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灰燼 著・徳富蘆花(ページ1)

 言わずもがな著者徳富蘆花は熊本の人である。西南の役当時蘆花は沼山津(ぬやまず)という処に避難した。横井小楠がかって住まいした邑である。そこに弥富家という豪農があった(今でもある)その弥富家に直次郎という少年があり、熊本隊に属して官軍と戦った。なぜか味方の者を鉄砲で射殺し実家に逃げ帰った。灰燼」はこの弥富家をモデルにした蘆花33歳のころの作品である。

(上)の一

 勝てば官軍負けては賊の名を負はされて、思い出づれば去(さん)ぬる二月降り積む雪を落花と蹴散らして麑城(けいじょう)を出でし一万五千の健児も此處に傷つき彼處に死し、果ては四方より狩り立てらるゝ怒猪(いかりい)の牙を咬むでこゝ日州永井の一村に楯籠りしが、弾つき量つき勢つきて、大方は白旗を樹てける中に、せめて一期の思出に稲麻竹葺(とうまちくい)の此重圍(ちょうい)をば見事蹴破つて、我此翁と故山の土にならばやと、残る一隊三百余人、草鞋の紐緊々(ひしひし)と引きしめ、明治十年八月十七日のよるをこめて月影暗き可愛が嶽の山路にかゝりぬ。小荷駄をば一切取り棄てつ。各自に糧嚢を帯び、銃を提げ、太刀を釣り、松明も點さず、言(ものい)はず。土人を案内として桐野眞先に立てば、薩摩絣の単衣に紺染の兵児帯一尺余りの小脇差をこしにぼつこみ尻高々とからげて煙草吸いすい中軍をうつ南州、村田貴島別府河野野村山野坂田増田の諸将前後を擁し、殿(しんがり)には逸見の一隊。假令(よしや)鉄壁にもあれ、我前に立たん程のものは蹴破って行かむものと思ひ込むでは、坐(そぞ)ろに打咲(うちえ)まれつ。進軍を決したるは午後四時。先鋒已(すで)に可愛が嶽の麓にかゝれば、夜はふけて星河一天、山黒くして月幽に、風露肌に冷ややかなり。敵も眠らず、見よや、山又山に燃し列ねたるかがり火點々として星を欺むき、左右の嶺より敵の哨兵が探りうつ銃声は絶間もなくこだまに響く。絶頂までは二里にあまる、夜明けぬ間に急げいそげと、険阻の夜道山路事ともせず、今後隊の一人が足踏み辷らして谷に落ちしも知らで、六百の草鞋さながら「明けぬ間、明けぬ間」と囁やき、谷を陟り峯をよじ、青葉落葉をかき分け踏み分け、次第に上り上り上り-----月傾きて、短夜の明けんとす。   

(上)の二

短夜の月傾くと思へば、何時か山の端白み、暁寒き風にほろほろと滾(こぼ)るゝ葉末の雫、未だほの闇き谷の岩が根に倒れし男の頬を傳(つた)ふて自から口に入れば、唇ふるひ、手足動きて、何かは知らづ唸(つぶ)やきしが、忽ち 「阿母(おつかさん)唯今---」瞭然(はっきり)と呼ぶ吾声にはつと目をみひらき、やおら起き上がって四辺(あたり)見廻はし、空打仰ぎて吻と一息、 「帰る、帰る---と思ったが---矢張先刻落ちたまま気絶しちまったんだな。--あゝ最早黎明だ」舌鼓打鳴らして、立上がり、腰のあたり五六(いつつむ)つ打たゝき、手をふり、足を踏み試み、其処ら探して落ちたる銃を取り上げ、行かんとして、忽ち山の端遠き咄喊(とき)の声に耳傾けしが 「やっ、後れた!」叫びもあへず、手早に草鞋の紐しめ直し、背負へる太刀をゆり上げ、滑る足を踏みしめふみしめ、木の枝傳ふてたにまをよじ上りぬ。十歩行きては立ちとまり、二十歩上りては耳を傾け、谷を渡りて峯にかゝれば、夜はまさまさと明け離れて、萬山の朝(あした)静かに、やがて朝日きらきらとさし上りて、山鳥の声其処此処に聞へたり。赤松の根に銃を杖つきて、息つきあへず、屹(きつ)と耳を澄す。年は十八許(ばかり)、面(おも)痩せて見ふれど眉目清らに、垢染みたる洋服の上に白木綿の兵児帯して、脚袢草鞋に身を固め、網袋と草鞋一足腰につけ、太き真田の紐もて朱鞘の太刀を肩より釣りたり。やや久しく耳傾けしが、物音はつたり絶えたるに、失望の色顔にあらはれ、「些(ちつと)も聞へん---最早破つたな。つゝ、後れた、後れた。たしか三田井に出るんだつたが、三田井と云ふは何方(どっち)か知らん」力なげに呟きつゝ、不知案内の山路足に任せて十町あまり上れば、山いよいよ静かになりぬ。唯一度、仄かに銃声の響ける様に思ひしが、其すら直に止みて、こぼるゝ露の音も聞ふるばかりなり。幾回(いくたび)か立とまりては、空しく耳を傾け、上るとはなくまた十四五町、うど闇(くら)き杉の木立を出ぬけ、雑木山にかゝれる時、突然(だしぬけ)に横手の峯よりどろどろと足音響きて、呀(あつ)と思ふ間もなく黄筋入りたる洋装の兵士十四五人落ちかゝる様に走り来つ。双方はたと踏みとまり、顔見合はせ立つたりしが、忽ち 「賊だ、賊だ」と叫びて、取直す兵士が銃の鶏頭キヽと軋りぬ。此方は夢中、突と走(はせ)寄つて、両手に銃をふり翳し、真先に吾を狙ふ兵士を横薙になぐり倒しつ。案外手もとに飛び込まれて、狼狽(うろたえ)騒ぐ兵士等が、一人と侮り総立になりて手捉(てとり)にせんとかゝるを、銃投げすてゝ、一人の兵士が弱腰両手にはたと押倒し、今一人が無手(むづ)とつかめる背後の太刀を其のまゝ敵の手にとゞめてすりぬけ、岩を廻って元来し路に逃げ下れば、「逃げたぞ、逃げたぞ----うて、うて」 罵り騒ぐ声諸共に、鬢を掠めてはらはらと飛ぶ弾丸(たま)を、顧みもせず、若者は崖を飛び下り、滑り下り、驀地(まっしぐら)に逃げて、忽ち杉の木立に見へずなりぬ

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