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津々堂・電子図書館 都甲太兵衛

著・森鴎外

 (一) 都甲太兵衛は細川家の臣で、越中守忠利、肥後守光尚の二代に仕へた。小父は都甲三河入道と云って、豊後の大友家に仕へてゐたが、大友豊後守義統(よしむね)が滅亡したとき、其一族は浪人になった。三河入道の甥太兵衛は、細川忠利がまだ豊前を領してゐた頃召し出されて徒小姓になった。

 細川忠利が封を肥後に移された時、太兵衛は忠利の供をして熊本に往つた。島原一揆の時、太兵衛は忠利の陣にゐて原城に攻め入る當つて、「本丸一番乗」の功を顕し、知行三百石を賜り鐡砲十挺を預けられた。

 細川光尚の代に太兵衛は鉄砲三十挺頭にに進められた。次で老衰のために「鉄砲差上申度旨御断申上」げて、大組附と云ふものになり、延宝二年正月に隠居した。二代目太兵衛は同年同月に「家督無相違」下し置かれた。以上は都甲家の先祖附と云ふものに記してある事実である。

 太兵衛の生涯に二三の面白い出来事があって、種々の記録に載せられてゐる。かう云ふ逸話の常として記録毎に多少の異同があるが、わたくしは自分だけの判断を以て取捨し、他日の遺亡に備へむがために大要を書き留めて置かうと思ふ。

 其一つは太兵衛が宮本武蔵に見出されたと云ふ話である。此話は既に熊本の宮本武蔵遺蹟顕彰会の編輯に係る宮本武蔵と題した書にも載せてあって、多少世の人の耳目にも触れてゐる筈である。只彼書には太兵衛と云はずに金平と云ってある。都甲氏の先祖附を閲するに、金平と云ふ名は九代目の都甲金平一人の外には無い。此九代金平は維新の際に生存してゐた人である。しかし初代の太兵衛も或は一たび金平と称したことがあるかも知れない。

 彼本には又此出来事のあった時をもおぼろげに記してあるに過ぎぬ。「武蔵一日忠利公の側に侍し」と書き出してあって、武蔵が屡(しばしば)忠利に謁した、そのいつか一度こんな事があったと云ふやうに書いてあるに過ぎない。

 雑録と題した一の記録には、武蔵が始て忠利に謁した時の事として、同じ出来事が記されてゐる。わたくしは此方のプロバビリテエ(probability)が大きいやうに感ずる。

 しかし武蔵が始て忠利に謁した年月日は詳(つまびらか)でない。武蔵が豊前国小倉に往つたのは慶長十七年四月で、細川家はまだ忠興の代であった。武蔵は忠興の抱へてゐた剣客佐々木小次郎と技を較べようと思って、小倉には往つたのである。そして二人の間には、武蔵の父新免無二斎の門人で、現に忠興の家老を勤めてゐた長岡佐渡興長が立っていた。武蔵と小次郎の為合は、世に謂う巌流島の為合である。

 此為合の後には、武蔵は直(ただち)に下の関に引き上げたさうである。次て下の関から武蔵が再び小倉に往つたことはあると云ふが、忠利に謁したことは聞えない。

 後に武蔵が忠興の嗣子忠利に抱へられたのは、寛永十七年八月である。巌流島の為合のあつた慶長十七年から此時までには、二十八年立つている。其中間には大阪冬夏の陣がある。島原の陣がある。又細川家に於ては代替がある。国替がある。

 (二) わたくしは時間の街道に一里塚の如くに布置せられてゐる此歴史上既知の事件を数えて、武蔵と都甲太兵衛との会見の時を、做し得る限精しく極める目標(めじるし)にしようとした。

 それには武蔵の経歴から転じて太兵衛の事蹟に向ふことを要する。太兵衛は豊前で細川忠利に抱へられたと云ふから、その抱へられたのは忠興の三斎が致仕した元和七年の後、即ち細川家代替の後で、忠利が肥後に移された寛永九年の前、即ち細川家国替の前でなくてはならない。又太兵衛が武蔵に見出されるのは、太兵衛と云ふ錐が脱頴(だつえい)して出でた前でなくてはならぬから、其時は天主教徒の據つた原城の陥落した寛永十五年二月二十七日より遅れることは出来ない。そうして見ると、太兵衛に見出され得べき時は、元和七年から寛永九年までの十九年の間に限られる。

 わたくしは再び武蔵の新上に立ち戻って考えて見る。前には単に武蔵が忠利の扶持を受けた時のみを目中に置いたが、今は進んで此人が始て忠利に謁した時を考へなくてはならない。そして此二つのものは必ずしも一致する者とは看做されない。否、二つのものは同一では無いと云ひたい。なぜと云ふに、島原役後の此召抱を以て初謁見の期とするときは、太兵衛を見出すことは無用の事となつてしまふからである。事情の上から推測するに、必ずや忠利は召抱に先だつて武蔵を引見する機会を有したことであろう。そこで忠利は元和七年の襲封後、寛永十七年の任用前に武蔵を見たとする。そのこれを見た時に、太兵衛は武蔵の鑑識を被つたとする。

 しかし元和七年から寛永十七年までの二十年間は余りに久しきに過ぎる。よしや鑑識を被るべき太兵衛の身上を参取して、原城陥落の寛永十五年以後の三年を控除するにしても、それでは単に太兵衛のみに就いて考へた所に較べて寸分の進捗をも見ぬのである。

 わたくしはせめて最少しポツシビリテエ(possibility) の年限を迫り詰めて見たい。そこでかう思慮する。武蔵は大阪役に豊臣方に附属して働いた後、諸国を遍歴したさうである。しかし此より後は、寛永十一年に養子伊織と共に豊前国小倉に来て、細川氏に継いで此国を領する小笠原右京大夫忠眞(ただざね)の許に客寓するに至るまで、武蔵の九州の地を踐んだことを聞かない。武蔵が熊本に入って忠利を見たのは此の客寓中の事ではあるまいか。若し然らば原城陥落の十五年前までの間は僅に五年で、此間にいつか忠利が武蔵を引見し、武蔵は其時太兵衛を認識したことになるであろう。わたくしはそうだと考えたい。これが小説なら、わたくしは只さうだと書いて、上の如く辞(ことば)を費さぬだろう。

 わたくしは此に、曾て所謂(いわゆる)歴史小説書くに當つて慣用した思量のメカニズムを暴露した。歴史家はこれを見てわたくしの放肆を責めるだろう。小説家はこれを見てわたくしの拘執を笑ふだろう。西洋の諺に二つの床の間に寝ると云ふことがある。わたくしは折々自ら顧みて、此諺の我上に適切なるを感ずる。

 宮本武蔵と都甲太兵衛との会見は、諸記録に異同があるが、わたくしは前記の如き立場から見て、勝手に取捨を加へ、大抵かうであつただろうと思ふ。

 武蔵は伊織を連れて豊前国小倉の城下に来た。此伊織は武蔵が出羽国正法寺が原の一つ家で相識になつた孤(みなしご)だと云ふ。わたくしは正法寺と云ふ知名を求めたが、見えなかつた。後に聞けば羽後国仙北郡強首野(こわくびの)の續に此地名があるさうである。伊織の故郷は或はそこではあるまいか。小倉に来てから、武蔵は小笠原忠眞の客となつてゐたが、伊織は家臣に召し抱へられて重用せられた。其後胤は今も伊織と称してゐる。わたくしは小倉にゐた頃、其家に傳へていた武蔵の遺物を見せて貰った。其中でわたくしの記憶に止まつてゐるのは、光沢鑑すべき一振の木剣である。それから款識のない達磨の畫である。わたくしは今の伊織さんを訪はうと思って、人に尋ねた。其人の云ふには、伊織さんは大里付近の田舎に農業をしてゐると云ふことであつた。わたくしは官事に阻げられて志を果さなかつた。しかしわたくしは此に昔の伊織の事を説かうとするのではない。

 武蔵は仕宦をば欲せなかつた。しかも九州の内で終焉の地を物色したらしい。細川忠利は柳生流の剣道を学んでゐる。そこで武蔵を一見したく思ったと見える。此双方の意志から武蔵が忠利に謁することとなつたのであらう。

 其時は武蔵が小倉に来てから暫く立った後だろうと思ふ。又島原の一揆の起る少し前だらうと思ふ。彼は寛永十一年で、此は同十四年である。わたくしは寛永十二年か十三年の内で、忠利の在国してゐた間の事だとしたい。

 謁見の場所は熊本花畑の御殿であつただらう。御殿に詰めてゐた家来のために、天下無双新免武蔵のお目見えは、一のサンサショナル(sensational)な出来事として待ち受けられたであらう。

 其中に都甲太兵衛がゐた。細川家に仕へてから長くて十六年、短くて四年になつてゐる。長いとは忠利襲封直後に仕へたとしての計算、短いとは移封直前に仕へたとしての計算である。格式は歩小姓で、取り立てゝ何と云ふ才能もない男であつた。太兵衛は人々の騒ぐのを見て、獨り眉をしかめてさゝやいた。「武蔵とは何者だ。どこの馬の骨かわからぬ素浪人ではないか。それがお召しになり、御目見えするのが過分だと云ふだけの事だ。何も事々しく待ち受けるには及ばぬ」と云つた。武蔵が到着して御殿に通る時、太兵衛は式臺に着座して目迎目送した。

 謁見が法の如く畢(おわ)つて、主客は席を改めて閑談した。忠利は話の序(ついで)にむさしに問うた。當家の侍の中で、武道の上で御身の見聞に触れたものは無いかと問うた。武蔵が「只今一人見受けました」と答へた。それは誰かと云へば、名は知らぬと云ふ。忠利は軍法、刀槍鉄砲に名ある士で館に詰めてゐた数人を召して列座せしめた。武蔵は見渡して「拙者の申したものは此中には見えませぬ」と云つた。「然らば往って捜して来てはくれまいか」武蔵は応諾して起つたが、間もなく諸士の控所にゐた太兵衛を拉してきた。

 (四) 宮本武蔵が都甲太兵衛を連れて細川忠利の前に出たとき、忠利は武蔵に問うた。「これは都甲太兵衛と申す者じゃが、此男のどう云ふ所が御身の目には留まつたか」「それは本人に不断の覚悟をお尋なされたらわかりませう」と、武蔵は云つた。「さようか。都甲、何ぞ覚悟の筋があるなら申せ」 忠利がかう云ふと、一座の人々目は今更のように太兵衛の面上に注がれた。「別にこれと申す覚悟もござりませぬ」武蔵は詞を挿(さしはさ)んだ。「都甲殿、拙者は貴殿の武道に見込みがあつて申し上げた。只平生の心掛けを腹蔵なく申し上げられたら宜しうござらう」太兵衛は暫く案じてから口を開いた。何事を答へようかと考へたのではない。答ふべき事をどう詞にあらはそうかと考へたのである。「武道と申しましても、何一つ為出来(しでか)したこともござりませぬ。平生の心掛と仰せられた所から存じ寄りました事を申しあげませう。わたくしは据物の心得と申すことに、ふと心附きまして、其工夫をいたしました。人は据物で何時でも討たれるものじゃと思うて居るのでござります。平気で討たれる心持になるのでござります。最初は動(やゝ)もすれば据物じゃと云ふことを忘れてなりませなんだ。それから据ものじゃと云ふことは不断に心得てをりまして、それが恐ろしゅうてなりませなんだ。段々と工夫をいたしまする内に、据物じゃと存じてゐて、それがなんともなうなりました。まことにたわいもない事を申し上げまして」と云ひさして平伏した。 忠利はまだ何とも云はぬうちに、武蔵が忠利に云つた。「お聴になりましたか。あれが武道でござります」太兵衛は思い掛けぬ面目を施して退出した。

 わたくしは此事があつてから一年か二年の後、寛永十四年の島原の一揆は起つたものとしたい。一揆の始りは此年の十月で、益田四郎時貞が一揆に推戴せられて原城に據つたのは十二月朔日、原城の陥落したのは翌十五年二月二十七日である。

 武蔵は小笠原忠眞の客将として小倉から従軍し、太兵衛は細川勢に加はつて熊本から発足した。太兵衛が軍功を立てて三百五十石の知行取になつたのは此役である。

 越えて寛永十七年二月に、武蔵は肥後国熊本を終焉の地と定め、忠利は客分として取扱ひ、備頭列にした。翌十八年三月十七日に忠利は卒した。忠利に遅るゝこと四年正保二年五月十九日武蔵は没した。以上が太兵衛が武蔵に見出されたと云ふ話である。

 今ひとつは太兵衛の石盗人と云ふ話で、これも記録にはいつの出来事とも云つてない。大要は江戸城が修築せられた時、諸大名は石を献ずることを命ぜられた。諸国の石は既に江戸に着したのに、肥後からはまだ石船が着かなかつた。都甲他兵衛はこれに処する道奈何(いかん)を問はれて、即座に其石を調達することを誓ひ、直に非常手段を以て石を手に入れたと云ふのである。わたくしは其年月を推定して見たい。

 (五) 幕府が江戸城を修築したとき、細川家の献ずる石材が延着し、都甲太兵衛がこれを彌縫せむがために、非常手段を以て調達したと云ふ。これは果していつの事であらうか。

 諸国の大名が献石の命を幕府から受けて、石を江戸に運送する最中に、江戸にあつてゐながらに石を獲ようとするのは、殆ど不可能の事である。細川家は家臣にこの難事を命ずるに、必ずや材能衆に踰えた人物を選んだことであらう。果して然らば、此簡抜を蒙つたものは未だ顕れざる歩小姓の太兵衛でなくて、軍功に依つて三百石を賜はつた太兵衛だらう。わたくしは修築の事が原城の陥落した寛永十五年依り後でなくてはならぬと思ふ。

 江戸城の沿革を記した細密なる材料は、わたくしの手元には無い。姑(しばら)く徳川実記に據るに、寛永十六年二月十五日に江戸城諸門を修理することが命ぜられた。然るにこの月十一日に江戸城に火事があつて、十六日に更に大修築の命が下つた。そこで寛永十六年八月十六日から翌十七年四月五日に至るまでの八箇月程の間に、工事は為し遂げられた。これよりして後、都甲太兵衛の没する承應二年に至るまで、江戸城を修築したことは記されてゐない。

 わたくしは太兵衛が石を調達したのは、寛永十六年の修築の時であつたかと推測する。只憾むらくはわたくしの手元に石を献ずる命を受けた諸侯が誰々だと云ふことを知るべき材料が無い。仄に聞けば細川家には家乘を編纂してゐるさうである。此推測の當否は、此方面からして決することも容易であらう。

 太兵衛が石を調達した手段は極めて簡便であつた。雑録に「人夫を引連れ、他の諸侯の運び来たる石の標を取除け、肥後の標を打、数日の間に納め済みたり」と云つてある。

 太兵衛は石盗人の疑が掛つて、幕府の手で召し捕られた。問えば知らぬと云ふ。そこで拷問せられた。初は石を抱せられた。つぎに篠揉(しのもみ)と云ふことをせられた。

 宮本武蔵と云ふ書にかう書いてある。「篠揉とは管竹の小口を薄くくりぬき、これを膝におしあてて揉む時は、小口の竹へ肉入る、その肉の入りたる竹を引きぬく時、膝に小孔を生ず、この孔に沸騰せる醤油を注入して責るものなり」と云ふのである。

 太兵衛は獄丁の篠揉を手ぬるしとして、竹を我手に渡させ、自ら揉んで、自ら醤油を注いだ。孔よりは肉出て山桃の実の如くになつた。都甲の家では今に到るまで山桃を食はぬさうである。

 太兵衛は所詮責苦以て屈すべき男では無かつた。幕府の役人は止むことを得ず、拷問に代ふるに詭計を以てしようとした。

 (六) 或日太兵衛は白州に引き据ゑられた。役人は突然声高く「石盗人都甲太兵衛、最早お構いない、起て」と宣言した。太兵衛は聞かざるものの如くであつた。暫くしてから役人は改めて宣言した。「都甲太兵衛、石盗人の御疑がはれた、起て」と云つたのである。其時太兵衛は徐に身を起して、白州を下つた。縄取は遽(あわ)てて附いて下がつた。最初の手段が功を奏せぬときは放免することに、兼て決定してあつたのである。

 刊本宮本武蔵に載せてあるのは、太兵衛が宮本武蔵に見出されたと云ふことと、此石盗人の獄との二箇條のみである。

 今一つの太兵衛が逸事は密謀秘計に属してゐて、あらはには記されてゐない。しかし太兵衛の身に取つては、これをそとにニしては原城の戦功、これを内にして此の継嗣問題に関するはたらきが、二大事件であつたであらう。

 細川忠利は宮本武蔵を賓として迎へた翌年、寛永十八年三月十七日に卒した。同年五月五日に子光尚が家督した。正保二年五月十九日に、宮本武蔵が没した。同年十二月二日に先先代の隠居三斎が卒した。慶安三年正月二十七日に光尚が卒した。

 光尚の世を去つた時、嫡子六丸は幼少であつた。六丸の家督が無事に済むか否かは五十四萬石の細川家に取つて、死活問題であつた。此大事を引受けて江戸へ差し立てられたのは長岡式部で、それに二人の侍が附き添ふことになつた。一人は梅原九兵衛、今一人は都甲太兵衛である。

 梅原九兵衛は酒井雅楽頭忠清の入魂のものであつた。式部は九兵衛を酒井の屋敷に遺るに就いて、「自然此願叶ふまじきに於ては、席を不去(さらず)して其方覚悟仕べし」と云つた。又「萬端無腹蔵(ふくぞうなく)太兵衛と示合せ御為宜しく相勤むべし」と云ふことであつた。太兵衛の任務も亦頗る重かつたのである。

 長岡式部の一行は志望を貫徹した。慶安三年四月十八日に六丸は無事に五十四萬石の領主にせられた。後の越中守綱利である。

 都甲太兵衛が集成の工夫は極めて簡易であつた。約(つづ)めてこれを言へば死を決すると云ふことの外に出ない。何事にもせよ、死を決してこれに當る。そしてこれを成し遂げずには已(や)まぬのである。手段の奈何(いかん)の如きは、その問う所ではない。

 細川家は大国を領して、其麾下固より人物に乏しくなかつたであらう。しかし事の復(また)奈何ともすべきなきに至れば、必ず太兵衛をしてこれに當らしめた。わたくしは梅原の人となりを詳(つまびらか)にしない。しかし継嗣問題の生ずるに當つて、梅原の選ばれたのは、酒井忠清の入魂のものだからである。そしてこれに太兵衛が差し添へられた。太兵衛の任務は背後より梅原に壓を加へるに在つたのではなからうか。死を決すると云ふことは極て簡易なる工夫である。しかし士にして此工夫あるものは、いつの時代に於ても、いづくの国土に於ても、容易(たやす)くは獲られぬものだと見える。

 (七) 決死の反面には冒険がある。死を決して為す所のものは何ぞと問う時、そこに事業家と冒険家との袂を分つ岐路が開かれる。世には既に説いたものゝ外、猶一つの事件が都甲太兵衛の逸事として傳へられてゐる。しかしわたくしは此一事は太兵衛の重きをなす所以(ゆえん)のもので無いと思ふ。わたくしが若し太兵衛を曲庇するに意があつたら、此一事は緘黙に附せざることを得ぬであらう。

 伝ふるものは其年月を言はない。其場所を言はない。しかし原城の軍功に依つて三百石を勝ち得た後の太兵衛は、断じて策此に出でなかつたであらう。細川家に召し抱へられて歩小姓にせられた後の太兵衛も、亦恐らくはこれを敢へてしなかつたであらう。此事件は必ずや太兵衛が牢人時代のすさびであつただらう。

 或日都甲太兵衛が或街に通り掛かつた。すると人家の前に大勢の人が集まつて罵り騒いでいた。太兵衛が仔細を尋ねると、群集の中の一人が告げた。相撲取らしい男が人を斬つて、白刃を手に持つた儘空家に逃げ込んで、内から戸を鎖してゐると云ふのである。「其許達に取押が出来ぬのか」と太兵衛は問うた。「御覧の通小路廻のものも参つてをりまするが、何分手段がござりませぬので」 「然らば取り押へて遺さう。何か壁を壊す道具はあるまいか。杵でもあれば宜しいが」 誰やらが早速杵を持つて来た。太兵衛はそれを受け取つて、家の背後へ廻つた。そして大ぎやうに壁を壊しはじめた。暫くして壁にやうやう人の這入られるだけの穴があいた。太兵衛は衣をかかげて尻から這入つた。

 群集が驚いて見てゐると、太兵衛はすぐに下手人を引つ捉へて穴から出た。其状(そのさま)嚢を探つて物を取るよりも安易(たやす)かつた。 後に人が太兵衛に、あれはどうしたわけかと問うた。太兵衛は笑つて答へた。「別に仔細は無い。戸から入らずに壁から入り、頭から入らず尻から入つたので、中の男は異な事じやと思うて見てをつた。其油断の掴まへられたのじや。其上尻なら一太刀位切られても大事ない」

 都甲太兵衛の子孫は連綿として今まで續いてゐる。二世太兵衛は元禄九年に、三世は弓二十挺頭にせられて正徳五年に病死し、四世は奉行の上座にせられ宝暦六年に致仕し、五世源之助、後太兵衛は鉄砲十挺頭にせられて安永九年に、六世吉五郎、後太兵衛は鉄砲三十挺副頭にせられて享和三年に、七世平弥、後保助は鉄砲十挺頭にせられて天保九年に、八世復馬、後九郎助は鉄砲十挺頭にせられて嘉永六年に病死し、九世金平、後佐平は鉄砲三十挺副にせられて慶応四年に致仕し、十世源蔵は明治三年迄熊本藩の留守一番隊附にせられてゐた。現今の戸主都甲千秋さんは源蔵の長男で熊本県八代郡松求麻村にある八代製紙株式会社の職員になつてゐる。 完(大正六年一月)

日頃使い慣れない難しい漢字や文言が登場しますが、辞書を横に置いてお読みください。 実はルビを付ける事が私にはまだ出来ないのです。ごめんなさい。 管理人