「一色軍記」より  沢田次郎助内室の功績

宮津市歴史資料館2005年春季特別展「古代中世の宮津」の展示解説図録の「資料・一色軍記 (竹野神社)」より、該当項を抜粋したものである。2006/6/17

慶長五年長岡藤孝、宮津・峯山・久美三ケ所之出張へ、忠興の息女并二人之妻、急き田辺に入城すへしと申送りけるニ、忠興之家士松井の内室野田遠方事なり、軍治る迄勝手よき山中ニ身をかくすへしと返答有、久美・峯山之城之玄蕃之守興元の内室ハ、法印の方より(*)入城之事申来る、老人の心遣はつかしく候得共、我さら/\田辺へ入城するこゝろにあらす、先度大(坂)表ニおゐて忠興内室自害有て、諸家の鑑ともなり、もふさるゝにも恥へき我身の上なり、たとひ大軍寄るとも、かたい/\と一所ニ戦ひ、城を枕ニ自害すへしと有けれハ、銘々玄蕃頭へ申訳なし、此度籠城中々続き申まし、城内の人数も凡四五十なり、さすれハ銘々ともニ討死ニ定りし所ニ而ハ、自害も奥方の手柄さら/\なし、幽齋公の差図に随ひ、一家中之女房娘を召連られ、思召も候て、田辺本城ニ而御名を後代にとゝめたもふへし、都而陣中ニ妻子の有ハ、却テ武士の義を忘れ忠をしく元なりと口をそろへて申ける、奥方此利にセまり、兎ニも角ニも仰ける、夫より(*)一家中の女房娘銘々調度を取集、かち若とふ足軽ニ弓鉄炮を運セ、奥方の御乗物、家中乗物十挺はかり三ノ丸ニ置候、時ニ沢田次郎助の領地ハ竹野網野也、常に儒を学、民百姓をいたわり申スゆへ、百姓打寄相談仕るハ、沢田殿の御恩いつの世にほうせんや、たとひ小野木殿より御咎を蒙るとも、我々ハ峯山ニ行て沢田殿の奥方へ、此度の御奉公申さんとて、若者とも弐百人余り口をそろへ、沢田殿御奥方御乗物何なりとも御用ニ立たし、沢田/\と三ノ丸の広庭セましと相詰ける、次郎助奥方ハ廿計なりしか、少もおくせち気色もなく、玄蕃頭殿奥方の御乗物を奥へ入、あヽとのらセ参らセ、其身は傍ニ引添て百姓ニ申けるハ、其方達能こそ参りもふされたり、此趣を次郎助ニ告ん、定て賞美申さるへし、世に誠有致方、沢田家の面目此上なし、是成る乗物こそ沢田の内宝(室?)也、静に扱御供されよと、玄蕃頭奥方の乗物かヽせ、扨召仕の女中を呼、是より(*)岩瀧の浜迄ハ纔三里余り、ましてろしのかふせきも覚束なく、誰々も駕籠を上ケてからにて入城セらるへしと、其身ハ紫おとしの小具そく着し、上には■■紅の小袖に縫薄したるを着し、裾小みしかくからけて、長刀引さやをはつし、奥方の輿に引添て、一家中の女房娘御乗物を引包銘々に得物を引提たり、沢田・正源寺殿はからひニ而、御供頭にハ西部伝左衛門ニ定、其外かち若とふ足軽打囲、程なく岩瀧の渚ニ至り、川船を奥方の御船に仕立、紫の幕を打ち■りニ、由良川の尻に着て田辺の城へ内案(ママ)、念入心静に暮方ニ入城して、幽齋夫婦妙庵の御目ニ懸り、籠城之よふを尋られける、幽齋沢田か妻のかたきはからひをかんしよふし、誠に次郎助か女房也と御悦ハ限りなし、此沢田次郎助ハ、天正十年之頃十六七才なり、又吉原城之時、大谷刑部左衛門但馬の国へ身をかくし、世のなり行を忍見んと、馬を進落行ける時ニ、若武者追かけ来りて申けるハ、夫へ打セ給ふハ一色之勇将と見奉る、返し合セて勝負あれ、斯申某は細川玄蕃頭か家来沢田出羽之守か嫡子、同名仙太良十七才之初陣なりと、馬を進追かけ来たる、刑部左衛門馬上よりつく/\と見とれ入、あらしほらしき若武者かな、我ハ義輝公の俗下なりしか、今一色家に籠りいる大谷刑部ノ大夫成家といへしものなり、平岡・長岡の戦ひに、玄蕃之頭・松井・有吉にあわをふかせ、三度までしり素けしハ某なり、一色没落次第、誰有て見るもの有ましと、但馬の国へしりそく也、しかし骨柄勇々敷若もの、成人の後思ひやる命和殿にまいらせん、いさ来れと言まゝに弐打三打合、大谷馬より飛て下り西に向う、合掌し仙太郎に申けるハ、某か帯たる大刀ハ、忝なくも義輝公数度功名給わつたる重宝也、則内兜ニ御墨付入置たり、是を添実検ニ出されよと情深く語置、沢田仙太郎ニ討れ相果る、興元此事を聞給ひ、大谷か武勇ひたすらおしみ給ふ、仙太郎ハ老臣の烈に仰出され、則網野の庵ニ八千石給り、名ヲ改メ沢田次郎助となり、後備へなり、慶長五年東国の出陣之時、沢田次郎助是なり、此人情深く百姓町人名残をおしみ、菅峠の麓迄送り、餞別の盃を献上ス、沢田大ヰに悦、扇開き忠則を舞レけれハ、百姓町人もしや朽花のしらセかと泪流しおしミけり   (了)