細川家中の若狭侍〜綿考輯録から抜粋

あ行

一宮彦三郎
当一宮儀兵衛先祖付のうちニ寺井庄三郎二男を一宮儀兵衛養子ニ仕、彦三郎と申候、元禄比の事なり、其孫も彦三郎と申候、右儀兵衛親ハ善大夫と申候、本国若狭ものにて於青龍寺被召出、慶安四年病死と有、此善大夫初の名彦三郎と申候て岐阜・関原にも働候なるへし  14-263
逸見次右衛門
 文禄二年晋州鎮守の城攻めに名有り              11-112
 本ハ若狭侍の歴々なり                    14-261
入江平内入道真斎
(入江)淡路弟、200石、若狭の逸見に仕へ牢人して御家ニ参候、芸能多く形儀のぬるき者なり、能登守教経の矢の根・大脇差・乗鞍忠興君へ差上候、平内果候節、忠興君御追悼の御詠歌被下候立のほる煙の末はなきものを つきせす落るわかなみた哉忠利君より被為拝領御書于今本家に持伝候、真斎子孫有之哉、不分明           14-260
魚住市正昌永
 若州逸見一族にて、家老相勤候、逸見駿河守没落已後、於青龍寺被召出、御知行百石被下候、其砌丹後御拝領、国人御取鎮之御人数不足之御様子ニ付、逸見の家来残居候者相催し、罷越相勤候処、御懇之御意被成下候、 高麗陳其外所々御陳之御供仕、相働、追々御加増三百石被下、御鉄炮十五挺御弓十五張の頭被仰付候、豊後木付ニ被差越、於彼地働申候、豊前御拝領之節、木付并数度戦功之為御褒美、御知行千七百石御加増、都合弐千石ニ而御郡代、御留守支配相勤、病死         (綿考輯録巻5 魚住加助項より該当項)

か行

 

さ行

沢村才八吉重・大学
 桃井の族ニて若州之産也、若年之時逸見駿河守に仕へ候ニ、駿河守病死之時継嗣なき由、旗頭丹羽長秀より被申達、断絶ニおよひ候、実ハ源太丸とて(才八か絵像の賛ニハ虎清とあり)七歳之男子有しかとも、長秀とかくニさゝへて信長ニ不達、才八是を歎き、源太丸をいさなひ安土ニ至、直訴両度ニ及けれハ、信長あはれミ給ひ、逸見跡式下し給ハるへき旨成しに、不慮ニ弑逆ニ逢たまひ、剰同し比源太丸も早世しける故、無力丹後ニ越、八月上旬御鉄炮之者二被召出、はや此度手柄をあらはし、追々武功ニよりて天正十八年奥州より御帰陳後知行百石被下、朝鮮御帰朝後百石御加増、慶長六年七月千石、同十月弐千石、又寛永九年五百石被下候、同十年当御国ニ而被改五千石被下、御城代被仰付候(以下略) 9-37

た行

 桑原阿波(寺井道雲)寺井吉右衛門
若州逸見駿河守ニ仕へ、逸見家断絶後、忠興君丹後にて被召出候(中略) 今度(田辺籠城)も多の敵中を凌ぎ、御密書持参候に付きても、他にこゆる 事有之由                (綿考輯録巻5 田辺籠城項 該当項)

な行

中津海三左衛門

な行

中津海三左衛門

は行

久下太郎助
田辺籠城衆 設楽庄市場の生れにて高濱の城主逸見駿河守が一族なり、 天正の頃市場城に籠り駿河戦死の後田辺の田家に忍びけるが古主の仇 なる細川に従ひ此時籠城せしとかや     (丹後舊事記)

ま行

松山平左衛門・元直(平右衛門元真或は元貞とも)
権兵衛元重親、若狭侍也、丹後にて300石、豊前ニ而600石14-262
毛利忠三郎(後号又兵衛)
文禄の役晋州鎮守の城攻め 首を取る            11-113
父は毛利和泉と云て若州逸見家ニて千石を領、鑓毛利と云れしとなり 忠三郎嶋原にて討死、男子なく家断絶、忠三郎姉は有吉立行妻成り、 立行死後縁寿院といふ                   14-260

や行

松山平左衛門・元直(平右衛門元真或は元貞とも)
権兵衛元重親、若狭侍也、丹後にて300石、豊前ニ而600石14-262
柳田鷺之丞
幽斎田辺城籠城にあたり逃亡・柳田久四郎父
柳田久四郎
岐阜戦功・首取申候衆 五郎助共云、(中略)久四郎か親は柳田鷺之允と云、始ハ逸見内ニて用ニ 立し者なるか、田辺籠城時立退しにより久四郎か何程働てもやくにたゝぬ事 か一ッ有と云しハ此事也、後に池田輝政に奉公大阪陳ニてもよかりしなり、 後加賀利光に仕へ柳田半助と云                   14-256
吉山福万(逸見右馬介)