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   「御家草創」松井佐渡守康之・長岡佐渡守興長
            松井家文書・先祖由来附、御給人先祖附を読んで

                                       御池章史(熊本県八代市)
                                                  
     はじめに

   近世松井家初代松井佐渡守康之は、天文十九年十一月一日松井山城守正之と荒川治部大
  輔澄宣の娘のもとに誕生します。幼少の頃から室町将軍足利義輝の傍らに兄とともに仕えてい
  ました。ところが、永禄八年足利義輝は松永久秀に弑されてしまいます。
  康之の兄新次郎勝之は、義輝の下に討死します。
  康之は義輝の弟奈良興福寺一乗院覚慶(足利義昭)を助け出して、将軍擁立を謀っている細
  川藤孝と行動を共にするため、近江矢島に足利義昭を訪ねます。以後、足利義昭に従い、若狭
  武田氏や越前朝倉氏を頼って足利家再興を図りますが、目的を果たせません。
   結局足利義昭は、細川藤孝や明智光秀の努力によって、織田信長に担がれて上洛、将軍職
  に就くことができます。
   永禄十一年、足利義昭が越前朝倉に見切りをつけて、織田信長を頼ったとき、松井康之は義
  昭の旅宿美濃の立政寺を訪問します。足利義昭は、細川藤孝の縁故ある者ということで、藤孝
  手に入るよう命じます。以降康之は藤孝の下で幕府軍として働きます。
  初陣の江州箕作城攻めは十九歳です。また、三好・松永勢による京・六条本圀寺の足利義昭襲
  撃では、桂川の戦いで武功を上げます。足利義昭は康之に朱塗り柄の鑓を与えます。
   その後、藤孝が山城国青龍寺の旧知を回復すると、客分として遇され、藤孝の養女(沼田上野
  介光長の娘)を娶ります。
   細川藤孝が織田信長の将となってからは、藤孝の下で処々に出陣、軍功を上げます。
  藤孝が丹後国十二万石の大名になると、細川家の軍制が整備されて、家老・壱万三千石・右備
  えとなり、左備えの細川玄蕃頭興元とともに働き、生涯五十余度の合戦に出陣し、武功高く、細
  川藤孝・忠興父子のみならず、時々の為政者に厚く遇されます。
   豊臣秀吉は直臣として康之を欲しがり、石見半国十八万石をもって召抱えようとします。
  しかし康之は、細川藤孝への恩顧を理由に誘いを断ります。このとき、秀吉が与えた茶壷が十八
  万石の壺と称される「深山」です。徳川家康も同調して、家康愛用の「縄簾」という水差を贈ります。
   また、織田信長以来の知行山城国八瀬村や神童寺村の領地は、豊臣秀吉からも徳川家康か
  らも安堵され、松井家由緒の領地となります。百六十石余のわずかな領地ですが、徳川幕府の
  下、細川家の家臣でありながら徳川直参という性格を帯びる基になります。
  さらに徳川家康は松井康之を大名並に扱うのです。この大名に順ずる家格は以降松井家代々
  に及びます。
   徳川家康が、秀吉に劣らず松井康之を強く認め、秀吉と同じように、康之を直臣にしたいとの
  思いを抱いていた証とでもいいましょうか、家康は康之へ豊後速見郡壱万七千石余の代官を命
  じ、康之から税を取りません。康之に領地を与えたようなものです。さらに家康は、康之の二男吉
  松を徳川家直参として仕えさせることを所望し、家康と康之二人の間に約束が結ばれます。
  吉松とは、後の興長のことです。松井家二代興長は家康の下に行くことになっていたのです。
  康之の嫡男興之が朝鮮の役で戦死したため興長は松井家を継ぎ、約束は果たせませんでした。
   そうした康之も、細川忠興が三十万石の大名として豊前小倉に入った後、京都で細川幽齋が
  亡くなると、その二年後後を追うように豊前小倉で没します。慶長十七年、康之は六十三歳でし
  た。康之没二年後の大阪冬の陣、翌元和元年大阪夏の陣と天下は徳川氏へ移つていきます。
   創業の時代は終わりを告げ、徳川幕府の下、歴代の家を守る時代が始まります。
  徳川の世のはじめに、松井家家臣団の中にも、家督を守るため養子による家の継承が発生しま
  した。橋本、中山、下津・後藤の四家です。
   戦国、織豊期と戦いに明け暮れた武士たちも、元和偃武をもって、戦闘から離れた平和な生活
  に入っていきます。こうした、松井家と共に戦国時代や徳川三百年を生きてきた人々を松井家先
  祖由来附・御給人先祖附の中に訪ねて見たいと思います。
   松井家の先祖由来附からは康之初期の家臣を、御給人先祖附からは松井家に仕えた人々や、
  その親類関係を探訪してみたいと思います。

    一、 松井佐渡守康之と家臣たち

   永禄八年康之は江州矢島にいる足利義昭の下へ馳せ参じます。将軍義輝が松永久秀に急襲
  されて弑されたとき、康之は叔父玄圃霊三と伊勢神社参拝に出かけており、帰途義輝生害の知
  らせを聞いて駆けつけたのです。このとき、康之譜では「潜ニ彼地え馳参候処、義昭公御感被成
  直ニ御館を警衛仕候」といいます。康之単騎で駆けつけたのでしょうか。いや、お供がいたはずで
  す。足利幕臣大外様松井の格式があったことでしょう。
   永禄十一年、若狭武田氏や越前朝倉氏を頼って幕府再興を目指した足利義昭一行は、細川
  藤孝や明智光秀の尽力で織田信長を頼ります。織田信長に招かれた足利義昭は、美濃国立政
  寺に逗留して信長に面会します。このとき、康之譜は「相従候者共召連、義昭公の御旅館濃州
  立政寺え参上仕候処、其志御感ニて、幽齋様は御由緒も有事ニ付、幽齋様御手ニ加り候様被
  仰付候」といいます。従っていたのはどんな人達だったのでしょう。
   ところで、「幽齋との由緒」とはどんな由緒でしょうか。家督を継いだ新二郎勝之亡き後、康之に
  は二人の姉と一人の妹がありました。姉の一人は細川陸奥守輝経に嫁ぎます。細川輝経は細川
  藤孝嫡子忠興の養父です。次姉は角田因幡守藤秀に嫁ぎ、妹は吉田盛方院宮内卿法印浄勝に
  嫁いでいます。細川藤孝(幽齋)は三渕晴員の二男ですが、将軍義晴の子として、和泉半国守護
  細川元常に養子に入ります。三渕の祖は足利義満の子、掃部頭持清です。
  また、細川元常と三渕晴員は兄弟です。元常の弟が三渕に養子に入って三渕晴員と名乗りました。
   細川藤孝が姪を養女にして康之に娶わせて後は、藤孝と康之は義理の親子、忠興にとって康之
  は義兄となります。
 
   永禄十一年九月、織田信長は足利義昭を擁して京へ上ります。
  三万余の軍勢が美濃岐阜城を発します。ところが、路地を治める佐々木氏六角承禎が三好・松永
  党に与して道を塞いで抵抗します。このときの箕作城攻めが康之の初陣です。
  時に康之十九歳、敵首を討取って働きますが、まだ家臣の名前は出てきません。
   織田軍は京を抜いて、一気に城州西岡青龍寺城を攻めます。西岡青龍寺城は細川藤孝相伝の
  居城です。永禄八年以来三好三人衆の一人岩成主税が押領していました。康之は城攻めの先手
  を進みます。青龍寺城を攻落すと藤孝が入城し、本貫の地を回復します。
  康之にはまだ領地が有りません。翌月織田軍は大軍を擁して摂津国、河内国に侵攻し、三好左
  京太夫義継、松永久秀などを降参させて、畿内を平均します。藤孝・康之も織田軍と共に働きます。
  十月十五日、足利義昭は征夷大将軍に任ぜられ、足利家再興が成りました。
   永禄十二年、又しても三好三人衆が京都本圀寺の足利義昭を襲います。
  藤孝も康之も城州西岡青龍寺城にいました。急を聞いて京へ向かい、桂川で三好釣垂、岩成主
  税軍と戦います。
  「此之節幽齋様の御人数も既に敗走可仕躰ニ相成候付、康之陣頭に進み御人数ヲ励まし、崩れ
  口に取って返し槍を合せ、敵を討取、志水新之丞・同悪兵衛を初め御人数何れも相働き、家来坂
  井与右衛門・杉崎作左衛門・村尾四方助も槍を合せ・・・・・」と康之譜です。
  やっと三名の名前が出てきました。松井胃助康之糟糠の臣といいましょうか、彼らは常に康之の
  下で働きます。杉崎作左衛門は康之乳母の子です。坂井与左衛門一良は康之を慕って、織田彦
  五郎信友の家臣から青龍寺城にやってきました。紅顔十七歳の事です。
  これ以降天正六年まで康之譜に登場するのは、坂井与左衛門のみです。
  康之は桂川での戦功を足利義昭に感賞され、朱柄、鞘は植雉子尾、穂長一尺の鑓を拝領します。
  余程の感激があったのでしょう。
  「此節手柄の面々ニ鑓・太刀の御恩賞は類も有りつれとも、御懇命を以御杯被下、別て面目を施
  候とて、及老年候ても折々物語り仕候由御座候」と康之譜は書き付けています。
   春には青龍寺城下に賄料五十町と屋敷を藤孝から与えられ、藤孝養女、実は沼田上野介光長
  の娘と縁組します。沼田上野介光長の妹が細川藤孝の妻麝香です。康之にも生活の根拠ができ
  ました

   翌元亀元年七月には、石山本願寺と三好党が合体して野田福島の要害に立て篭もります。
  織田信長はこれを討つために出陣、足利義昭・細川藤孝・松井康之も出馬します。
  京が留守になったその背後を衝いて、浅井・朝倉の軍が侵攻します。
  京の醍醐、山科が火に包まれました。
   十月、藤孝は山城御牧城に立て篭もった一揆勢を、和田伊賀守惟政、一色式部少輔藤長と共
  に攻めます。康之は真っ先に鑓を合せて敵を討取り、五ヶ所も鑓傷を受けながら奮戦、敵を追い
  散らします。康之の傍を離れず敵首を討取っているのは坂井与左衛門でした。

   元亀二年秋十月、城州住山に三好兵庫頭長勝などが四千の兵を率いて出張します。
  藤孝・康之・三渕大和守などが対陣して、戦いは乱戦、三渕家深入りの様子で危うく見えます。
  藤孝は横合いから敵に割って入り、自ら敵と鑓を合せ、三好家の宇野孫四郎を討取ります。
  このとき、藤孝の鑓が折れて、やむなく太刀打ちを強いられます。敵が藤孝に群がる中、細井壱
  岐守が横槍をいれて藤孝に助勢します。壱岐守家老真鍋伊右衛門は、間隙を縫って自分の鑓を
  藤孝に渡します。藤孝の周りでは康之が敵を討ち、坂井与左衛門が首を取り、有吉将監が手に
  合う敵を討ち取っています。
  次は、山城国山田の城です。織田信長に降伏していた松永久秀が叛旗を翻し、久秀の一味奥田
  三郎兵衛が山田城に立て篭もりました。康之と坂井与左衛門が働きます。大和国多門山城には、
  久秀倅松永久通が立て篭もっています。藤孝・康之・三渕大和守が攻めます。

   元亀三年は河内高屋城に三好一味の山口六郎四郎等が立て篭もり、織田信長軍から佐久間
  右衛門尉・柴田修理亮が三万の兵を率いて出陣します。
  将軍家からは、藤孝、三渕大和守が出陣します。康之は先に進んで働きます。
  この頃、足利義昭と織田信長の間が上手くいかなくなっています。
  細川藤孝が上野中務少輔清延の讒言により、青龍寺城に蟄居したのもこの頃です。
  康之は、藤孝の潔白を証明するには自分が腹を切って明らかにするしかないと決心し、いつでも
  切腹できるよう、他出の時も常に供の者に明衣と小脇差を箱に入れて準備させていました。

   天正元年十一月織田信長は、三好党殲滅を目指して河内国若江城の三好左京大夫を攻めま
  す。藤孝・康之は、貝堀の砦を攻め破ります。七月、織田信長は、「城州乙訓郡桂川を限西地一
  円」を藤孝に与えます。

   翌天正二年、藤孝は河内国に出陣して三好の残党を狩ります。康之もお供します。

   天正三年には、織田信長が上洛して、藤孝に丹波国船井・桑田の両郡を付属させます。
  大阪石山本願寺攻めの布石です。藤孝帰属の軍勢が増えますが康之家来はまだ名前が挙がり
  ません。ただ、越前一向一揆攻めに、「康之終始働き、家来共も越前・加賀両国の城攻めに相働
  き・・・」とあります。丹波国船井城主田中理右衛門が康之に従ったのはこの頃でしょうか。

   天正四年、康之に嫡男禅門が誕生しますが、康之に閑は有りません。三月から本願寺光佐が
  石山城を築いて紀伊・越前の門徒を集め、毛利氏と連携して織田信長への対決姿勢を鮮明にし
  たのです。信長は藤孝、康之、惟任日向守光秀、荒木摂津村重他を大将として三万余の軍勢で
  石山城を囲みます。
  五月五日河内国若江で藤孝は、佐久間信盛・松永久秀と共に先陣を切ります。
  このときの松永久秀は織田方です。織田軍の先駆けは康之です。坂井与左衛門が従います。
  さらに河内国堀溝城へ、山城国稲屋妻城へ、転戦再度河内国花田城を攻めます。

   天正五年和泉貝塚の戦いでは、夜陰に紛れて城から逃げ出し、密かに舟で退散する敵勢を康
  之手が見つけます。追討する康之勢に、素早く細川忠興が出馬して追いつきます。
  散々に敵を討ちます。織田軍は進攻して、藤孝・康之は雑賀の一揆衆数千と遭遇、戦闘激しく、
  雨、雷が戦況を混乱させます。敵首五十余を討取ります。根来・雑賀を攻め破り、畠山家を滅ぼし
  ます。
   八月、一旦は信長に降った松永久秀が再度逆心して大和国信貴山の居城に立て篭もります。
  信長は、何故か久秀に甘かったのですが、さすがに今回だけは許しがたく殲滅を期して、織田信
  忠・藤孝・惟任日向・筒井順慶を差し向けます。手始めは、松永党の森勘解由左衛門が立て篭も
  る片岡城攻めです。
   十一月一日、城門を開いて突き出してきた敵勢に真っ先に駆け入って鑓を合わせたのは、藤孝
  嫡男細川与一郎忠興、十五歳の初陣です。藤孝二男頓五郎興元は一つ違いの十四歳、兄に遅
  れじと轡を並べます。康之が続きます。坂井与左衛門は決して康之の側を離れません。
  激戦、藤孝勢討死三十余、惟任光秀勢討死二十余の被害を出しながら総勢必死に攻め込んで、
  松永滅亡。久秀は殿主に火を駆け火薬で爆発して果てました。このとき、松永久秀は織田信長垂
  涎の茶釜、平蜘蛛の茶釜を小脇に抱えて爆死しました。
  康之譜は「家来共首数多討取申候」と書付けます。

   天正五年は惟任日向守光秀の丹波征伐です。藤孝軍は光秀を助勢します。

   天正六年には、惟任への助勢に織田信長自身が出陣しようとしますが、実現には至りません。
  惟任光秀は、丹波八上城に立て篭もる波多野右衛門大夫秀治攻めに苦労します。
  このとき光秀旗下に山本対馬がいます。山本源大夫勝則の父です。山口敏久入道と嫡子孫次郎
  もいます。山口彦之丞景定の祖父と父です。明智左馬助光春・番頭大炊とともに、過部城攻めの
  藤孝へ助勢にきます。藤孝は過部城の様子から敵の計略を見破り、敵後詰軍を待ち伏せして打
  ち破ります。八上城攻めは長期戦となり、惟任軍を残して攻囲陣を敷き、藤孝と惟任日向は丹後
  へ転戦、攻め込みます。一色氏との戦いです。
   その頃、中国攻めの羽柴秀吉は、播磨の別所小三郎長治の離反にあって、三木城を攻囲して
  いました。織田信長は藤孝と日向守光秀に秀吉への援軍を命じます。別所への毛利家の援兵三
  万余騎が押し寄せていたからです。吉川駿河守元春・小早川左衛門佐隆景が率いています。
  羽柴秀吉の押さえとして佐用城、上月城に篭る尼子一族、尼子孫四郎勝久・同四郎通久・山中
  鹿之助以下三千の将兵の命運は偏に秀吉の援軍にかかっていました。尼子勢の篭る佐用・上月
  の城は毛利軍三万の進路正面に位置したからです。尼子勢に援軍を送ることは、羽柴秀吉一存
  では不可能でした。織田信長の判断が必要だったのです。尼子は見捨てられました。

   天正六年八月、細川忠興へ惟任日向守光秀二女玉が輿入れします。輿受取りは康之です。
  この頃、織田家中では、丹波・丹後平定の後には、両国は光秀、藤孝に与えられるだろうとの
  噂が飛び交っていました。康之は真偽を糾すべく光秀を訪ねますが、程なく信長から光秀と藤孝
  が召し寄せられます。丹波は光秀、丹後は藤孝が攻め取り次第国主とするとのことです。
  光秀・藤孝は両丹攻めに忙しい中、織田信長から播磨援軍を命じられます。
  毛利と羽柴の間に位置している宇喜多和泉守直家が毛利に与して播磨に攻め込んだのです。
  さらに、荒木村重が本願寺光佐と結んで信長に謀反を企てているという情報を康之が掴みます。
  藤孝から信長へ報されます。信長は村重を旗下に留める為種々手を打ちますが、上手くいきませ
  ん。辛うじて村重のもとから高山右近を降らせることが出来ただけです。
  
   天正七年、光秀・藤孝の奮戦で丹波は平定します。丹波の後は丹後です。藤孝・忠興は丹後へ
  討ち入ります。一色氏の嶺山城攻めに康之の家来の名前がみえます。井上市正です。
  敵を組み伏せ首をとります。働きを見ていた光秀は、「手柄比類なし」と、使者をもって姓名を尋ね
  ます。荒木山城守を通じてこれに返答しました。康之家来井上市正吉勝の父井上将監正季は足
  利将軍家に仕え丹後国桑田郡を領地していました。藤孝が、信長より丹波国船井・桑田両郡の
  武士を付属させられた天正三年ごろから、細川家に従い、康之の下で働いていたのでしょうか。
  井上家先祖附では、井上市正吉勝は、「丹後久美で康之に客分として召し寄せられ、知行四百
  石松井の称号を許され、諱を下され、松井紀伊守之勝と改め、天正十一年伊勢嶺山攻めで組討
  高名」と記しています。
   こうして丹後を平定し、天正八年両丹二国は、丹波を惟任日向守光秀が、丹後を細川兵部大輔
  藤孝が領地する事になりました。藤孝・忠興父子は丹後に入国します。康之は、青龍寺城受け渡
  しの任を終えた翌年天正九年に丹後に入ります。本島家先祖附は、青龍寺城引渡しのとき召し寄
  せられて丹後久美へお供したと記します。もっとも早い時期の家臣です。

   細川藤孝は、丹後に入国すると新たに細川家の軍制を敷きます。康之は、右備え壱万三千石・
  一門格家老となります。左備えは、忠興弟頓五郎が玄蕃頭興元と改めて、壱万三千石・家老です。
  細川家からみると、康之は藤孝義理の倅、忠興義兄ですから、軍備の要を兄弟で固めたわけです。
  康之譜に細川家最初の軍制を記した記載があります。
  「幽齋様御領地、城州西岡併丹波の二郡ニて御人数も少なく、御一備ニて御父子様御自身に御
  引回被成候得共、今度丹後国拝領ニ付、追々諸浪人等被召抱、御人数相増申候間、同年五月
  惟任日向守殿え被仰談、御家中武者分等御定被成、長岡頓五郎殿興元を玄蕃頭と被改、御知
  行壱万三千石被遺、御左備ニ被成、米田助右衛門是政を組共に被成御附、康之へ壱万三千石
  被為拝領、御右備ニ被成、有吉四郎右衛門立行を組共に御附被成、御手先は一日代ニ仕、御
  旗本備は御父子様御自身ニ可被成下知旨被仰出候、此節より興元殿・康之両人御一門格ニて、
  始て御家老と御定被成候付、侍を預候者を番頭と唱、御直の御番頭・御鉄砲頭等と、自分番頭・
  者頭共取交御備被成、馬乗共も御」直の騎馬被相交、仕寄席場の御番等も番代りニ仕、両家の
  家来は以来御直参可為同前旨被仰出」と、記します。
   康之は、熊野郡久美松倉へ新城を築いて入城します。知行と一城を得た康之は、早速細川陸奥
  入道宗賢・角田因幡入道宗伊を招いて、康之出陣の際の留守居を任せます。
  細川陸奥入道宗賢・角田因幡入道宗伊の両人は何れも康之の姉婿です。康之の義兄です。
  この久美松倉に、以前は一城を預かっていたほどの諸国の浪人が、康之を慕ってあつまってきま
  す。「久美で家来と罷成候者共多く御座候」と、康之譜です。
  早速天正九年に、村尾四方助、八木兵助、多熊源之丞が登場します。
  村尾四方助は永禄十二年桂川の戦いに登場しています。

  御給人先祖附から丹後久美召抱の家臣たちです。
    1、竹田(松井)長助定勝:先祖武田冠者源義清十五代武田大膳大夫信時次男武田侍従定栄
      瑞竹軒・典薬頭・足利義晴に近仕、山城国竹田郡に住し、竹田に改姓。瑞竹軒嫡子竹田織
      部正定雄は足利義輝公奉行職。義輝死後浪人、梅松軒と称し羽柴秀吉に仕える。梅竹軒
      嫡子竹田藤松母は、沼田上野介光長娘・康之妻の姉、丹後久美康之の下で育つ。
      (松井長助定勝・織部、智海院様後見、岐阜城興長御供、関が原興長御供・首討取る、
       百石加増、木付で加増700石、三番組御番頭、剃髪正清)
    1、井上市正吉勝:先祖井上将監正季は信濃源氏高梨七郎盛光末葉、足利将軍家に仕え細
      川右京大夫幕下、浪人、
      (将監子市正吉勝丹後久美にて客分四百石・松井紀伊守之勝、勢州嶺山城攻め・組討、濃
       州岐阜城興長後見、関が原興長後見陣代、加増三百石計700石、病死)
    1、入江久兵衛武澄:代々足利将軍家仕
      (丹後久美にて二百石、関が原興長御供、岐阜城攻討死)
    1、田中理右衛門(松井志摩守盛永):先祖田中山城守源盛重信長公御世丹波船井城主、惟
      任日向守付属
      (一族惟任日向守に属し山崎合戦で離散、丹後久美にて康之召出二百石。康之に殉死。
       小牧表、濃州賀賀井城攻め、豊前田川郡岩石(がんじゃく)城攻め、伊豆韮山城攻め(秀
       吉小田原攻め)、陸奥・出羽検地、奥州国妙城攻め・陣中越年、九部城攻め、文禄朝鮮
       出兵・岩山城・登菜城辺高山で康之多数の敵を討ち取る・安昌城攻取り晋州鎮守城押寄
       撤退再攻撃康之軍功、他諸所御供。木付城請取り御供。木付城籠城・実相寺山打登・杵
       築留守居、安岐城取囲落城、富来城攻め御供、八月長年の武功に加増百石計300石
       家康の駿河築城、名古屋築造ほか諸所普請差越)
    1、  同  角兵衛盛勝
      (十歳康之小姓、「父殉死により、鉄砲二十挺頭、300石相続」木付御供、立石表御供、実
       相寺山陣、安岐城取囲落城、富来城攻め御供、加増二十石・計三十石。九十石加増百
       二十石)
    1、中川伊予重高
      (天正年中丹後久美召抱、百五十石。立石合戦木付留守居・老体・名代倅五兵衛。病死)
    1、  同  五兵衛重吉
      (伊予重高嫡子、丹後久美で御切米十五石、立石表騎馬・首一つ。加増三十石、家督相続
       百五十石、加増二百五十石計400石、御鉄砲頭、大阪夏の陣御供、病死)
    1、上原長三郎貞久
      (丹後久美にて御切米十石、木付御供、立石合戦・首1・行方不明・帰還・馬乗りとなる。
       切米十石加増・御馬乗組、百二十石・松井織部組、大阪夏・冬陣御供、豊後府内興長御
       供、島原の乱二の丸に討死)
    1、山本源大夫勝則:先祖山本対馬守秀勝は新羅三郎源義光の末葉、足利義輝に仕、義輝生
      害後浪人、惟任光秀家来となる。山崎合戦討死。
      (勝則は、秀勝山崎合戦討死後康之に密かに呼ばれ、丹後久美で召抱えられる。切米・御
       作事方御納戸役・杵築御供、関が原・木付留守居、木付領内に屋敷拝領・対馬櫓)
    1、山口彦之允(牧彦七郎)
      (丹後久美御小姓召抱、木付城請取御供、立石合戦肥後加藤家へ御使者、新知百五十石、
       天草島原一揆寄之公御供「牧彦之允と改める」仕寄手裏にて鉄砲手負い。後山口彦之丞
       景定と改める。
    1、後藤三左衛門:先祖但馬守綱宣は藤原武蔵守利仁八代右衛門尉公広後胤、鎌倉幕府・足
      利幕府に仕え、江州佐々木家に仕え、佐々木義賢入道承禎の家老。佐々木中整丞高保に
      仕え、信長江州入りより信長に従属、信長死後浪人。
      (但馬守基正、天正年中丹後久美召出三百石、朝鮮晋州城攻、木付御供、立石合戦木付
       留守居、慶長十九年大阪之陣留守居)
    1、遠藤九兵衛吉次
      (丹後久美にて御切米、木付御供御長柄奉行、百五十石、木付城解除奉行、島原の乱敵
       一・鼻耳削ぐ、八代町奉行、隠居)
    1、粟坂平助守政:先祖は山名一族、丹州粟坂城九代居城につき粟坂小次郎豊■と名乗った。
      秀吉の山名征伐で没落、伊予助守の代但馬に浪人山名入道一舟守時と称す。
      (一舟守時三男、丹後久美召抱、岐阜攻興長御供、手負い、興長傷つく・付添って退く
       関が原首討取、二百石・鉄砲頭、加増五十石)
    1、明石助兵衛重方:先祖明石左近大夫は播州明石城主。その子明石丹後守は剃髪桂立・次
      男家督相続明石左近大夫は小早川隆景に御預、関白秀次生害の時切腹・三男右京進、
      久美にて桂立及び桂立子・半四郎、康之に召し寄せられる。桂立は木付御供、病死。
      右京進子熊市元和年中召抱中西孫之允宗昌と改後三百石
      (丹後久美召抱、初名半四郎、興長御供・岐阜城攻、百五十石、加増五十石、冬夏の陣御
       供、岩千代様乳人を後妻に、=男子出生=井山孫右衛門好方四百石として別家となる)
    1、志水伯耆・悪兵衛:先祖志水但馬守元久は鎮西八郎為朝の子為清十一代の後胤、山城国
      鳥羽の間志水を領地、親類管領細川右京大夫晴元の幕下、足利将軍家に属す。晴元没後
      近江国佐々木義賢入道承禎幕下、藤孝公義昭公宛て願い出て、兄弟にて藤孝公幕下へ。
      江州箕作城攻・首討取る。淀城岩成主税攻め、六条本圀寺攻囲戦桂川先手、悪兵衛一番
      首、将軍義昭より刀拝領。伯耆へ山城国志水村一円拝領、悪兵衛知行拝領。興元後見、
      久美にて興元の意に適わず、暇をもらう。伯耆は後帰参、悪兵衛は康之公丹後久美の城に
      召寄せ帰参之世話・客分御合力米三百石。又左衛門元清と改、男子四人も召し寄せる。
      慶長十年病死。
    1、本嶋備後正恒
      (青龍寺城明渡し残置時召抱、丹後久美入場御供・百五十石、御具足拝領、朝鮮御供・岩
       山城攻・片鎌鑓拝領、晋州城攻、木付御供、木付篭城・立石合戦・留守居、五十石加増、
       病死)
      喜兵衛正治
      (備後嫡子、丹後久美で御側、立石合戦御供、百二十石、豊後府内御城受取興長出陣御
       供、御側御者頭)
    1、下津権内一通:村上源氏支流、山城国紀伊郡大下津在・下津氏を称す。
      (最初は幽齋に勝龍寺城で仕える。水練の達者。淀城攻めで、敵将岩成主税に指を噛み
       切られながら、是を討つ。信長、権内を接見して「武勇人を喰い可申顔色なり」・感状・黄
       金百枚拝領。又、信長より「『青颯■の差物・香車の立物』は権内一人たるべし」と言われ
       た。刀拝領。河州片岡攻め討死。志水悪兵衛次男跡式相続)
      半左衛門一安
      (志水悪兵衛次男・養子、悪兵衛は権内姉婿、丹後久美召抱二百石、朝鮮御供・岩山城・
       登菜城・晋州鎮守城攻め首討取る、木付御供、立石合戦御昇建て、首討取る、安岐城・
       富貴城攻御供、加増百石、計五百五十石、鉄砲頭、御番頭次座、キリシタン禁制長崎へ、
       冬夏大阪の陣御供、豊後府内城受取興長出陣御供(父子で)天草の乱寄之初陣御供
      **老いても持ち場を踏候物故**島原の乱組外、病死)
    1、堀口喜六光広:先祖山名藤広入道一雲齋は、三淵伊賀守晴員入道宗賢の同姓親類、将軍
       義輝に仕える、義輝(義藤)一字拝領・藤広と名乗る、泰勝院御供薩摩への途中病死。
      (丹後久美で御切米二十石、宮津御出府屋敷御留守居のとき泰勝院田辺城篭城・宮津屋
       敷より武具・兵糧を船で搬入)
    1、大嶋宗用苗正
      (丹後久美で御擬作、木付御供、大阪の陣木付留守居、木付上庄代官)
    1、今井惣兵衛
      (丹後久美召抱え。文禄三年伏見城築城の時、捨土の事で大谷刑部少輔丁場と争論、鉄
       砲に火を挟んで言葉戦)
    1、近藤八兵衛包定:先祖越後守藤原包治は丹波国亀山住人、織田信長近習。
      (越後守藤原包治五男、丹後久美にて切米十石、木付御供、立石合戦首一、康之の轡を
       執る、安来城、富貴城攻、加増二十石、百三十八石。大阪夏の陣興長御供、木付城解除
       塀櫓支配、加増七拾石計に百五十八石、御鉄砲頭、豊後府内興長出陣御供、病死)

   これらの他にも多くの人が集まったことでしょう。御給人先祖附に表れる武将たちは、馬乗り、知
  行取りの騎馬武者達です。
   
   天正九年康之は、羽柴秀吉の因幡国鳥取城攻めの応援に派遣されます。秀吉は水軍を要請し
  ます。松井水軍の発祥です。鳥取城下湊川の船戦で康之は敵将鹿足民部少輔元忠を討取り、高
  名をあげます。康之は船戦に重い甲冑を着ての戦いは不便であると、鎧・兜を脱ぎ捨てて戦う準
  備をしていたのです。家来の村尾四方助の活躍も大でした。四方助は水練に秀でていました。
  水中に逃げ込んだ鹿足元忠を追って川に飛込み、水中で鹿足を討ち取ったのです。
  秀吉旗下の浅野弾正少弼軍五十艘が助勢に到着しますが、既に戦闘は決していました。
   康之は、八木兵助・多熊源之允・村尾四方助を奉行として、浅野軍五艘の船に討取り首十二、
  捕虜十六名を乗せて秀吉陣中へ差し出します。意気揚々たるものだったことでしょう。
  羽柴秀吉は、「誰も船軍の心懸けはケ様ニ可有事とて、則是松井流と被仰候て御称美被成候・・・
  『此事御陣中に無隠、其比因幡・備前・美作・淡路・摂津・和泉等七・八ヶ国の船軍ニも鎧を着不
   仕候由』右湊川船軍の様子、秀吉公より安土へ御注進・・・・」と康之譜は述べています。

   この頃秀吉は、信長から許された茶の湯の会を催すことが嬉しかったようです。秀吉は、康之が
  千利休門弟の茶の湯者であることを知っています。秀吉は播磨姫路城在陣中、康之に茶室建立
  の適地を見立てて欲しいと頼みます。康之は、候補地を選定します。秀吉が茶室を構えると、茶室
  の場所は、滾々と水が沸き出で、しかも、一旦事あるときは立て篭もって敵を防ぐに格好の要害の
  地でした。さすが、康之の慧眼、秀吉はその地を松井山、水を松井水と呼び、満悦して自ら茶を点
  てて康之に振舞います。
   秀吉が信長から茶の湯を許されて茶会を催すようになったのは、天正六年四十二歳のことです。
  秀吉之茶の湯の初めは、永禄十二年堺で、今井宗久・津田宗久、千宗易との交流が始まった頃
  からのようです。九年の間経験を積み重ねてきたのでしょう。康之はこの年、天正九年には三十
  二歳です。康之に十四歳年長の秀吉は、信長から拝領した馬麟の雀の絵・砧青磁の花入れ・大
  覚寺天目の茶碗・茶入朝倉肩衝・尼崎の天目台・珠徳作の竹の茶杓・鉄羽の火箸・光来茶碗など
  の八色の名物茶器をつかったのでしょうか。
   織田信長は、茶の湯政道をもって、武人は武に励むことこそ本道であると、よほど戦功ある者に
  しか茶の湯興行を許しませんでした。秀吉は信長の直臣ですが、康之はいわば信長の陪臣の立
  場です。それにも拘わらず、三十二歳にして茶の湯の嗜みが諸将に知れるとは、偏に、武芸、和
  歌、諸芸百般に優れた細川幽齋の下に在る事の縁でしょうか。

   天正十年信州へ攻め入り武田勝頼を滅ぼした織田信長は、僅かな供回りを連れて京本能寺に
  入り、是まで蒐集した天下の名物茶器を並べて悦に入っていました。
  六月二日、突然惟任日向守光秀が本能寺に攻め入ります。織田信長生害です。