田辺城籠城衆の子孫について

 ことは我が家の床柱に懸かっている「御書出」と書かれた一つの箱より始まった。子供の頃よりいつも間近に見ていたものの何一つ中に有るものを見たことはありませんでした。当時の家長でもあった祖母からは、いつも寺井の家の宝物で、火事などの「すわ!一大事の時は必ずこれを背負って逃げなさい」と聞かされていました。

 中には当家のご先祖様が御主君さまより頂いた「充行状」や「知行地の高人畜帳」が入っていると教えられ、ぼんやりと頭のひだの奥にしまっていたのを、今は懐かしく思い出されます。その祖母も亡くなって十数年たとうというある時、この箱をあけて中の古文書を取り出し、何が書いてあるのかを解明する日が突然にやってきたのでした。

 さらにそれから百八十年後の今日、新たな展開が始まりました。

 古文書の訓下しの過程で、津々堂様のホームページがご縁となって、東京在住の沢村様との交流が始まりました。この沢村様は田辺城籠城の際に禁裏への密使として幽齋公の云われる「籠城第一の働き」をされた中村甚左衛門殿の御子孫でした。それからは、沢村家、中村家、寺井家の古文書の訓下しの作業ピッチが急速に早まり、いろいろな事が判ってきたのです。田辺籠城よりはや四百数年が過ぎようとした紅葉真っ盛りの秋のある日、今回の田辺籠城衆の子孫探しのきっかけとなった、津々堂様のさりげない示唆に富んだ一言が有りました。 「田辺籠城衆のご子孫が何らかの機会にお集まりになる様なことは出来ないでしょうか、、、。」

 籠城衆およそ五百名の名前も、先の「北村甚太郎覚書」をはじめとした「田辺城合戦記」、 「田辺籠城之書」及び「三刀屋田辺記」の「田辺籠城戦記諸本」や、「綿考輯録」に挙げられた方々三十数名しか判っておりません。その上四百年もたっておれば、御子孫の方々を探す  ことは中々難しいことが予想されました。この時点で判明していた籠城衆の子孫の方は、細川護煕元首相は別格として、「つづら文から」という本を出されていた佐方信博氏(佐方吉  右衛門殿ご子孫)と前述の沢村高志氏(中村甚左衛門ご子孫)と私 寺井正文(寺井道運、寺井吉右衛門父子の子孫)の三人だけでした。

 子孫探しの方法は、「舞鶴市教育委員会」への問合せを初めとした、「舞鶴地方史研究会」 「八代市立博物館」、「田辺城ガイドの会」、「田辺家中の会」、「永青文庫」へのメール、電話と封書による問合せがその主たるものでした。

 最初に判明したのは、舞鶴地方史研究会のある会員様より紹介の有りました前野幸夫氏で  す。前野様や丹後半島下世屋の前野家は籠城時に北村甚太郎と共に大きな働きをしながら、ついには戦死された「坂井半助」殿のご子孫でした。前野様他のご研究では「坂井半助殿は  実は前野宗定といい、綿考輯録では一色宗右衛門という名で、忠興公室玉夫人(ガラシャ夫人 当時は入信前でガラシャではなかった)を味土野にかくまった方」とのことでした。

 次に、(財)永青文庫への問合せからお教え頂いたのは、森茂氏です。森様は森四郎次郎  殿のご子孫です。森茂様の著書「肥後 釜尾 森家の四百年」で明らかなように、森家は丹後の杉野末村の住民でした。細川幽齋公との深い縁により、籠城時には城外にあって大いに  働き、ついには当主を含む一族十三名が戦死されましたが、それでもなお当主の遺児の裁量で城内に米百俵を運び込むなどの活躍をされました。

 籠城衆は侍ばかりではありませんでした。籠城にあたり、細川幽齋公は宮津、峰山や久美  浜の城を焼き払い、一つの城(田辺城)で篭城する事を決意します。その時中西太兵衛殿は、関東ヘ上杉討伐に赴いた細川忠興公に従った八木田丹右衛門殿や桑原主殿殿の妻子を連れて  入城しています。たとえ鑓働きは無くとも、幽齋公室光寿院様をはじめとして女性であろうとも必死の働きがあったことだと思います。この八木田丹右衛門殿のご子孫が八木田宜子様  です。

 さてこの籠城戦で忘れてはならないのは、舞鶴の名刹「瑞光寺」です。インターネットによりますと、瑞光寺の開祖釈明誓上人は南朝の忠臣楠氏の流れを引く人で俗名を楠源吾といい、武芸に秀でていたにもかかわらず、浄土真宗本願寺十一代顕如上人について得度。その名声を聞いた幽齋公が、忠興公の師として明誓上人を招き、末娘さちをめあわせ瑞光寺を建立し、それに応えて明誓上人も田辺城籠城に参加し、楠家に伝わる夜戦の法にて勝利を得たといわれています。瑞光寺の現中将(副住職)の楠文範氏はこの明誓上人のご子孫です。

 籠城戦に加わったもうひとつの舞鶴の名刹「桂林寺」は、その説明書によれば、桂林寺の  六世大渓和尚が田辺籠城のときに助勢して活躍し、細川忠興公から涅槃図をたまわり、その 後も京極氏、牧野氏と歴代藩主の庇護を受けたとありますが、残念ながら現在の桂林寺には  籠城衆のご子孫の方々はいらっしゃらないようです。  「田辺家中の会」は田辺藩(牧野家三万五千石)家中の子孫たちが、舞鶴の歴史や文化を通じて会員相互の親睦と研鑚をはかり、地域の文化の高揚を目指す会ですが、会員の荒木邦雄  氏は、実は田辺城籠城衆で後には田辺藩の家臣となった方のご子孫でした。

 最近では津々堂様のホームページへの投稿から、伯耆守護山名家の分流で、愛宕山にいた  細川忠興の弟、妙庵(幸隆)に仕えて田辺城籠城に加わった小林勘右衛門殿のご子孫と、田辺籠城以前より御出入りしてご懇意に預かっていた由をもって籠城に駆け付け討ち死にされ  た上林助兵衛殿ご子孫が、又インターネットによる調査から、田辺城籠城の時、小野木氏の陣に忍び込み陣容を調べるなどの功があった安場九左衛門殿のご子孫が、又最近発刊の小川  眞氏著「善左衛門柿は残った」より日置善兵衛殿及び医 宗宿殿の御子孫が、永良寛氏著「凡武士-それからの清兵衛-」より永良清兵衛殿のご子孫が判明致しました。  その外同じホームページへの投稿から、ハンドルネーム舟木丹波守様(上羽殿ご子孫)と三刀屋久扶様(三刀屋孝和殿ご子孫)がおられますが、詳細が判らないためひとまず置くこと  とします。

 このような、色々な機会を見つけての問い合わせの結果、現在ようやく十四名の籠城衆の  子孫の方々がわかってまいりました。今後更にたくさんのご子孫の方々が判明することを願っております。

 以下に現在まで判明している籠城衆とそのご子孫の方々について簡単にご紹介いたします。

■中村甚左衛門(東京在住 沢村高志氏)

 元禁裏の士ともいわれ、駿府城主十四万石中村一氏の三男。田辺籠城時には禁裏への密使をつとめ、籠城第一の働きと称せられ、忠興公御自筆の哥と左文字の刀を賜る。又九曜の家紋をも賜る。その後甚左衛門並びに子孫は豊前、熊本と随身し、その間三斎様(忠興公)より名を沢村と改めるよう仰せ付けられ、沢村家として明治ご維新に至っています。

■森四郎次郎(熊本在住 森 茂氏)

 宮津杉之末村の豪族ともいわれ、細川幽齋公の宮津入城時からの知己である。田辺籠城にあたり城外にあって城内と連絡をとり奮戦するも、当主を含め一族十三人が戦死する。又米百俵を十五歳に満たない遺児の裁量で城内に運びいれる。関ヶ原以後細川公よりのお誘いで豊前で家臣となり、熊本へも随身する。肥後釜尾の地に御赦免開きを許される。

■坂井半助(宮津在住 前野幸夫氏 及び 下世屋前野氏)

 前野幸夫氏他のご研究によりますと、前野宗定殿は細川忠興公玉夫人の味土野隠棲警護の責任者であり、その親は一色氏重臣で丹後下世屋城主前野半助宗央です。その後玉夫人が許されて大坂に戻った後、前野宗定殿は、出石藩主の前野長康の馬廻り役に取り立てられます。

 しかし豊臣秀次事件で前野長康が出石藩を返上し自害すると前野宗定殿は農民に戻ります。田辺籠城の時農民に戻った宗定殿が恩を返すためとはいえ、武士として前野を名乗って城へ入ることは出来ず、家臣の坂野と井隼の名を借りて坂井半助と名乗ったとのことです。坂井半助殿は籠城時に亡くなりますが、そのご子孫は丹後半島の下世屋に住み現在に至っています。

■八木田丹右衛門妻子(東京在住 八木田宜子氏)

 元三好家家臣。丹右衛門父の代に細川家臣となる。籠城時八木田丹右衛門は関東上杉討伐に参陣中、その妻子は中西太兵衛に助けられ桑原主殿の妻子と共に入城する。丹右衛門は関ヶ原において首級を挙げる働きをし、その後豊前、熊本と随い、子孫は明治ご維新に至っています。

■佐方吉右衛門(佐方信博氏)

 佐方信博氏著「つづら文から」によれば、「始めは諏訪部と称して、越後の国佐味の庄赤沢村に住んでいたが、弘安三年の頃、出雲国三刀屋に移り住んだ。明徳三年に諏訪部の姓を佐方に改めた。天正十六年三刀屋を離れて京都に移り住んだ。細川幽齋公、田邊御籠城の際、一族頭三刀屋孝和を首領として、伯父佐方吉右衛門之昌ならびに佐方小左衛門及び次郎助の兄弟共に御籠城に加わり功のあった。」とあります。関ヶ原の後豊前小倉で細川忠興公に抱えられ、その後細川家の肥後入りに従い、ご維新に至っています。

■瑞光寺 明誓上人(瑞光寺 楠文範氏)

 瑞光寺開祖の釋明誓様は、俗名を楠源吾といい若狭小浜の京極高次の家臣楠伊賀正重の五男で幼い頃から、京都へ遊学し文武の研鑚に励みました。もともとは天台宗を信仰していましたが、明誓様は京都で本願寺11代顕如上人の阿弥陀信仰にふれて自ら進んで顕如上人から釋明誓の法名を拝受しました。天正八年ごろ明誓様の名を聞いた細川幽齋公は忠興公の文武の指南として丹後田辺に住まわせ、明誓様の願いを受けて瑞光寺を建立しました。

 幽齋公が明誓様を招いたもう一つの目的は、九鬼水軍ともつながりがあったといわれる楠家に田辺城の水際の警護をまかせることにあったともいわれています。幽齋公は明誓様に瑞光寺を開かせるにあたって二つの事を致します。ひとつは明誓様に幽齋公の妹(娘?)さち様を妻として娶らせ、妹の壻明誓様を猶子として処遇しています。さらに瑞光寺に1万3千坪の土地を与え寺の経済的な基盤を作り、寺の寺紋に細川家の九曜の紋を使うことを許しました。田辺城は北側が海に対峙して水城のようであり、南側は湿田でした籠城時には明誓様はこの水城の櫓を守り、楠家に伝わる夜戦の法にて勝利を得たといいます。なお、瑞光寺の表門は田辺城の黒金門を移したものといわれています。

■荒木氏(舞鶴在住 荒木邦雄氏)

 北陸より細川家の家臣として田辺の地にくる。関ヶ原後に細川家が九州に入った時に居残りを命ぜられ、城の跡片づけの指揮を取ったと言われている。その後九州には行かず、牧野家の家臣となり、子孫は明治維新に至っています。■小林勘右衛門(福岡市在住 小林達二氏)

 先祖附によると、小林勘右衛門の先祖は小林民部丞で、伯耆守護山名家の分流としている。山名家が滅ぶ際に、小林一族も多くが戦死したが、勘右衛門の父、小林丹波は幼少ゆえに助かり、丹波国の篠山に隠棲。丹波の息子、勘右衛門は、愛宕山にいた細川忠興の弟、妙庵(幸隆)に仕えるようになり、田辺城には妙庵に従って篭城しました。子孫には、明治九年の神風連の乱に参加した小林恒太郎がいます。

■上林助兵衛(長崎市在住 上林雄二氏)

 上林助兵衛は「綿孝輯録」によれば、本苗井沢、甲州武田浪人で丹後国上林と云う所に隠住故に氏を上林と改め、田辺籠城時には、以前より御出入りしてご懇意に預かっていた由をもって駆け付け討ち死にしました。子息上林甚助が百石拝領し、その後豊前、熊本に随身し、甚助子息の代に分知により二家となり、二男茂左衛門家は代々佐敷詰め御番を仰せ付けられ、ご維新に至っています。

■安場九左衛門(神奈川県在住 安場保晴氏)

 安場九左衛門は西美濃三人衆の一人、安藤守就の末子とされています。父安藤守就は本能寺の変後に美濃にて討死、末子(後の九左衛門)は伊賀の安場村に乳母と共に落ち延び、伊賀三郎を名乗り、後服部姓を称します。成人後、細川忠興公に召し出され、名を安場九

 左衛門と改め、田辺籠城の折には、敵将小野木重次の陣に潜入し陣容を調べ忠興公に報告  (伊賀忍者だったとされる)、その功により知行二百石に加増され、兜に前立てを付けることを許されます。潜入の証拠として小野木氏の陣より持ち帰った鞍二背は小野木氏が秀吉公から拝領したものではないかとされています。(その一つは安場家に拝し、現在も鞍の前輪・後輪は安場本家に伝えられています)その後豊前、熊本に随身し、九左衛門から三代後の安場一平殿は赤穂義士大石内蔵助の介錯をつとめたことはよく知られています。

■日置善兵衛(京都府在住 小川眞氏)

 日置善兵衛は元一色氏の家臣で、細川・明智の丹後進攻により、一色義有が討たれた戦の時、その上司沼田幸兵衛が細川方へ誼を通じたため、日置一族も沼田幸兵衛に従う。その後中山に移り住むも、一色方への思惑から、ここを死に場所と田邊籠城に加わり討死する。一族同類はその後も中山に住み、ご維新にいたっています。

■医 宗宿(京都府在住 KY氏)

 医宗宿は由良川に臨む中山村の古くからの町医者で、田邊籠城時には同じ中山在住の日置善兵衛と共に籠城に加わります。城内では西の手支配として中村甚左衛門、寺井吉右衛門らと相働きます。後陽明天皇の勅令による開城後も引き続き中山に住み、ご維新にいたっています。

■永良清兵衛(埼玉県在住 永良寛氏)

 永良清兵衛の先祖は赤松則村円心といわれ、永良寛氏著「割城」によれば、永良清兵衛は田邊籠城の際、三刀屋孝和と共に入城し、勇猛果敢に働き、関ヶ原以後細川氏に召し出されました。その後豊前、熊本、八代と細川忠興公に随身し、子孫はご維新に至っています。

■寺井道運、吉右衛門父子(兵庫県在住 寺井正文)

 寺井道運の父は若狭の逸見駿河守一族といわれ、道運室は小浜の谷小屋城主寺井源左衛門の女(むすめ)ともいわれているが確証はありません。田辺城籠城時浪人分千石を拝領し子息寺井吉右衛門共々働きます。籠城後暫くして道運は没し、寺井吉右衛門(後寺井十兵衛と改)は豊前宇佐に知行を拝領し、その後熊本へ随い、子孫は明治ご維新に至っています。

                                

以上(記 寺井正文)

2008/9/8加筆修正・管理人  2010/6/11レイアウト修正