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        ニ、松井新太郎興長(長岡佐渡守)と家臣たち

   松井新太郎興長は、天正十年丹後久美で誕生します。母は、幽齋養女沼田上野介娘です。
  文禄四年忠興の女古保を娶ります。古保には、芳賀佐助他男女多数がお付として従います。
  新太郎興長にとって忠興は、義叔父、義父・舅です。興長の母と忠興は従兄妹です。
  慶長五年細川忠興は、徳川家康の上杉征伐に康之名代として、興長を召し連れます。
  興長十八歳です。興長は忠興の嫡男細川与一郎忠隆に従います。与一郎忠隆は天正八年
  の生まれ、二十歳です。興長に従うのは、松井新太郎、松井長助、松井市正、佐藤平左衛
  門、生田鵜兵衛、入江久兵衛、中路甚太夫の七騎他、明石半四郎、粟坂平助、本島又三郎、
  桐山久四郎、宇野九助、川野彦兵衛、小原太郎八、岡弥助、井田惣右衛門、渡辺弥兵衛、
  井上理兵衛、中路助十郎、中山仁右衛門、飛尾弥右衛門、左山与助、稲津忠兵衛、原久右
  衛門、足軽、中間以下三百余人です。

   六月二十九日、石田治部少輔叛逆、兵を挙げて関東へ攻め降るとの知らせです。下野国
  小山の徳川家康本陣で軍議です。小山から大返しです。
  忠興は、八月十三日、尾張清洲へ着陣して諸将の到着を待ち合わせます。
  八月二十一日、岐阜城攻めです。忠興は、追手口の先陣です。二十二日早暁、萩原の渡し
  を越して竹ヶ鼻へ陣を敷きます。搦め手では、池田三左衛門勢が光明寺川で岐阜勢と合戦
  に及んでいます。日暮れになって、岐阜勢敗軍との報せです。岐阜勢は城に立て篭もります。
  岐阜城は天下の要害です。三方を深田、沼、切崖に囲まれ、人馬は通れません。
  城への通路は西から三筋、七曲、百曲、水の手口の通路を行くしかありません。
  この道も難所です。しかも、岐阜勢よく守って容易には抜けません。忠興、加藤左馬介勢が
  七曲口へ攻め寄せます。福島左衛門太夫が続きます。敵は坂の半ばまで引き退くと、打って
  返して鉄砲を撃ちかけます。上から下へと鉄砲の狙い撃ちです。忠興勢が一番に進みます。
  興長も進みます。敵の鉄砲は勢いが衰えません。隙間なく撃ちかけてきます。味方が崩れか
  かります。興長は退きません。粟坂平助が興長に従って踏みとどまっています。味方を励まし
  て押しとどめます。折から、岐阜勢は瑞龍寺砦が落ち、逃げ走る落人をみて動揺が走ったと
  ころです。忠興が見逃しません。よき乗り潮とばかり下知します。細川勢は競って岐阜城本丸
  へ攻め込みます。興長は素早く、追手の櫓南の平らへ討ち入り場所を取ります。城からは、矢
  や石が、雨霰と射掛け、投げ掛けられます。興長の前に矢盾とばかり田口弥助が立ち塞がり
  ます。弥助に矢があたります。傍らにいた佐藤平左衛門、中路助十郎、小原太郎八も傷を受
  けます。中山仁右衛門、河野彦兵衛、岡弥助、井田惣右衛門、松井市正家来田口半助が働
  きます。大手門脇には一番に松井新七郎が取り付きます。生田鵜兵衛は同じく大手門口に
  一番です。入江久兵衛討死。城中より鉄砲が一斉に放たれます。一瞬、興長の兜が撃ち抜か
  れます。深手です。忠興が見逃しません。間髪をいれず興長に引き退くように下知します。
   忠興は既に戦場にあること二十余年千軍万馬の勇将です。攻めるも引くも一瞬の迷いもあ
  りません。この時、康之に見守られながら先陣を駆けた大和国片岡城攻めを思い浮かべたか
  も知れません。康之が忠興に、忠興が興長にと人も時も移っています。
   九月十四日、岐阜城落城の報せを受けた徳川家康が赤坂に着陣します。諸将を寄せて軍
  議を開き、陣替えを決めます。其の晩、西国勢が大垣城を出て関が原に陣を張ったとの報せ
  です。最早、陣替無用、即刻出陣の命が降ります。忠興は十五日未明軍を進めます。
  興長は傷が癒えません。傷を押して出陣を願い出ますが、許されません。忠興は朝鮮での松
  井与八郎興之の姿が浮かんでいたのかも知れません。興長は松井市正之勝を陣代として兵
  を添えて忠興に従わせます。関が原の合戦です。

   松井市正之勝が傷を蒙ります。松井長助定勝が敵首を討取ります。中路平太夫が敵を討ち
  ます。討ち捨てです。粟坂平助が鑓傷を受けながら敵くびを討取ります。生田鵜兵衛、中山仁
  右衛門、渡辺弥兵衛、井上理兵衛が働いて、敵首を討取ります。松井新七郎安秀は、忠興の
  意に添って、与一郎忠隆の下にいます。働いて敵首を討取っています。新七郎家来小森角助
  も敵首を取っています。

   興長は、豊後杵築の康之へ家来の働きを報せます。使者は国松ひょん之助です。

         きふにての覚書
     本丸
       追手の門
      一番 松井新七郎、生田鵜兵衛
      二番 本島又三郎、明石半四郎、松井長助 少しのち、喜運 少しのち
                                              以上
     昇り  彦助

       新太様おそはニ御供仕候者
          次第不同
        佐藤平左衛門・手負い、田口弥助・同、中山仁右衛門、粟坂平助・同
        河野彦兵衛、中路助十郎・同、岡弥助、井田惣左衛門、松井市正小姓田口半助
                                              以上
       せきかはらおもてにてこうめう仕おほえ
        一、首一ツ 新七郎  きふにても吉
        一、同    右兵衛  同
        一、同    二右衛門   同
        一、同    久右衛門   同
        一、同    平助  きふにても吉
        一、同    長助   同
        一、同    渡辺   同
        一、同    井上理兵衛   同
        一、同    新七郎者角助   同
        一、甚太夫は討ち捨てに仕候
        一、新太御手然々無之ニ付、其御かつせんニ御出なく、御こうめう御座なき御事
           候、佐藤同前に候、委ひょんの助ニ申ふくめ候間申残す候、恐惶謹厳

               九月二十三日                      之勝・判
           後藤三左衛門殿

   細川忠興、忠隆、興長が徳川家康の上杉征伐に発った後、石田治部少輔三成は、忠興
  室玉を人質に取ろうとして、却って玉を自害させ、一方では丹後の幽齋を攻めます。
  幽齋は僅か五百の兵をもって篭城します。宮津、久美、峰山、中山などの諸城に配置され
  た家臣の妻子、郎党が、田辺城に集まります。女子供と留守居の僅かな家臣たちです。
  寄せ手は、小野木縫殿助公郷を主将として、壱万五千の兵で田辺城を遠囲みに包囲します。
  七月二十一日のことです。田辺城は三方を山に囲まれ、出入りは海に面した北側です。
  攻めるも守るも、北面を取ることが肝要でした。幽齋は一月以上篭城に耐えます。
  京では、幽齋の死を惜しむ声が大きくなります。幽齋の死は、歌道の断絶を意味します。
  幽齋もまた、歌道の絶えることを思い、予て教示していた天皇の弟八条宮智仁親王に対し、
  古今伝授を奉るべく申出ていました。こうして、幽齋の死による歌道の断絶を叡慮された天
  皇は、八月二十七日、弟宮八条宮智仁親王を勅使として、幽齋へ開城すべく、智仁親王家
  老大石甚助を遣わされます。しかし、幽齋は応じません。却って、古今相伝の箱と証明状に
  和歌一首を添え、源氏抄箱一、二十一代集と共に禁裏へ献上することで、必死の覚悟を伝
  えます。その一首

       いにしへも 今もかはらぬ世の中に こころの種を残す言の葉

  又、烏丸光弘に宛てた一首

       もしほ草 かきあつめたる跡とめて 昔にかへる和歌のうら波
                                                    と。
   天皇はこのことをお聞きになると、詔を発して、田辺城の攻囲を解くように京都所司代前田
  玄以に命じられます。前田玄以は、倅茂勝を田辺城に派遣して、幽齋に開城和睦を勧めます。
  しかし幽齋は応じません。
   九月十二日、後陽成天皇は勅使を田辺へ差し向けられます。中院中納言通勝、三条西宰
  相実枝、烏丸頭弁光弘の三名です。何れも幽齋所縁の公卿たちをもって両軍に対して、和
  睦を命じられたのです。さすがに寄せ手の諸将は道を清めて、矛を伏せます。
  幽齋も恐縮感じ入り、開城降伏を決意します。しかし、敵に降ろうとはしません。
  勅使に従っていた京都所司代前田玄以に城を渡して、玄以の居城丹波亀山城に入ります。

   幽齋の篭城戦は、関が原合戦に先立つ戦いでしたが、東西の決戦を左右する大きな出来
  事でした。関が原合戦から帰国する忠興は、徳川家康に小野木縫殿助討伐を願い出ます。
  帰国の途上忠興は幽齋の無念を晴らすべく、丹波国の小野木縫殿助居城福知山城を攻め
  ます。九月二十七日のことです。松井興長も従います。同月二十九日惣攻めに出ます。
  その時、徳川家康から山岡道阿彌が差し向けられ和戦開城の使者となります。小野木縫殿
  助は願わくは、松井佐渡守へ城を渡したいと申し出ます。康之と縫殿助は予て親しく交わり
  があつたのです。道阿彌から忠興へその旨が伝えられます。忠興は、康之が豊後に居り、倅
  興長が騎下にあることを縫殿助に伝えます
  「今日ハ松井せかれ申付遺候、残者は遺り申ましき事」と興長譜は忠興からの覚書を記しま
  す。興長は、松井新七郎、松井長助、佐藤平左衛門、松井市正伊川召連れて城の受け取り
  に向かいます。

   慶長五年、忠興は豊前一国並びに豊後の内三十万石を拝領します。丹後から国替えです。
  忠興嫡男忠隆が「思いの外遠い国に候」との忠興の感慨を、康之宛て書状に認めます。康之
  が豊前、豊後の受け取りに下ります。興長が久美松倉の受け渡しを整えます。

   慶長六年、興長は中津城下に屋敷を拝領し、長岡の称号を許されます。長岡式部少輔興
  長と改めます。しかし康之は松井のままです。康之が松井の名を上げ世に知られていたから
  です。康之は松井康之でなければいけません。
  「此節松井は人の能知りたる名故、苗字を御替不被成、新太郎を長岡姓に・・・興長父松井
  佐渡守康之儀は、兼々松井の苗字迄を被成御呼御書の御宛所も御同前ニて、自他と共多
  くは苗字を唱候由ニ御座候」と、康之譜は記します。
   同年十月、康之・興長連名で知行二万五千九百九十四石が下されます。時代は興長へと
  移っていきます。

   慶長十年、興長は幽齋より歌道の伝授を受けます。
  同年三月、幽齋が初めて康之居城杵築城を訪れたときの和歌の会の詠歌です。

      陽春祝君
     浪風も おさまる君か御世に生まれ ひとし心も春にのどけし
  
  また、歌道伝授の折の詠歌

     敷島の 道を思えハ外ならて なとに五つの常に社あれ

   慶長十二年には、忠興が、飛鳥井雅庸から蹴鞠の奥義四本松の相伝を受けます。
  興長も同じく飛鳥井門弟です。忠興と同時に三本松の免許を受けます。
  忠興は、歌会を催します。

      詠松添栄色
     うれしさを なにいたとえむ我やとに 植し四本の松のことの葉
                                     参議忠興
  興長も次のように詠みます。
    
     としことに ミとり立そふ松の葉の かわらぬいろやためしなるらむ

      寄山恋
     恨ミなお あさまの山の人こころ こへつつふかき道ハありとも

   慶長十三年以降康之は病みを煩うことが多くなります。
   慶長十六年十二月、興長が家督を継ぎ、翌十七年正月康之は没します。

     あさし世を さこそ恨めたらちをの 別れハよその袖さえもうき
                              と、忠興が詠み送ります。

     おほけなき 恵ミの玉のことのはに いとと袂の露そほしえぬ
                              興長の御返しです。
  さすがに、「康之子程有之候」と、諸将から賞美された兄興之に武人康之の面影を、歌道の
  伝授を受け、蹴鞠の稽古に励む興長に、武人として文人として諸芸に堪能であった、康之の
  血脈が感じ取れるようです。時代は、長岡佐渡守興長へと移りました。

  興長召抱えの家臣を挙げてみます。
  藤木孫兵衛(興長に殉死)、木本権衛門正守(興長に殉死)、後藤新兵衛真勝(興長に殉死)、
  原作太夫久矩、豊田甚之允高久、頼藤杢之助具定(興長に殉死)、高野平右衛門近形、高
  橋勘右衛門、仲井八郎右衛門貞吉、中嶋与右衛門則重、中山藤兵衛正明、山田弥兵衛安
  常、後藤但馬守基正、小沢忠右衛門弘治、江見善兵衛重昌、三上勘左衛門能信、皆吉杢太
  夫武貞、蓑田佐左衛門、三宅宗琢運次、猿渡五郎左衛門元秀、坂本伝之允(暇、伊左衛門、
  直之召抱え)、市野弥十郎初代守田三太夫、中西孫之丞宗員、村上与右衛門氏長
  興長召抱えの家臣たちです。
  もちろん、他にも多くの家臣が興長に召し出されたものでしょう。

   天下の様相は、豊臣、徳川が対抗したまま進むかに見えます。しかし、徳川秀忠が征夷大
  将軍を継承します。源家、足利家に倣って徳川家が武門の棟梁であることを明示したのです。
  徳川は新田氏を冒して称しています。
   康之没後二年、大阪冬の陣です。元和元年大阪夏の陣が終わると、徳川政権が確立します。
  「武」の時代の終焉です。
   第二世代細川忠興、松井興長は、草創の徳川政権の下大名細川家として政権政治の中に
  家を全うして行くことに成ります。
                  
                            −完−