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            昭和60年熊本県民文芸賞作品集 散文一席


柳 絮 の 舞

                                        西 輝喜
        

        先刻まで裏庭の樹々でチュッチュッと啼き立てていた雀の群は、いつの間にか飛び
       立ったらしく、辺りはひっそりとしていた。
        襖を隔てた座敷から、柱時計が異国の文化を誇るようにボーン、ボーンと金属音を響
       かせながら八時を告げた。
       「五つです。夜明けもいくらか早くなりました。そうそう今日はもう七草粥の日ですね」
        妻の玉枝がお歯黒を覗かせ、殊更に明るい表情をつくって言った。
        上田休は頷きながら食後のお茶を飲むと
       「今日は二月十九日、旧正月の七日か、薩軍も程なく来るであろう」
        と苦しい表情を露にして呟いた。
       「お父上、やはり鎮台司令長官の谷干城殿は籠城して薩軍を迎え撃つ作戦ですか」
        火鉢にあたっていた勤が気掛かりらしく訊ねた。
       「谷殿は籠城を決意されたらしく、城兵は城の周辺に地雷を埋め、保塁を築いたそうだ」
       「西郷軍の攻撃に、鎮台兵は幾日ぐらい持ち堪えられると思われますか」
       「さあ・・・・そなたはお城がすぐ陥るとでも考えているようだが、それは間違いだぞ」
       「なぜです。昨年十月敬神党(神風連)の乱では、太田黒伴雄殿らは敗れはしたものの、
        二百の小勢で種田鎮台指令長官、安岡県令など多くの人々を殺害し、城中でも三千
        の鎮台兵に善戦したではありませんか。今度は万余の薩軍だと聞いております・・・・・
        巷では清正公さんの築かれたお城でも、百姓兵では数日しか保てまいとの噂です」
       「それは兵法を知らぬ者達の当て推量だ」
        と休は言い、威儀を正すと教え諭すように言葉を継いだ。
       「なるほど、敬神党の人達は七隊に分かれ、夜陰の不意討ちで一応は成功したかに
        みえたが、幹部格の者は皆討ち死にされた。いかに神のお告げとて寄せ手は散々な
        結果になったではないか。それに今度は城中でも覚悟して待ち構えている。万余の薩
        軍とて難攻不落と言われるあのお城を、たやすく攻略することは出来まい」
       「でも戦上手の西郷殿です」
       「いやいかに西郷軍でも、戦力では城兵がはるかに優位だ。鎮台兵は勝れた洋式銃を
        持っているし、益城御船の増永三左衛門殿が製造された、優れた大砲もある。薩軍の
        銃砲では太刀打ちできまい」
        勤の真剣な眼差しを見ながら、休は続けた。
       「それに新町の電信局から、政府へ連絡すればすぐ応援兵が来る世の中だ」
        休がそう言った時、突然「ドーン」と遠雷のような大砲の音が耳を衝いた。思わず顔を
       見合わせた親子の耳に、続いて「ドーン、ドーン」と砲声は冷たい空気を震わせた。
       息を詰めたように静まり返った茶の間に玉枝の溜め息が流れた。
        三発の砲声は戦争開始を知らせる鎮台の合図である。城下町に住む人たちには即刻  
       立ち退きを継げる鎮台のお触れである。
       「薩軍が来たようです」
        掠れ声で言う玉枝の膝は震えていた。
        かまどの火に頬を火照らせながら湯を沸かしていた女中のお松が、蒼白な顔で
       「旦那様、戦争です」  
        と叫んで台所の板張りにへなへなと座った。
       「薩軍が近くまで来た知らせだから、戦が始まるのは早くて明後日頃からであろう。落ち
        付くがよい」
        微笑しながら休がやさしく声をかけると、お松は「ふーっ」と大きく息を吐き、しばらく胸
        に手を当てていたが、赤みの少し戻った顔を玉枝に向け
       「ほんに恐ろしかこっです。まだ胸がドキドキしとります」
        と喘ぐように言った。
        休は住居を出ると、眺望のきく白川岸へ向かった。
        五日前の大雪は解け消えていたが、冷たい北風が全身を震えあがらせる。突風に着
       流しの裾がめくれるのを気にしながら、休は狐色に枯れた土手に上がった。
        足元の枯れ蓬の葉がカサカサと風に悲鳴をあげ、川面には白波が立ち、朝陽を受け
       てキラキラと冷たく光りながら白川は流れを続けていた。
        休は熊本城下から二里半の川尻方面から東の熊本へと視線を走らせたが、まだ何の
       異常も感じられない。安堵の胸をなでおろした休は、自分の住む池田手永半田村へ眼
       を移した。小さな麦藁屋根の農家が点散する集落の中に、生垣に囲まれた一際大きい
       甍の家がある。休の住む含窓義塾である。昨日まで集落を貫く道筋や畦道で凧揚げに喚
       声をあげていた童たちの姿も今日はない。大方先刻の砲声に驚いた村人たちは、家々
       で息をひそめて様子を窺がっているのであろう。冬枯れの赤茶けた広い田畑には、点々
       と積まれた藁小積みの他は何一つ見えない寒々とした光景である。
        遠く山手に近い小島往還は、熊本の街から避難する人達であろうか、人影や荷車など
       がしきりに動いているようである。
        土手の日溜りに腰をおろした休の瞼に、玉名郡の郷士の出で、休より八歳年下の親友
       池辺吉十郎の精悍な顔がうかんできた。

        明治十年、熊本城下では学校党、勤王党、実学党、洋学校派と新旧思想が渦巻き、対
       立を続けていたが、西郷決起の風評がたつと、学校党を中心に肥後武士の殆どは、薩軍
       呼応に激しく動き始めた。その学校党首領格の池辺吉十郎が三名の者と連れ立って突然
       やって来たのは、二十日程前の昼下がりであった。時勢を憂慮していた休は、懐かしさと、
       半ば緊張した複雑な気持ちで一行を迎えた。
        火鉢を囲むと吉十郎は座の空気をほぐすように
       「上田殿の総髪は貫禄があるですばってん、拙者の頭は寂しゅうなったですばい」
        と頭に手をやり、おどけてみせた。
        休は幼少よりことばを厳しく躾られているので武家言葉でないとしゃべれない。
       「ご時世でござる。池辺殿はちょんまげよりザンギリ頭がよくお似合いですぞ」
       など他愛ない話をしていたが、玉枝が入れた茶を吉十郎はうまそうに飲むと、膝をすすめた。
       「上田殿、折り入ってのお願いに参りました。知っとんなはるとは思いますばってん、我々
       学校党や勤王党の同志一千余名は、西郷殿に呼応して旗揚げしようと思うとりますけん、
       上田殿に戦の指揮ばして貰おうと思っとるとですが」
       (遂にきたか、だが皆のために敢えて越えねばならない坂だ)と休は月土を決めると
       「折角だが、薩軍に加勢するつもりは毛頭ないので、ご容赦くだされ」
        座は殺気立った息詰まるような重苦しさに包まれた。
        ひとりが眼を剥いて叫んだ。
       「何故です。上田殿は学校党の重鎮でっしゅが」
        その声には呻くような激しい反駁がこもっていた。
       「戦いには大義名分がなくてはなるまい。そこもと達の名目は」
        と休は静かに言った。
       「政府の遣り方にに不満だけんです。武士は家禄がなくなって生活に難儀しとります。百姓
       は地租改正で苦しんどります」
       「たしか武士も百姓も生活に困窮している。それは分かるが、現在は国家変革のとき、誰が
       政治をしても同じ道しかあるまい」
        眼光とうとうとした若い佐々友房が、その言葉を遮るように口を開いた。
       「いま西郷殿に呼応して世直しをせんと、秋月、萩の乱のごつ、不平士族の乱はとめどなく続
       き、農民一揆も燎原の火のごつ全国に燃えさかるでっしゅ」
        休は二十四歳の友房に慈しむような視線を注ぐと低い声で言った。
       「佐々殿は世直しと言われたが、世直しはすんで、今は幕府から帝の世の中、帝に楯突く
       ことは国を乱す逆賊となりますぞ・・・・・・・・。武士百姓町人とて戦になれば、家は戦火に
       焼かれ田畑は荒らされ暮らしは更に苦しくなりましょうぞ」
       「逆賊じゃなかです。勝てば官軍でっしゅ」
        と友房は顔を引きつらせて叫んだが、林桜園の原道館で水戸学を学び、皇室中心の考
       えをもつ友房はそれきり口を噤んでしまった。
        空が曇ってきたのか障子が薄暗くなり、背からぞくぞくと寒気が忍び寄ってくる。
       「雪が舞っております」
        玉枝がそう言いながら入って来ると、台十から炭を火鉢に継ぎ足し、お茶を入れかえた。
        休は湯飲みに手を温めながら潮時とみて口を開いた。
       「歯に衣着せず申すので、気にさわることがあれば勘弁くだされ。確かに肥後の国は維新
       の際に薩長土肥に遅れをとった。それで今度の薩軍決起は、挽回の機会と考えていられ
       るかも知れないが、十年前とは訳が違う。西郷殿の名前にまどわされて、ゆめゆめ情勢判
       断を誤ってはならぬと思うが」
       「では上田殿は、どう対応さるるお気持ちでっしゅか」
        と一人が訊ねた。
       「それがしは、旧細川藩のこの地を薩兵が勝手に通過することにさえ憤りを感じている。
       ましてや両軍がこの地を戦で踏みにじるとは」
        休は胸が痛んで先の言葉がでなかった。
        腕組して、塑像のように口を閉ていた吉十郎が手を膝に置くと
       「上田殿のお気持ちはよう分ったですけんもうお誘いはしまっせん。さすが上田殿は兵法
       師範、今のお話は我々への指針として肝に銘じましたけん、同志ともよく相談してみまっ
       しゅ」といって締め括り、機嫌よく茶請けの吊し柿や煮しめを食べると、うっすらと雪化粧し
       た道を帰って行った。

        その吉十郎が今朝の砲声にどう動くのだろうか。気遣う休に突如激しく乱打される半鐘の
       音が聞こえてきた。
       眼を凝らすと花岡山の山越しに、上空高く濛々たる黒煙が吹き上げている。
       ----お城が火事では----
        と思った時、頭から血がすーっと退いていくのを覚えた。
       休は我が家に向かって走った。頭が妙に熱く、体が宙に浮いているような感じでもどかし
       い。集落から湧き出た人々の声高な叫び声が半鐘の合間に聞こえてくる。
       「お父上、お城が火事のようです」
        家で待っていた勤が強張った表情で言う。
       「そうらしい」
        激しい動悸に休の声は掠れていた。
       「戦が始まったのでしょうか」
       「そうではあるまい。失火か放火であろう」
        入り乱れた足音とともに、近くに住む門弟たちが駆け付けた。
       「先生お城の一大事です。手伝いに参りましょうか」
       「戦の前だから、火事でもお城へは入れまい。そなた達だけで様子をみて見て参れ」
       「では行って参ります」
        勤たちは、袴の股立ちをとり草鞋の紐を締めると、風を巻いて走り去った。
       「お城が燃える」勤たちの後姿を見送りながら呟く休の胸は、城と自分を繋いだ一本の糸
        が、プツンと音をたてて切れたような遣る瀬無い空しさに襲われていた。
        上田家は代々細川家に仕え、禄二百石を食む兵学者の家柄であった。
        休は幼少時より藩校時習館で学び、群を抜いた成績を修めた。
       その才知は藩主慶順公(韶邦)の目にとまり、藩公世子の軍学師役を仰せ付かった程で
       あった。
       藩主の信任厚かった休は、天下の風雲急を告げる元治元年(1864)には破格の七百石
       待遇で、細川家京都藩邸留守居役に抜擢された。続いて慶應元年川尻町奉行。明治の
       初めは藩副奉行として活躍したが、明治四年廃藩置県を潮に、職を辞して山崎町の家を
       たたみ、半田村に引っ越した。
        半田村では塾を開き、漢学や兵法を教えて気儘に暮らしてはいるが、毎朝日の出ととも
       にお城を遥拝しているほど、城への愛着は人一倍強いものがあった。城の黒煙を見詰め
       茫然と佇む休の傍らに、孫をねんねこ丹前で負んぶした近所の老女が近寄ると
       「先生様、お城が火事てほんなこつですか」
        と言い、皺だらけの手で眼を拭いた。
        休は力なく頷き、
       「その上この風が心配だ」と呟くと、老女は城に向かい手を合わせ
       「南無阿弥陀仏・・・・・・」と小声で念仏を唱え始めた。
        老女が連れていた童は、しきりに青洟を啜りあげながら怯えた眼をしばたいている。
        休も知らず知らずに心で神仏に助けを求めていた。
        金峰山颪にあまどはカタカタとしきりに音をたてている。
        休が勤の帰りを待ち侘びて門前に出ると、闇に姿をかくした花岡山の上空は、まだ不気
       味に紅く染まっていた。
        ほどなく帰った勤は、はんど甕の水を柄杓で二、三杯立て続けに飲むと、手足を洗い茶
       の間に来てしょんぼりと坐った。
        行燈の火影に顔は疲労の色濃く、衣服には焦げあとが幾つも浮かび上がっている。
       「大儀でした」
        玉枝が労わるように言うと、納戸からどてらを持ってきて勤の背にかけ、火鉢で餅を焼きは
       じめた。
        お松が釜の湯を汲んで急須に入れる。
        やっと人心地がついたのか勤が
       「一、二の天守閣は焼けたそうです」と言って残念そうに俯いた。
        覚悟はしていたものの休の背筋に悪寒が走った。
       「お城は丸焼けか」
       「いいえ、宇土櫓や他の建物は延焼を免れたそうです」
       「それにしても、まだ空は赤いぞ」
       「お城は三時頃鎮火しましたが、天守閣から吹き上げた凄まじい焔が街々へ火の粉を降らせ、
       風下の坪井、上林をはじめ、所々に飛び火して民家は燃え続けております」
       「龍吐水なども出て、街は大変な混雑だったでしょう」
       「それが母上、街は避難する者、逃げ惑う者でごった返し、消火どころではありませんでした」
       「広がる火事で、死傷者も多いことでしょう。まるで無間地獄ですね」
        と玉枝が眉をひそめて呟いた。
       「お父上、これでは戦は出来ないでしょう」
        その事に思いを巡らしていた休は反射的に答えた。
       「お城の損害の程度だが・・・・・・・鎮台兵が焼け残った民家を、明日にでも焼くことがあれば
       戦が始まると思え」
       「なぜです」
        勤も玉枝も怪訝そうな眼を休に向けた。
       「橋を切り落とし、お城近くの民家は焼き払うのが戦の常套であろう」
       「そんなむごい事を」
        玉枝が屹度なって鋭い声を上げた。
       「戦とはすべて非常で残酷なものだ・・・・・・罪の無い人達の生命も、家も奪って仕舞うのだ」
        休は胸のつかえを吐き出すように、きつい声で一気に言った。

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