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   豊後杵築へは、旧主大友氏の軍が押寄せます。
  丹後田辺では幽齋が篭城しています。細川家は、関が原、丹後田辺城、豊後杵築城と三方面
  の戦闘を余儀なくされました。康之は、杵築で奮戦します。大友軍の大友義統は速見郡立石の 
  要害に立て篭もります。大友家老臣吉弘嘉兵衛統幸は、西軍豊臣方に勝算のないことを説い
  て家康に与する事を主張しますが、入れられません。杵築の城攻めを散り時と決めて戦いに臨
  みます。必死と定めた一党が大内山木田台若宮馬場に集結します。杵築城に浪人青木三郎右
  衛門と名乗る者が、大友軍の攻撃を知らせます。康之懇意の浪人です。康之は、家来下津半
  左衛門、木付右馬允の下に青木三郎右衛門を配します。斥候を出して敵状を確かめます。
  九月八日、既に大友勢は四郎岳に駐屯しています。少人数です。何の気遣いもしていません。
  杵築は長年の大友氏の領地です。民衆の全てが大友方に親しんでいます。一方、康之の許に
  一騎当千の有吉四郎右衛立行の姿は有りません。立行は、肥後高森へ進軍している黒田如水 
  軒との談合に出ています。如水軒の援軍は緒戦には間に合いそうにありません。
   夜討ちです。吉弘嘉兵衛は杵築城内の都甲兵部と内通していました。九月十日の夜、城内か
  ら火の手が上がります。吉弘勢は城下に火をかけます。城から逃走して、大友・吉弘方に入る
  者がいます。野原太郎左衛門が敵方に走っています。木付右馬允は、康之への忠節を守って
  持ち場を動きません。雨が降り始めます、火勢が弱まります、夜も明け始めました。
  しかし、敵は杵築城百姓丸に攻め込んでいます。近くに居合わせる康之家来は、中川下野、井
  口六兵衛、下津半左衛門、坂本三郎右衛門、今井惣兵衛の六騎です。中川下野が鑓を引っ下
  げて敵に走り寄ります。敵は上野長助、長刀で中川下野を打ち倒し、組み伏せます。
  首を取りに来る長助の鎧通しを下野はむんずと握り締めて抵抗します。
  下野の手はえぐられています。危うい所へ、中間の甚六が長助の背後から後頭部を切りつけま
  す。切りつけた甚六の刀に切れ味が有りません。長助が立ち上がります。甚六は長助が打ち捨
  てた長刀を掴んで振り回し立ち向かいます。そこへ、高麗人の小姓小九郎が駆け寄り、中川下
  野を支えて引き退きます。敵の柴田小六助が懸け付けます。井口六兵衛が相対します。
  互いに名乗って鑓を合わせます。中間甚六と小姓小九郎は中川下野を介抱しながら引き退きま
  す。井口六兵衛の鑓が柴田小六の左脇腹を衝きます。小六は脇腹を衝かれながらも身を捩り、
  刀を抜きざまに六兵衛に討ちかかり、六兵衛の足大指を割ります。杵築城二の丸より放った鉄
  砲の弾が、柴田小六の額を撃ち貫きます。即死です。
   大手観音堂下の焼け屋敷に集まっている敵勢に、康之家来下津半左衛門、坂本三郎右衛門
  杉崎作左衛門がそれぞれ家来一人宛て召し連れて立ち向かいます。今井惣兵衛も敵を目掛け
  て進みます。未だ明けやらぬ闇の内に、今井惣兵衛が微かな火縄の明かりを認めます。
  惣兵衛は、半左衛門へ言葉を交わして、火に向かって矢を射ます。惣兵衛の矢は、武者の鎧の
  胸板の捻り返しを削り、喉を貫きます。即死です。下津半左衛門は大神賢助を相手に互いに名乗
  りを上げています。鑓を合わせ、半左衛門は大神の胸を衝き貫きます。大神は、半左衛門の脇
  腹を突き通します。杉崎作左衛門敵に向かって大音に名乗りを上げて鑓を振るっています。

   康之は、寄せ手の主力に相対しています。有吉四郎右衛門が大筒を発します。魚住市正組の
  鉄砲隊が、康之旗下の鉄砲隊が、敵に向かって一斉に撃ち掛けます。夜明け頃敵は立石表ま
  で引き退きます。康之陣では首実験です。今井惣兵衛が闇の中一矢に射止めたのは、清田主
  計鎮乗入道見知りの平林津乃助といい、人呼んで運の天右衛門と渾名された名のある者でした。
   その頃、黒田如水軒は、一番備え、二番備え合わせて二千余の兵を国東郡の森・小田原両所
  に残し、旗本、脇備えを率いて垣見和泉守居城富来城を攻めています。杵築、富来の間七里、
  康之は、大友軍杵築進攻を報せる使者を走らせます。使者に立つのは志水五郎助です。
  杵築から富来へは敵中突破です。順路を行けません。志水五郎助は迂回に迂回を重ね、富来
  へ到着したのは十一日早暁です。夜、寅の刻、如水軒は軍を返して杵築に向かいます。
  しかし、途中、安岐、背戸田での戦闘に暇取ります。杵築へ戦闘の情報は届きません。
  黒田軍一番備えの時枝平太夫が、敵を眼前に、本隊の到着を待つばかりでは口惜しいと、康之
  に出軍を迫ります。康之は予て約束の通り、如水軒の到着を待って、立石の要害に取り掛かる
  ことを意見します。しかし、黒田軍は出軍を決めます。

   九月十三日、黒田の一番備え、二番備え二千余が杵築を出立して立石表へ向かいます。
  一刻遅れて康之の軍が出発します。康之旗下の騎馬武者は十四騎です。丹後久美から従った  
  二十一騎の内七騎は、上杉征伐に向かった松井新太郎興長に分けました。
  十四騎中、志水五郎助は如水軒へ遣いに行っています。杵築城の守りに、松井新助、松井与三
  村尾勘兵衛、藤村平兵衛、中川下野、井口六兵衛、中川伊予、本島備後、中川兵助、田中理右
  衛門、堀口三太郎を残します。立石表へは、平位助太夫、下津半左衛門、坂本三郎右衛門、杉
  崎作左衛門、松井加兵衛、中川五兵衛、本島嘉兵衛、近藤弥八郎の八騎に、尾崎伊右衛門、中
  沢藤五郎、中山六右衛門、生田甚三郎、前野九兵衛、入江久次、上原長三郎、田中清三、山田
  半右衛門、後藤与三右衛門、堀九右衛門、渋谷和泉親子、朽木勘右衛門、今井惣兵衛、中山
  三右衛門、井佐弥右衛門、大鳥仁助、遠藤九兵衛、田原助左衛門、茶道の梅園が押し出します。
  有吉四郎右衛門ほか九騎の侍も同道します。
   康之勢と黒田勢は先陣を争いながらも、両軍轡を並べて進軍することを約して実相寺山へ進み
  ます。途中かんのを山で康之が兵糧をつかいます。大友軍の先手、竹田津志摩入道一卜が是を
  見て合図の狼煙を上げます。大友軍本陣立石からも狼煙が上がります。狼煙を見た康之は、馬
  を進め、桑原才蔵と康之家来坂本三郎右衛門へ斥候を命じます。三郎右衛門は鶴見村で一人の
  乞食に詳しく道を案内されます。取って返した三郎右衛門の先導で、康之勢は実相寺山上に登り
  ます。康之は山上から見渡します。敵陣石垣原は、南下がりに一里です。しかし、見た目には実
  相寺、立石の間二十町程有りそうです。草が生い茂り、荊棘が絡み合って縦横の藪です。
  上り下りの高低も見えます。足場の悪さが一目瞭然です。
   山上から敵味方の布陣を眺めると、黒田勢の一備えと大友勢が戦端を開く気息を窺がっている
  息遣いが手にとるようです。大友の後詰が先勢を押し出すほどに詰まってきました。双方合戦の
  位を見計らっている緊張の中、大友方の足軽が鉄砲を放します。一気に戦端が切って落とされ
  ます。康之勢へ大友方が攻めかかります。康之は、下津半左衛門へ軍昇りを預け、山上から一
  歩も動かず昇りを立て続けることを命じます。半左衛門は一昨日の鑓傷が癒えていないのです。
  傷は深く戦闘は出来ないはずです。康之は、杵築城守衛を命じましたが、半左衛門は康之の命
  を達て断り出陣したのです。しかも持ち場を離れて戦闘に入ろうとします。さすがに康之は、近藤
  弥十郎に半左衛門が昇りを下ろすようであれば、これを討ち取るように命じます。
  半左衛門も康之の下知を聞いて持ち場に帰ります。康之、大友両軍の先手は次第に詰め寄って、
  すでに一町の間合いです。坂本三郎右衛門が、「只今先手は鑓を可仕候、是に御陣は如何」と問
  いかけたと、康之譜です。康之は馬を乗り出し、有吉四郎右衛門、魚住市正は麓へ向かって駆け
  下ります。康之は馬を早めて先手の鉄砲際に乗り付けます。有吉四郎右衛門が馬を下りて鉄砲
  を構えます。既に敵との距離は三十間です。康之は馬を下ります。それを見たら敵勢は、康之方
  鉄砲勢を打ち超えて康之を目指します。進む敵兵百ばかりを十四、五間の間合いに引き付けて、
  四郎右衛門が鉄砲を撃ち懸け敵を打ち倒します。
   「見事なるソ、今一ツ」と康之大音声です。
  四郎右衛門は鑓を取ります。康之も「長き鑓を候へ」と下知します。しかし、康之の直鑓を持った
  鑓持のこま若がいません。傍らから仁若が鍵鑓を差し出します。康之の左では、魚住右衛門兵衛、
  康之家来中川五兵衛が鑓を合わせています。康之に向かって敵二十ばかりが鑓を衝き、刀を振
  るって挑みかかります。康之は鍵鑓を合わせます。手傷を蒙ります。敵首二つを執ります。
  敵を追い散らします。右脇に近藤弥十郎がいます。左には康之家来坂本三郎右衛門、松井加兵
  衛が戦っています。有吉四郎右衛門、桑原才蔵、四郎右衛門家来八坂又助が鑓を合わせて敵首
  を討取ります。康之家来田中清三、平位助太夫、前野九兵衛、上原長三郎、四郎右衛門家来岸
  助之允、葛西彦四郎らが働きます。それぞれに敵首を討ち取り力戦、敵を追い散らしています。
  大友軍敗軍です。
   このとき、康之先手の鉄砲が大友方に奪われてしまいました。康之方は敗軍に紛れ、敵中深々
  と潜入して鉄砲を取り返しに向かいます。茶道の梅園が敵に囲まれます。梅園は五人を相手に
  怯むことなく戦います。
  味方はこの間に、大友方の朽葉柄弦の指物を分捕ります。梅園討ち死にです。
  
   一方黒田勢は、康之軍が追い散らした大友軍を深追いして反撃にあいます。反撃の鉄砲に嫌
  気がさして引き返す時枝平太夫や母里与三兵衛に、康之は家来尾崎伊右衛門を遣わして、「ケ
  様迄勝軍しながら敵も追わぬに負軍する事如何成儀にて候哉、大友を討取るか、本陣まで追越
  ハせで」と云い遣ります。母里も時枝も黙っています。口惜しさに耐えかねて時枝方から、久野次
  郎左衛門、曾我部五右衛門が大友方旗本目指して懸け馳せ入り敵を討ちます。決死の討死に
  です。黒田勢は是を潮に敗軍です。

   康之以下杵築勢は踏み留まって戦います。しかし、康之勢もさすがに深入りです。前後を敵に
  囲まれています。康之は敵の本陣目掛けて駆け込もうと馬を進めます。康之之中間、次郎三郎
  と甚助が、左右の轡に縋り付いて放しません。近藤弥十郎が傍らにいます。康之の鍵鑓を持った
  田中清三が離れずにいます。坂本三郎右衛門が馬を駆って供をします。黒糸縅の鎧に唐冠の兜
  を着桁武者が一騎、駆け寄ってきます。面頬の内から井上九郎右衛門と名乗ります。康之は覚え
  がありません。武者は、「掛かるも引くも大将の心得成、不似合深入沙汰の限りニ候、如水頓て
  是へ着候半」と、言い捨ててさります。康之は四郎右衛門へ「如何」と尋ねます。
  近藤弥十郎が、「疾く引くように」と急がせます。康之は馬を廻らして実相寺山に馬首を向けます。
  其の時、左に人数が動くのを見ます。敵か見方か、坂本三郎右衛門が大友軍と答えます。
  大友軍の宗像掃部、吉弘嘉兵衛以下百五十の歩兵が、実相寺山に靡く昇りを康之の本陣と見
  極めて打ち掛けてきたところです。敵味方の峻別が難しくなっています。前方に味方、後方に敵、
  脇で喚き会うのは敵か味方か、入り組んでいます。。康之勢と宗像・吉弘勢は、実相寺山の麓一
  町ばかりの距離で相対します。敵方の河喜多藤平が、鉄砲を放ちます。康之は馬上から「見事ニ
  打候由賞誉」と誉めて、山上へ上がります。藤平は「爰こそ我が墓所」と誓い、有吉四郎右衛門、
  下津半左衛門と立ち向かいます。半左衛門が突き倒します。首を取らせまいと、敵も大勢で藤平
  を引き抱え、馬上で輪を描いて鑓を振り回しながら逃げ去ります。
   康之は馬を進めて麓へ降ります。麓から二合目の所まで来ると、敵陣から鉄砲が次々に撃ち掛
  けられます。流れ弾に当たっては堪りません。魚住市正が、康之と四郎右衛門に厳しく云います。
  「御両人は大将にては無御座候哉、敵の望む所にに御陣を被居、雑人の矢先に御懸り候半事口
  惜候、御楯某立候」と進み出ます。杉崎作左衛門も「御楯に参候」と矢面に塞がります。
  康之も、意を汲んで山上に戻ります。康之鉄砲隊、魚住市正鉄砲隊が銃口を揃えて隙間なく撃ち
  始めます。山上の昇りや撃ち掛かる鉄砲の数を見て、乱軍で散じていた武者や徒のもの達が集ま
  ってきます。実相寺山の康之陣が次第に厚くなります。
   山上から見下ろすと、山下の三十町ばかり続く古畠の土手の茂みに、十四・五騎の武者が見え
  ます。後ろから野村市右衛門備えが続こうとしています。野村市右衛門にとって、討ち死にした久
  野次郎左衛門は小舅です。弔い合戦と心して打って出ます。騎馬武者の突入に大勢の徒武者が
  続きます。大友、吉弘勢もよく支えます。押し返します。吉弘勢勝軍と見えます。井上九郎右衛門
  方から、六・七騎の武者が馳せ参じます。横から鑓を入れます。実相寺山の康之が下知します。
  鬨の声を発して康之軍が突進します。一気に突き立てます。吉弘加兵衛、宗像掃部討死です。
  大友軍戦死多数惣敗軍です。大友軍大将大友義統は黒田家重臣母里太兵衛を頼って降参しま
  す。母里太兵衛は義統の妹婿です。大友義統の降参を知って、黒田勢も康之勢も戦闘の緊張が
  緩んで一時に疲れがでます。今日は牛の刻から酉の刻まで都合三度の駆け引き戦闘でした。
  康之は、実相寺山に引き上げます。雨です。
   実相寺山の康之陣では、黒田如水軒からの使者岡田三郎と康之が対面しています。
  康之之傍らには、有吉四郎右衛門、魚住市正がいます。前方から、諸肌脱ぎの武者が抜き身の
  刀を引っ下げて息も切れよと馳せ参じてきます。四郎右衛門が刀を取って立ち上がります。
  田中清三が長刀の鞘を払って康之に渡します。四郎右衛門と清三が、駆け寄る武者の正面を塞
  いで、名乗り候へと大音に呼びかけます。武者は息が切れて声が出ません。清三が走りよって刀
  を構えます。四郎右衛門が切りかかります。武者は後すざりするばかりです。清三駆け寄って再び、
  名乗り候へ、と叫びます。一言・・弥蔵と。弥蔵は、康之の薙刀持ちです。石垣原の荊棘の中で、
  康之の傍から離れてしまったのです。戦闘の中をひたすら康之を探して此処まで来たのです。
  康之は、手にした長刀を清三に戻します。弥蔵は無事康之の薙刀を持って控えます。
  雨がやみました。康之陣に黒田如水軒到着です。
   このころ、肥後加藤主計頭清正は康之への援軍を、肥後・豊後境の小国まで進めていました。
  日下部与助、井上大九郎以下百五十の兵と五十挺の鉄砲です。明日は主計頭清正出軍です。
  加藤主計頭清正に、康之、立行から書状が届いたのは十四日未明でした。主計頭は軍を返します。
   
   康之の戦いは終わりました。
  康之は忠興へ、討取り首注文、敵討死者名を添えて報告を送ります。
     討取首注文は、首二・松井、首一・有吉、首一・魚住右衛門兵衛、首一・桑原才蔵
               首一・可児清左衛門、首一・松井加兵衛、首一・坂本三郎右衛門
               首一・田中清三、首一・中川五兵衛、首一・平位助太夫、首一・前野
               九兵衛、首一・近藤弥十郎、首一・上原長三郎、首一・吉六・首一・
               孫七、首一・岸助丞、首一・八坂又助、首一・葛西彦四郎 以上十九です。
   九月二十三日、関が原関東方勝利の報せです。

  十一月、康之は杵築・立石での戦功者に加増します。
     杵築城夜戦戦功の者
               井口六兵衛・二百石、中川下野・二百石・加増五十石、下津半左衛門・
               二百石・加増百石、坂本三郎左衛門・百五十石・加増百石、杉崎作左
               衛門・百五十石・加増五十石、今井惣兵衛・切米十石・加増十五石・当
               秋馬ニ乗契約。
     立石合戦戦功の者
               中川五兵衛・切米十五石・加増三十石・馬ニ乗申候、坂本三郎右衛門、
               松井加兵衛・二百石・加増五十石、下津半左衛門、近藤弥十郎・切米     
               十石・加増二十石・馬ニ乗せ申候、田中清三・切米十石・加増二十石
               当秋馬ニ可乗契約、上原長三郎・切米十石・加増二十石・当秋馬ニの
               せ可申契約。 以上、康之譜です。

   慶長五年細川忠興は、関が原の功により豊前一国と豊後の内合わせて三十万石を拝領します。
  翌六年、幽齋が病みます。忠興は杵築城を康之に預けるべく領地拝領を申し出ます。
  忠興の尽力で杵築に壱万石余が下され、忠興は康之へ杵築城を預けます。
  「先書ニ内々申候木付の儀、此中色々申上、弥相済拝領仕・・・誠に外聞実儀満足此事候、則
   木付城其方ニ預候間、被得其意・・・」と康之譜に記載します。苦心して拝領した忠興の喜びが
  窺がえます。康之は更に、徳川家康から豊後速見郡壱万七千石の代官を仰せつかります。
  家康は忠興に断った上で、直に康之に命じます。山城国神童寺村、愛宕郡八瀬村の領地も安
  堵されます。十月、忠興は新領地豊前の検地を済ますと、康之・興長父子に宛てて知行二万五
  千石及び出府料九百九十四石を与えます。
   豊後国速見郡内六千三百七拾九石、同国国東郡内壱万八千九百八十八石、豊前国宇佐郡内
  橋津村六百二十六石余、合せて二万五千九百九十四石です。
  康之・興長連名であるところに、時の流れが感じられます。嘗て藤孝が、丹後一国を拝領した時、
  「丹後は忠興にくれたもの」と、織田信長が言ったか言わなかったか真偽は定かでは有りません
  が藤孝・忠興父子と康之・興長父子の人生が重なるようです。興長は忠興の婿です。康之は、忠
  興娘の岳父です。
   家来も、康之ではなく、興長が召出し、召寄せ、召抱えることが多くなってきます。
  同年十二月、長岡玄蕃興元が恨みを呑んで忠興の下を立ち退きました。長岡与十郎孝之が、興
  元、康之に並んで二万五千石を宛がわれたことが許せなかったのです。孝之には、興元、康之
  に及ぶべき武功は何も有りませんでした。時代は厭武に向かって移ろっているようです。
  康之も興元に誘われます。康之の心中、興元への同感を禁じ得たでしょうか。
  しかし、康之は同調しません。興元は、明確に遺恨の理由を認めて、摂津堺の妙国寺に蟄居しま
  す。この興元を徳川家は見逃しません。壱万石を与え早速自分の旗下に加えます。
  谷田部藩壱万六千石の創めです。

   慶長七年、忠興は小倉城を居城と定めて、中津より移ります。
  
   慶長九年、忠興が大病を患います。心配した徳川秀忠が康之に宛てて、「能々養生候様ニ其方
  心遣専要ニ候・・・・」と申し含めます。

   慶長十年、康之は杵築城にいます。瘧を患っています。忠興は、長岡式部興長を付け置きます。
  菅勝兵衛輝宗を差し越して、日々の病状を報告させます。

   慶長十三年、康之は、日々を煩いの内に過ごすことが多くなりました。六月一旦本復します。
  同月二十三日、杵築城に落雷です。一方忠利は、徳川秀忠養女小笠原兵部大輔娘と縁組します。
  康之は、嫁入りの輿を受け取りに伏見へ上ります。伏見で康之は、古田織部から茶の湯に招かれ、
  馬を贈られます。久々の織部、康之の邂逅です。

   慶長十五年秋、幽齋玄旨が京三条車屋町の屋敷で果てます。齢七十七でした。
 
   慶長十六年、徳川家康と豊臣秀頼が二条城で対面します。康之は小倉で煩います。
  細川忠利が見舞います。式部興長が付き添って看病します。徳川家康から薬が届きます。
  一度二度ならず三度家康から薬が届きます。十二月、康之は遺書を認めます。
  忠興が見舞います。忠利が見舞います。康之は、徳川家康に遺書を認めます。
  一国の家老が時の将軍家大御所に対し形見分けを行う、まさに、足利将軍家にあって朱柄の鑓
  を持ち、太閤秀吉に直参を求められ、知行十八万石を茶壺に変えた康之ならではのことでありま
  しょうか。足利将軍拝領の鑓を立て、徳川将軍乗用格式の輿に乗り、天皇恩賜の幔幕に囲まれる、
  四十五年の戦場の月日が、一瞬の夢と脳裏を駆け巡ったでしょうか。

   明けて正月、松井佐渡守康之辞世です。
        やすく行く 道こそ道よ是や此 是そまことの道にいりける
  慶長十七年正月二十三日、齢六十三歳、春光院英雲宗傑が法名です。
  康之終身秘蔵の太刀は、刀長二尺四寸一分、永禄三年備前長船春光が鍛えたものでした。
  愛刀の二文字が贈名に符合します。
  康之糟糠の家臣たちが殉死を願い出ます。許されたのは、田中理右衛門一人です。
  松井の称号を許され、志摩守と改め、同日殉死です。

   この日まで康之譜に名前を連ねた家臣たちを掲げます。
  坂井与左衛門、坂崎作左衛門、村尾四方助、井上市正(松井紀伊之勝)、細川陸奥入道宗賢
  (生害)、角田因幡入道宗伊、八木兵助、多熊源之允、松井(角田)半右衛門盛季、そのべ与一、
  弓削将監、坂本彦六郎(討死)、生田宇兵衛、山本源左衛門、村尾勘兵衛、松井長助、松井市
  正、田中理右衛門、橋本与助、下津半左衛門、本島備後、中川下野、井田太郎兵衛、本島又
  三郎、田口弥助、米持助次郎(討死)、松井仁平次、和田五兵衛、中山仁兵衛、前野九兵衛、
  小森角助、後藤但馬、平位助太夫、井口六兵衛、坂本三郎右衛門、今井惣兵衛、柴田小六(討
  死)、清田主計鎮乗入道寿閑、清田石見、志水五郎助、松井新助、松井与三、藤村平兵衛、中
  川伊予、中川兵助、堀口三太郎、尾崎伊右衛門、中沢藤五郎、生田甚三郎、堀九郎左衛門、渋
  谷和泉、朽木勘右衛門、井佐孫三郎、田原助左衛門、梅園、次郎三郎、甚助、孫七、弥蔵、松井
  久左衛門昭経(逐電)角田甚太郎、志水又右衛門、本島四兵衛(暇)、石田太郎左衛門、中川才
  庵(成敗)、尾崎道意、橋本与次、山本対馬、天長老、ひさいた某(出奔)、からたい某(成行不知)
  額田某(成行不知)、杉原某(成行不知)芳賀左助、一若。

   御給人先祖附で丹後久美召抱えと記載する家臣たちです。
  竹田(松井)長助定勝、井上市正吉勝(松井紀伊之勝)、入江久兵衛武澄、田中理左衛門(松井
  志摩守盛永)、田中角兵衛盛勝(10歳・康之小姓)、中川伊予重高、中川五兵衛重吉、上原長
  三郎貞久、山本源太夫勝則、山口彦之允景定(牧彦七郎・康之小姓)、後藤三右衛門、後藤但
  馬守基正、遠藤九兵衛吉次、粟坂平助守政、明石助兵衛重方、中西孫之允宗昌、志水伯耆、
  志水悪兵衛、本嶋備後正恒、本島喜兵衛正治、下津権内一通、下津半左衛門一安(志水悪兵
  衛二男・養子)、堀口喜六光広、大嶋宗用苗正、今井惣兵衛、近藤八兵衛包定。

   豊後木付で、木付左角が康之に召抱えられます。宇野八左衛門は慶長初年の召抱えです。
  皆、松井家草創の時を生きた人々です。松井新太郎興長も父康之と共に働きます。
  興長(松井・豊臣・長岡)召抱えの人々もまた同時代を生き抜いた人々です。
                   
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