして、初めてその存在が明らかにされたのでしたが、拝見したおり杉本院に対する思慕や賛嘆の念の方が、両親に対するそれに勝るように思えて、一種の違和感のようなものが残ったのでしたが、杉本院十三代目当主(富田林・光陽台在住 竹内徹郎氏 44歳)から、その事をきいて、そうだったのかと得心がいったのでした。「杉本院記」の真偽について当主は、「疑問点は承知しています。ですがその裏が取れないからと、子孫が否定するのも如何なものでしょうか。そのまま語り継いで行くしかないと思っています。ルーツについてもそうですが、将来その異説が真実だったとされる日がないとも限らないと思っています」との答えでした。

 ●平等寺谷町山杉本院

 葦北郡誌134頁
【平等寺谷町山杉本院真言山伏杉本院在居之杉本院は京都三宝院派江州飯道寺下岩下院の末寺也、開祖不分明云々。或説、高倉帝承安二年八月十八日小松内府重盛公再興の傳來の小記あり、左に記す、寛永十八年本壽院再興之本尊十一面観音也山に七峯ありと云。
『南膽部州芙桑中肥州之後葦北郡佐敷保有秘密伽之一闍則號谷町山平等寺杉本院西南北者高山巍々有七峯故安置山王七社前東者流水湛々海浪出入誠美景不可勝計者欣然以不動明王爲伽藍以十一面観音彌陀尊像爲本堂並弘法大師御影堂仁王門鐘樓等有之于時従一位小松内大臣平朝臣重盛右之伽藍等再興之志不浅肆命金若遁一道榮則應命承安元年辛卯(1171)林鐘(6月)十三の地下着同の壬(1172)南呂(8月)十八日出來畢末代爲證據書之者也』 (肥後国誌)今は廃寺となって、十一面観音 彌陀尊像並仁王は實照寺(日蓮宗)に安置されてある。】

杉本院が蘇生後90日間生存の間に、本山からのフォローかバックアップがあれば杉本院は怨念を残さないで黄泉の国へ行けたのではないだろうか、と思っていることを申し添えて結びとします。(完)