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   丹後宮津の細川親子は、中国攻め援軍に出発準備を進めていました。そこへ、愛宕下坊幸朝
  僧正より、惟任日向守光秀本能寺急襲。織田信長・信忠生害との早打ちです。
  一方、光秀からは沼田権之助が使者として書状を携えて到着しています。右するか左するか将に
  細川家危急存亡のときです。光秀、忠興は婿・舅。第一番に嫌疑がかかるでしょう。
  藤孝は落髪して光秀と義絶、忠興は元結を切って父に従います。この決意に、康之は京に潜入、
  状況を探ります。収集した情報から「羽柴秀吉による信長の弔い合戦が必定」と、康之は判断しま
  す。まず日頃入魂の丹羽長秀へ、細川親子が光秀に与しないことを飛札で伝えます。
  さらに、秀吉へは、秀吉側近の杉藤七宛飛札をもって、細川父子は秀吉に忠節を尽くすことを伝え
  ます。杉藤七とは杉若藤七、後の杉若越後守藤七無心のことです。秀吉が弔い合戦に勝利すると、
  信長・光秀の領国が戦功によって配分され、忠興は光秀の旧知を拝領します。このとき秀吉は、忠
  興へ配分した三分の一を康之に下すよう但書きをつけます。
  「但し、松井弥人数持候様、右の内三分の一可被遺事尤候・・・」と、康之譜に秀吉書状の写しを
  記載します。さすがに、康之の統率力、軍略を見抜く秀吉の慧眼といえましょう。

   天正十一年の伊勢亀山城攻めには松井半右衛門盛季(角田宗伊嫡子)、賤ケ岳の合戦では、
  越前敦賀の船戦・由良湊で松井紀伊之勝が働きます。松井紀伊之勝とは、嶺山攻め組討高名の
  井上市正のことです。
   天正十二年小牧・長久手の戦いでは、美濃国加賀井城攻めに、園部与一、坂井与左衛門、弓
  削将監、坂本彦六郎、松井紀伊、生田宇兵衛の名前が登場します。坂本彦六郎は討死にです。
  康之は、秀吉から戦功を賞され脇差を拝領します。小牧・長久手での康之の戦いは、家康を感賞
  させ、和睦後、家康は康之を呼び、実際の戦闘について語らせます。小牧・長久手は秀吉と家康
  の戦いです。康之は双方の大将から認められるのです。時代は、羽柴秀吉が掴んでいきます。

   後年、徳川家康が忠興謀反の疑いを抱いた時、家康は康之に向かって、「康之の用兵の妙・武
  者の精強は、小牧・長久手の戦いで十分見知っている。決して近づかず先頭を避け、遠巻きにし
  て攻めることにする」と言って対抗します。後の康之と家康の親交の初めは、小牧・長久手の戦い
  にあるのでしょうか。
   実は、秀吉・家康と康之は南禅寺の玄圃霊三師を通じて親交が有ったのです。
  師は、秀吉からも家康からも帰依を受けていました。応仁以来荒れ果てた南禅寺の復興には、秀
  吉や家康の寄進が有ったのです。そして、玄圃師は既にご存知の通り康之の叔父です。
  こうした関係から康之は、家康が師を訪ねるに当たって度々同行を求められています。
  後年のことですが、ある日康之は突然の腹痛に襲われます。立つも坐るも身も世もない程の痛み
  です。見かねた家康は自分の輿に康之を乗せて送ります。この輿は将軍家格式の乗輿です。
  以降康之は将軍乗用の輿を許されて、参府に使用します。
  この年、康之は胃助康之の名乗りを新助康之と改めました。

   天正十三年根来寺攻めです。四月には四国が平定されます。長曾我部元親は降参して領国召
  上げの上、改めて土佐一国が与えられます。越中へは佐々成政攻めです。康之の水軍が北国表
  へ回航します。千利休から康之に情報を知らせる書状が来ます。佐々成政は剃髪黒衣姿となって
  秀吉に降参します。利休から再度康之へ返書が届きます。天下の情勢に利休が係っています。
  十一月には、信長から拝領した山城国神童寺村、康之の母へ下された山城国愛宕郡八瀬村の知
  行が秀吉から安堵されます。

   天正十四年秀吉の東山大仏殿建立の普請に上京した康之は、病を得て西加茂に静養します。
  利休から見舞いの手紙が届きます。康之の返書に、さらに利休の返書です。暮れの十二月、康之
  は叙任されて従五位下佐渡守となります。秀吉からは豊臣姓と菊桐紋を下されます。豊臣佐渡守
  康之となりました。康之継嗣興長の代まで豊臣姓を使用します。
   さて、関白秀吉が後陽成天皇聚楽第御成戴いた時のことです。叙任した康之は諸大夫と共に行
  幸に供奉しました。そのとき、帝は康之を召されて、康之の父正之や祖父の勤皇の意思を感賞な
  されて幔幕を賜りました。嘗て禁裏窮乏のとき、康之の父や祖父が後奈良天皇葬送の為の金策
  に走り、毛利氏を説き伏せて御用を務めたことを思い出されたのです。後年徳川の世に、この天皇
  恩賜の幔幕を康之は江戸参府に使用したといいます。

   天正十五年、秀吉は九州征伐へ三十万の軍勢を差し向けます。細川忠興は三千余の軍勢を率
  いて従軍します。康之もお供します。忠興は、豊前国田川郡岩石城の先駆けを、前田利長、丹波
  少将秀勝、松島侍従氏郷とともに命ぜられます。立て篭もる熊井越中守も奮戦、よく凌ぎます。
  牛馬三百匹を繋ぎ合わせ、尾に松明を結わい付けて追い出し、後ろに城兵を続かせて打って出ま
  す。忠興備えでは康之が下知して鑓の長柄を叩き、惣旗を振り動かして牛馬を追い払います。
  鉄砲を隙間なく撃ち続けます。隙を見て切りかかります。三百匹の牛馬の突進に少しも陣備えを乱
  さず御昇りを敵本丸に向かって進めます。細川軍の進撃を秀吉は杉原山から眺めて、「今に始まら
  ざる長岡の筋違昇は松井新助か」と、牧村兵部を遣わして感賞します。牧村兵部は千利休の茶の
  湯の弟子です。忠興や蒲生氏郷と並んで利休七哲の一人です。

   この頃、隠居した藤孝は幽齋玄旨と号して「敷島の道」を探求しています。和歌の道です。
  九州島津征伐には自ら従軍を申し出て、秀吉を感賞させます。幽齋は、海路船で津々浦々、人々
  と交流しながら九州を目指します。途中、久美松倉へ立ち寄ります。康之嫡男禅門が饗応しました。
  幽齋は島津義久、あるいは一族の喜入、新納などと親交があり、去る天正十三年には、幽齋と千
  利休連名で、秀吉の意向を島津氏に伝える役回りを演じています。九州陣で幽齋は島津歳久に
  切腹を強要、島津家を豊臣秀吉に臣従させて事を納めて働きます。

   天正十八年、秀吉は小田原征伐に二十万の軍を進めます。幽齋も忠興も従軍しました。
  忠興は、伊豆国韮山城攻めを受け持ちます。先手は長岡玄蕃頭興元、松井康之です。
  韮山城を守るのは、北条氏政舎弟美濃守氏規です。寄せ手は、忠興他、織田信雄、蜂須賀阿波
  守家政、中川秀政、森忠政、福島正則、蒲生氏郷、戸田勝隆以下三万五千の兵です。
   このとき忠興は三島に陣を敷いていましたが、秀吉の検使竹中貞右衛門政次、石尾与左衛門
  治一の到来が遅れて夜明けに到着します。両将到着の時忠興は風呂に入っていました。二人は
  忠興に誘われて湯に入りましたが、湯から上がると、細川軍の本陣を取り巻いて暗闇の中にニ備
  えの軍勢が配備されています。二人は一瞬戸惑いました。湯に入っている間にさしたる物音も聞こ
  えなかったのです。「永禄以来度々の合戦に物慣れ候故とハ申しながら、何の物音もなくいつの
  間に備え候かと被致感心候」と先祖由来附は記します。正しく、康之は永禄十一年の初陣いらい
  二十余年、数多の戦場を踏んでいました。
   韮山城への道は、山路険阻で荊が生い茂り人も馬も進めません。康之は予て配備の鍬部隊を
  出動させて道を切り開き、速やかに隊を進めます。秀吉は是を賞美して、以降自分の軍に鍬部隊
  を創設します。徳川家康も是を聞いて「畝鍬衆」を定めます。忠興も自ら行動します。韮山城南出丸
  に自ら忍び込んで敵情を視察して下知します。先手は興元です。康之は、先手の城乗り込みを出
  丸の塀際に張り付いて支援します。興元勢が出丸に乗り入れてしまうと、康之は歩卒一人従えて
  引き揚げます。先祖由来附は「歩卒一人召連れ静々と後殿仕候・・・」と記します。
  この様子は軍目付け芝山監物より秀吉へ報告されます。芝山監物も千利休の茶の湯の弟子、利
  休七哲の一人です。
   秀吉は、城が落ち、秀吉に降った北条氏規に篭城手配の要諦を訪ねます。氏規は篭城には余
  分な南出丸を附置いて、却って細川忠興に名を成させたのが残念である。ただ、一人引き取って
  いく武者を、城中から逃がすまいとして鉄砲で狙っていた兵に、あたら惜しい武者を殺すなど要ら
  ぬことと、押し留める下知をしたが、その武者が松井と知っていれば、氏規一騎罷り出でて勝負し
  たものを、知らずに返した事が残念である。「人の内の家老ニ又とハあるまじき事」と云って悔しが
  ったと、先祖由来附は敵将にも知れ渡る康之の姿を述べます。
   小田原開城のあと秀吉は、奥州検地を浅野長政、石田三成、大谷吉隆らに命じます。
  このとき、康之は、忠興帰陣後も浅野長政に従って奥州検地を進めます。奥州では伊達政宗が
  謀反を企てます。康之は会津二本松に逗留を余儀なくされます。

   天正十九年伊達政宗は、徳川家康、浅野長政の説得で人質を出し、事を治めます。
  康之は、秀吉から奥州での心労に対して銀の尖り笠に兎の耳脇立て物のある兜一頭と紺糸威の
  鎧を拝領します。正月、二本松逗留の康之に利休から書状が来て、政宗の謀反は紛れもなく、秀
  吉が三月には出馬する予定であることを知らせます。利休は深く政治・軍事にかかわっているよう
  です。千利休、秀吉より勘気です。二月十三日、秀吉は、富田左近将監・柘植左京を使いとして、
  利休へ聚楽第より堺へ下るよう命じます。さらに、二十八日には切腹を命じます。多くの利休の弟
  子のうち、細川忠興と古田織部の二人だけが、淀の川辺で利休を見送ります。康之は奥州から利
  休へ書状を送って見舞います。

   文禄元年、秀吉は、朝鮮出兵を企画して肥前名護屋城を築きます。康之の嫡子禅門は、忠興の
  諱をもらって松井与八郎興之と改め康之に従います。初陣です。朝鮮に渡海すると、忠興は釜山
  浦へ着陣します。慶尚道岩山城を攻めます。先手は康之です。その先頭を康之嫡子与八郎興之が
  疾駆します。家来、村尾勘兵衛、坂井与左衛門が従います。忠興旗下の牧新吾、加々山少右衛門
  沢村才八のほか、有吉四郎右衛門が城の石垣に取り付きます。康之の下からは、松井長助、松井
  市正、田中理右衛門、橋本与助、下津半右衛門、本島備後、中川下野が塀を越えて乗り入れます。
  玄蕃頭興元に敵の矢が当たりますが浅手です。米田助右衛門が奮戦します。与八郎興之が敵の
  矢にあたり傷を負いました。
   同年九月、昌原城攻めです。与八郎興之が先頭を行き、鑓を合わせて敵首を討ち取ります。
  家来井田太郎兵衛が働きます。与八郎の働きは、忠興を、秀吉を感賞させます。
  「御陣中の面々も康之子程有之候由称美仕候」と、先祖由来附は誇らしげです。
  十月には全羅道晋州城を二万の軍で攻めます。康之家来、村尾勘兵衛、佐藤平左衛門、生田鵜
  兵衛、本島又三郎、田口弥助が敵首を取りますが、激戦です。康之も玄蕃頭興元も傷を受けます。
  与八郎に付けた康之家来米持助次郎討ち死にです。十八歳でした。

   文禄二年六月二十九日暁天、晋州鎮守城惣攻めです。加藤清正が勇決の士を募って亀甲の甲
  盾を手に、石垣際に押し寄せます。大手門左脇石垣の大角から攻め上がります。康之嫡男が先を
  進みます。与八郎は、先に受けた傷が癒えません。病を押しての出陣です。康之の家来松井仁平
  次が一番に詰め橋を登って進みますが傷を蒙ります。続く和田五兵衛は討ち死にです。井田太郎
  兵衛が傷を負いながら進みます。中山仁左衛門、下津半左衛門、前野九兵衛、田中理右衛門、小
  森角助、中川下野、本島備後、後藤但馬、坂井与左衛門、平位助大夫らが城へ乗り込みます。
  与八郎が病の上にまたまた矢を受け、忠興も心配して釜山浦まで帰して治療させます。
  更に、名護屋に帰国させます。名護屋では秀吉から医者が差し向けられ投薬療養しますが、回復
  しません。康之は晋州城一番乗りの高名を得ますが、嫡男与八郎興之を失います。
   十一月、帰朝した康之は秀吉に召し出され、石見半国十八万石を与え秀吉直参とする旨申し渡
  されます。しかし、康之は細川幽齋・忠興の恩義に背くことはできないとして、断ります。康之の志
  に感じ入った秀吉は、康之が織田信長から拝領した山城国相楽郡神童寺村及び愛宕郡八瀬村の
  知行安堵の朱印状に茶壷を添えて贈ります。この茶壷を「深山」といい、後世、十八万石の壺と呼
  ばれます。徳川家康も話を聞いて、愛用の水差を「縄簾」と銘を付けて康之に贈りました。
  忠興は康之に五万石を給地することを約束します。

   文禄三年秀吉は、諸国から二十五万人を召し寄せて伏見城を築きます。忠興は康之へ普請惣
  奉行を命じます。このとき康之は伏見に来ていた徳川家康に願い出て二男吉松家督相続のため、
  予ての約束が果たせないことを断ります。吉松は成長を待って、徳川家直参として仕えることが、
  家康と康之の間で約束できていたのです。その後、吉松は忠興の一字を下され、松井新太郎興長
  と名乗り家を継ぎます。
   この伏見城普請のとき、細川家丁場と大谷刑部丁場と捨土のことで争いが起きます。忠興家来
  大矢木小兵衛、康之家来奥谷次右衛門が、大谷家臣達に石垣の上から髷をとられて吊り上げら
  れる事件が起きました。このとき、康之家来今井源六が働きます。脇差で相手の指を切り払い次
  右衛門を取り返します。今井源六は、後、西垣正大夫と名乗ります。
   伏見城完成の後康之は城下に屋敷を拝領し、元和元年伏見城取り壊しのとき、屋敷の門を京都
  南禅寺に寄付します。南禅寺松井門です。

   文禄四年、関白羽柴秀次謀反・生害という事件が起こります。羽柴秀次の家老前野出雲守は、
  忠興の娘婿です。しかも、忠興は朝鮮渡海の軍費に黄金百枚を秀次から借りていました。
  石田三成は忠興も秀次一味であると讒言します。秀吉は「明智謀反ニさえ一味せさる与一郎なれ
  ハ、黄金百枚のことにてよもや同心ハすまじ、然共前野出雲守は婿なればいかがと思うなり、先ず
  黄金を急度返し、出雲守か妻を出し候へとの御定に付・・・・・黄金乏敷御座候ニ付、前田利家卿に
  ・・・・・浅野弾正殿へも・・・・・京都へ種々才覚仕候得共・・・・・・」と先祖由来附は苦衷を記します。
  金策が出来ません。康之は、日頃入魂の徳川家康を頼ることを忠興に進言します。早速、康之は
  家康家来本多佐渡守を通じて家康に伺いを立てます。家康は風邪で臥せっていましたが、松井な
  ら会おうと、臥所の蚊帳の中に招き入れ、家康手持ちの黄金百枚を内々で康之に渡してくれました。
  折から残暑厳しく康之は蚊帳の中で大汗を掻いています。家康は手元の扇を手渡して、「是を仕ひ
  汗を納候様に」と、扇子を渡します。事件は、康之の活躍で事なきを得ました。
  忠興は三女古保を康之二男興長へ嫁がせます。

   慶長二年、忠興嫡男忠隆は前田利家の娘を娶ります。嫁入りの輿受け取りは康之でした。

   慶長三年、豊臣秀吉が死去すると、康之は大名に並んで秀吉の遺品を拝領します。
  時代は、豊臣対徳川の争いへと移って行きます。
  石田三成の細川家への謀略讒言は、康之に及びます。三成は、細川家から先ず康之を除く事を企
  てたのです。三成は、秀吉没後の康之への扱いを責めます。大名に伍しての秀頼への恭順の誓
  詞全く大名としての扱いである太閤遺品の分与等。また、秀吉亡き後、家康との別して懇ろな交流
  は、先の太閤よりの石見半国の申し出を断ったことを思い起こすまでもなく、康之の望みが石見半
  国くらいのことでなく、大きな野望があることなどと讒言を繰り返します。康之は、幽齋・忠興の勘気
  を蒙り伏見屋敷に蟄居します。三成の思う壺です。康之を幽齋・忠興のもとから排除した三成は、更
  に、徳川家康に向かって忠興陰謀との讒言を繰り返します。前田肥前守と語らって軍備を整えてい
  ると、家康へ密使を遣って讒言します。家康にとって、真偽は無用でしょう。加賀前田家を風下に置
  く好機です。家康は前田攻めを言い出します。早速、前田の押さえを丹羽加賀守へ命じます。細川
  の抑えを丹波衆に命じます。忠興に向かって家康は、「丹後は雪国也、道の塞がらぬ内早々国へ
  被帰、馬の草出来候時分一左右ニ預かるべし、其節馬を出し宮津にて対面せん、城を被飾相待候
  へと、『老足の事なれハ六ケ敷候間、一の馳走に道を造らせ被相待候へと』有馬法印・前田法印を
  以って伝えるよう命じます。有馬、前田の両法印は、あわてて松井を呼びますが、康之は蟄居して
  います。幽齋も家康に弁明します。忠興も使者を送って弁明しますが、家康は聞き入れません。
  有馬、金森両法印は、忠興の無実を信じて榊原式部大輔と相談します。何であれ兎に角、康之が
  出てこなくては首尾整わない状況であるとの結論です。朽木民部太夫・氏家志摩守も噂を聞いて
  心を砕きます。康之は煩いということだが、事実は勘気を蒙って蟄居しているということがわかりま
  す。康之の心底は、細川家のために心を砕くすべての人が知っています。康之に私曲はないので
  す。有馬・金森両法印から、忠興・康之に宛てた、十月十七日、十八日の書状は康之を急がせる
  ものでした。康之は、許されて十月十九日伏見を発します。翌二十日、家康のもとに登営します。
   家康は、永井右京太夫を通じて、「丹後の道は創りたるか。城は飾りたるや。人数の用意せしか。
  武具・兵糧以下何にても事を欠き候ハバ合力すへし、心安く緩々と籠城の用意すべし、合戦の議は
  小牧ニて其方手並を見及候ニ、およびなれバ危うきことをせず、一里も間を置、濠を掘らせ、鉄砲を
  立並遠攻ニすべし、其覚悟仕候へ」と云うと、康之を御広間から追い返します。康之には事の成り
  行きが分かりません。康之の当惑に、榊原・永井の家康近臣は、さては、康之煩いとは、勘気を蒙っ
  ての蟄居であったかと合点します。これで疑いは一気に氷解します。石田三成の陰謀を皆合点した
  のです。しかし、家康は抜け目が有りません。幽齋、玄蕃頭興元、康之連判の誓詞を要求します。
  家康への細川家恭順の証です。ただ、当主忠興は丹後にいます。報告、返事のやり取りには時間
  を要します。時間が掛かっては、忠興恭順の意思を疑われます。先祖由来附は有馬・金森法印の
  書状を載せます。

    「急度申候、御身上内府様へ申入候、一たん御懇の御返事候、然ハ幽齋公・玄蕃殿・松井
     ニせいしを仕候へとの御意ニ候、其通各へ申渡候処ニ、貴方様へ尋ニ飛脚を被遺候間、
     其一返事次第可仕旨候、左様ニ相延候へハ貴方様の御内意を御両三人難計付キ、たつ
     ねニ被遺之候と、内府公思召候へハ、此中御粗略なき通相違申候様ニ候間、御為候条貴
     所御まへ各請乞、せいしさせ可申候、為御心得令申候、             恐々謹言
        十月二十一日                               有中
                                                金法
           越中殿
     返々御ためニ候間、御返事ニ不構、誓紙請乞候て可申候間、為御心得如此候、以上


    「両人御誓紙の儀、越州は無届御判形、御迷惑由無余儀候、併公儀相究上遅足候へハ悪候
     条、既に両人方より越州へ、右の様子御届申候、殊案紙を被出上被相延事不可成候、若
     越州不相届様ニ被仰候は、其時御家の為に御両人御身上可被相果候、只今何角候へハ
     越州覚悟を、御両人も御うたかいと可被思召候、就其幽齋も達て被仰事候間、御同心第一
     候、猶以越州御前をは請乞申候、為其令申候、         恐々
          二十二日                                有中
                                                金法印
           長 玄蕃殿
           松 佐渡殿

   何と緊迫していることでしょうか。大名細川家の当主の同意を求めることが、当主の恭順の意思
  を疑われるのです。それほどに玄蕃、康之の重みがあったとも云えましょうが、君臣の心が一つで
  あることの証明こそが重要だったのでしょう。家康にとっては、玄蕃、康之を忠興からもぎ取って、
  忠興を討ち果たしても構わないのです。
   こうしてどうにか一件落着を見ましたが、忠興は、透かさず三男忠利を家康のもとへ人質に出しま
  す。玄蕃、康之も同様です。さすがに、忠興も負けてはいません。まだ、諸大名が江戸へ人質を出
  す事が、制度化されていない時期のことです。
   加賀前田家からは、当主の母、先代前田利家の妻お松が江戸へ降りました。

   慶長五年初春、忠興が徳川家康に召しだされます。豊後国木付に六万石の明地があるので、大
  阪屋敷の御台所料に進ぜようとのことです。徳川家康は、忠興の勝手向き不如意を聞き知ってい
  たというのです。康之は、二月二十一日丹後久美を発って、豊後国速見郡湯布院の知行目録を請
  け、自分の侍二十一騎、兵二百余を従えて播州室の津から船で豊後杵築へ到着します。
  三月二日のことです。翌三日、城を受け取ります。
   細川忠興も新領地を巡検に豊後へ入りますが、家康の会津出兵で先手を申し付けられます。
  忠興は、松井新太郎興長を康之名代として召し連れ、康之は木付へ残るよう指示します。
  新太郎興長十八歳、康之五十歳、忠興三十七歳のことです。細川家も幽齋・康之・興元の時代か
  ら二世の時代へと移って行くようです。
   松井佐渡守康之が父とも兄とも慕う細川兵部大輔藤孝が、幽齋玄旨と号して既に十八年の月日
  が流れています。幽齋はこの年、「今ははや ゆつりやはてん昔みし いもかかきねをとつる
 葎に」と詠んで、智仁親王に古今伝授をしました。幽齋は武人でありながら、敷島の道の最も高い
  嶺を歩いていたのです。京、吉田の幽齋邸で今出川右府亜相光儀と乱舞に及び興に乗って、西王
  母の曲に合わせて撥を取り、又、亭主振る舞いの鯉料理の腕を披瀝したのもこの年でした。
  太鼓の撥を取っては時の名人上手を感涙に咽ばせ、鼓や笛の音に合せた四条流包丁捌きは、手
  品のように絶妙と評されたのです。幽齋は六十七歳になっていました。
   康之にとって、戦場に行けないこと、それは、一瞬の感慨だったかも知れません。生涯五十余度
  の戦闘に一度も後れをとらず、戦い抜いた康之です。
   しかし、家康の上杉征伐の背後から、石田三成が兵を挙げます。三成の最初の標的は忠興に向
  けられます。夫出陣の後を守る忠興の妻お玉に目をつけたのです。大阪玉造の細川邸は、三成の
  軍勢に囲まれます。再三の人質要求に、玉は一歩も譲らず、頑として三成の要求を跳ね除けました。  
  だが、其の結果は一筋道です。玉の命をかけた抵抗です。玉が人質となることを拒否して命を懸け
  る事は、夫忠興の家康への忠誠の証にも、又、家康に従う豊臣恩顧の大名達の心をも一つに繋ぐ
  出来事です。玉造の屋敷は炎に包まれ、玉は家臣小笠原少齋の長刀にかかって果てました。
  玉は武人の妻として自ら命を絶つことは出来なかったのです。切支丹は自ら命を絶つことを禁じて
  います。玉はガラシャと洗礼名を持っていました。
   先祖由来附は「大阪越中屋敷へ、御奉行衆より人質の儀、達て被申ニ付、女房衆自害、家へ火
  をかけ、小笠原少斉、稲富伊賀守、河喜多岩見、両三人腹を切り申旨候事」と記します。

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